川赤子
脇道を北に進んだ秋芳尼一行はやがて川に沿った土手道に突き当たり、北西に進んだ。
「おっ、川が見えるぞ……荒川にしちゃ小さい川だな……」
丸太を組んだ筏で江戸に西川材を運ぶ漕ぎ手が見えた。
「これは新河岸川というのじゃ……もっと北の方に並行して流れる川が荒川じゃ」
紅羽が右手を庇にしてながめると、北に十倍の川幅はあろうという大河があった。
「本当だぁ……こちらの川は可愛いもんだ」
「地元の者は荒川を『外川』と呼び、新河岸川を『内川』と呼んでいるようじゃぞ」
江戸時代初期に川越藩主の松平信綱がその『内川』に九十九曲がりという改修工事をして、川越と江戸をつなげる舟運ルートをつくりあげたことで『新河岸川』と呼ばれるようになった。
「なるほど、江戸湾を『内房』、太平洋を『外房』というようなものか」
「まあ、近いかもしれぬのう……」
「竜胆ちゃん、この新河岸川はどこまで流れるのですか?」
「新河岸川を南東へくだっていくと隅田川と合流するのじゃ」
「おお、谷中鳳空院のそばを流れている川ですね! 舟か筏に乗れば楽して帰れるのですよ!」
「ほほほほほ……そうですねえ、帰りは舟を借りましょうか?」
「ぶるるるるっ!」
「あら、ごめんなさい……小馬ちゃんを乗せてくれる舟はあるかしら?」
松田同心が首をかしげ、
「はて……橋のない川の渡船には馬船があるでござるが……谷中まで乗せてくれる馬船は訊いてみないとわかりませぬなあ……」
「秋芳尼さま……言いにくいのじゃが、瓦偶駒は小頭の込めた神気で動いているのじゃ……たしか一日ほど経てば元の土塊に戻ります」
「あらまあ……そうでしかたか……よしよし……それまで一緒にいましょうねえ……」
尼公は馬の首を抱いてヨシヨシと撫でた。
「ぶるるぅ……」
川風に吹かれながら一行が堤防の道をすすんでいると、どこかで赤ん坊が泣く声がした。
「変だな……こんなところで……泣いている赤ん坊がいるとは……」
「子守娘が赤ん坊をおんぶして川に来ているのかもしれないですよ?」
――オギャアァ……オギャアァ!
赤ん坊が泣く声がする葦原を見やるが、それらしき人影もない。
「もしかして、捨て子じゃないですか!」
「それなら、大変だ……野良犬や野鳥に食われるかもしれない、探そう」
「はいなのです!」
「俺も手伝おう!」
土手道から葦原に駆けだした三人が泣き声を頼りに葦原へ向かった。
だが、嬰児の声が泣きやんでしまい、周辺を捜すが見つからない。
――オギャアァ……オギャアァ!
「おっ、今度はあっちから声がするぞ!?」
松田同心が指し示す方角の葦原へ三人は走った。
が、声は泣きやんでしまう。
――オギャアァ……オギャアァ!
「今度はあっちから声がするですぅ!?」
三人が回れ右をして走る。
黄蝶の右足がズボッと音を立てて泥濘にはまり、態勢を崩す。
「わっ……ぴえぇぇっ!?」
葦の下は泥沼で黄蝶が足を取られて転びかけたが、紅羽が受け止めた。
「気を付けろよ、黄蝶」
「ありがとうなのです」
「変だなぁ……捨て子なんて見つからんぞ!?」
そこへ瓦偶駒から降りた秋芳尼と竜胆がやってきた。
「待ってください……これはただの赤ちゃんではありません……川赤子の声でしょう……」
「あっ……川赤子かぁ……」
「川赤子? なんでござる、それは?」
「川赤子とは、川で溺死した赤ちゃんの霊ともいわれています……」
「なんと、赤子の幽霊とは……」
この時代の医療や科学は未発達であり、八人生まれた子供うち、大人に成長できるは一人の確率であった。
流産などによる水子や流行病や間引きなどもあり、赤ん坊や子供の霊が多かった時代ともいえる。
「松田殿、日本各地にはウブ、ノツゴ、赤子、山赤子、油赤子、オバリヨン、子泣き爺など赤ん坊のお化けや妖怪が多いのじゃ……」
「そうだったのか……」
比丘尼が両手を広げて、葦原の片隅に優しい声で呼びかけた。
「赤ちゃん……こちらへおいでなさい……」
秋芳尼の全身から翡翠色の癒しの神気があふれだした。
少しして、葦原の片隅から毬のような大きさの光る球体がふらふらと飛んできて、秋芳尼が抱きしめた。
「なんだ、あの光る球は?」
「……あれが川赤子じゃ……松田殿には光る球にしか見えぬが、我ら天摩衆には霊力があり、半透明の赤ん坊の姿に見えるのじゃ……」
紅羽と黄蝶もうなずく。
「なんと……霊力者には乳飲み子の幽霊が見えるのか……」
秋芳尼は赤ん坊を両手であやしていた。
「どれどれ……赤ちゃん、この世に未練があるのですか……そう……最後におっぱいが欲しいのね」
尼僧が襟元を開いて、白い肌の乳房を出そうとした。
「秋芳尼さま……かようなところで!?」
黄蝶がピョンと飛んで、松田の背後から肩車となって彼の眼をふさいだ。
「うわっ、何をする黄蝶!?」
「松田のお兄ちゃんは見ちゃだめですぅ!!」
紅羽が松田の両手をつかんで、ぐるりと後ろに向かせた。
「そそ……スケベは駄目だよ、松田の旦那」
「……いや、わかっている、すぐ眼を閉じて、見てはいない……」
秋芳尼は産児霊の口にたわわな乳房の先をふくませた。
「あっ……」
独身者には悩ましい声が聞こえた。
もちろん、秋芳尼はまだ母乳がでないが、霊体の乳飲み子は母乳を吸うまねだけで満足できたようだ。
「むう……川赤子が成仏していきまするぞ……」
秋芳尼が襟元をしまい、やっと振り向いた松田の眼には、光の粒子が天高く登っていくのが見えた。
「あれが川赤子の霊の昇天か……」
秋芳尼が南無阿弥陀仏と唱え、四人も追随して念仏を唱えた。
なにか温かい気持ちになって土手道にもどる。




