丸屋の阿茶狐
谷中の鳳空院から歩いて一時間半ほど北西の地に板橋宿があった。
「さすが四宿のひとつというだけあって、にぎわっておるのう……」
「馬糞もたくさん落ちているですぅ!」
「踏んづけるなよ、黄蝶……そそかっしいところがあるからな」
「失礼ですね……大丈夫ですよ!」
板橋宿は日本橋から二里八町あり、中山道の初めの宿場であった。
ここは品川・内藤新宿・千住とならび『江戸四宿』として栄えた。
宿場町には茶屋・酒楼・飯盛旅籠がのきをつらね、旅人や見送り人、馬方、商人、飛脚などでごった返していた。
板橋宿は長さ二十町九間(2,2km)もあり、宿場町は江戸に近い東から下宿・平尾宿・仲町・上宿で家数五百軒以上あり、旅籠は五十四軒あった。
平尾宿がわりと閑散とした料理屋・妓楼など中心の町で、仲宿が武士相手の本陣から町人相手の平旅籠や商店が多かった。
上宿には木賃宿(商人宿)や馬喰宿(馬子宿)などもあり、そんな客層目当ての安い一杯居酒屋などもあってにぎわった。
脇本陣は三町にひとつずつある。
五人は中宿と上宿の間にある石神井川に架かる長さ九間、幅三間ある板製の橋を渡った。
橋梁は三本の支柱が三ヶ所打ち込まれ、橋はタルのように少し沿っている。
「この橋が板橋の地名の由来じゃそうだ」
「ぴえっ……そんな由緒ある橋を土足で歩いていいのですか?」
「いんじゃない……みんな歩いているし」
巳刻半(午前十一時)を知らせる鐘の音が聞えた。
寺社方同心が駒の上でお尻の位置を変えている尼僧を見やり、
「秋芳尼殿、少しはやいですが、料理茶屋で休んでいきましょうか?」
「そうですね、松田殿……食事にしましょうか」
「わ~~い……お昼ごはんですぅ!」
美貌の尼僧は眼にはいった看板を見て、
「あちらの丸屋にまいりましょう」
「そうですね」
板の橋をはさんで南北両側に料理茶屋があるが、どちらも『丸屋』といった。
川に面した部屋は懸崖造りで、川をながめながら飲み食いができる。
表の杭に駒をつなぎ、五名が店にはいると、茶汲み女が奥の川が見える畳敷きの席に案内した。
めいめい菜飯や蕎麦などを注文して、おいしく食べはじめた。
「あっ、上流から筏が来るのですよ」
「あれは川越などの山から運ばれる西川材じゃな……」
石神井川は現在より水量も多く、魚も住んでいて、上流から木材などを運ぶ筏や、特産物をのせた船がとおるのが見える。
ちょうどいい松の木が土手から川にせりだして庇をつくり、川端で子供達が釣りをしているのが見え、なかなか風流なものだ。
松田半九郎も何気なく板橋を見ると、行き交う人々の中から見知った顔を見つけた。
「むっ……あの二人は……」
なにか子細ありげな表情が妙に気になった……
「どうしたのですか、松田のお兄ちゃん?」
「いや、ちょっと……知り合いがいたので逢ってくる……お前達は食事をすませたら、大木戸に行っていてくれ!」
松田同心は急いで蕎麦をかきこむと、差料をつかんで料理茶屋を出て行った。
「へんな松田のお兄ちゃんですねえ……」
「食事はゆっくりと味わって食べないともったいないのにな」
見送った黄蝶たちが視線を座敷の膳に戻す途中、
「あっ、こっちの壁に龍の絵があるのですよ!」
「雲龍図の掛け軸じゃな……龍が雲間を飛ぶ見事な絵じゃ……」
「ほほほほ……龍神は水を司る神ですから、店を火災から守る願いでもあるのでしょう」
「ほへぇ……なるほどなのです……」
黄蝶が視線を戻す途中、隣の席を見て、
「あっ、あそこにいるのは……」
「どうした、黄蝶?」
黄蝶がとてとてと屏風で仕切られた隣の席に歩いていった。
背中越しに稲荷寿司をパクパクと食べ、甘酒をゴクゴクと飲んでいる若い娘がいるのだが、黄朽葉色生地に『キツネにアラレ』という洒落た江戸小紋を着ている。
「あの江戸小紋……どこかで見たような……」
黄蝶が前を覗きこむ。
「やっぱり、阿茶ちゃんですよ!」
「ぶふぅぅぅ!! ……いつぞやの人間たちかい!?」
江戸小紋を着た娘が驚いて、思わず頭から耳、お尻から尻尾が出てしまった。
「わわわっ……いけない、変化がとける!!」
阿茶は両手で頭の耳をおさえて隠す。
「わ~~もふもふの尻尾なのですぅ!」
黄蝶が阿茶の尻尾に抱きついて頬ずりした。
「ひゃん!! そこは敏感なところだよ!」
「なんじゃ……以前出会った狐の国に住む阿茶娘か!?」
「そういえば、板橋から王子権現はすぐ近くですねえ……」
紅羽がやって来て、ジト目で、
「阿茶……まさか、お前……また木ノ葉のお金でただ食いしようって魂胆じゃないだろうな」
「ぎくぅぅぅ……いやいや……ソンナコトナイデスヨー」
阿茶が眼を右に泳がせた。
「まあまあ……ここはわたくしたちが代金を払いましょう……狐の国の幸菴狐殿にいただいた変化玉のお礼です」
「まあ、確かにそうですが……」
「わ~~い……さすが秋芳尼さまはお優しいよ!! 大好きぃぃ!!!」
阿茶が尼御前にピョンと抱きついた。
「こらっ!! キツネ!!!」
「気やすく秋芳尼さまに抱きつくでない!!」
竜胆と紅羽が阿茶狐の左右の肩を両側からガッシとつかんで、ひっぺがした。
「いやん……ご無体なぁぁ」
「何がご無体だ!!」
「あらまあ……ほほほほほほ……」
ともかく阿茶も席にくわわって、一ヶ月ぶりの再会であれこれと近況などをおしゃべりした。
「なんだってぇ!? 武蔵の国に河童退治に行くって!?」
「おお……そういえば、阿茶たち妖狐一族は、河童妖怪と交流があるのか?」
「いや、ないねえ……地底の狐の国には狸や猫又といった妖怪やお化けも来るけど、河童は来たことがないねえ……縄張りが違うのさ」
「縄張り?」
「ああ、そうさ……武蔵国は川が多くて河童たちが多くて河童の縄張りさ……小畔川の小次郎、伊草の袈裟坊、小沼のかじ坊なんかが有名さ」
「へえぇぇ……武蔵国は河童が多いんだなあ……」
「そして、さらに利根川には関東の河童一族をたばねる河童の女親分、禰々子河童が縄張りにしていて有名だねえ」
「河川池沼が多い武蔵国は、さしずめ河童天国じゃな」
「ともかく、河童は得体がしれないところがあるからねえ……尻子玉を抜かれないように気を付けたほうがいいよ」
「尻子玉かあ……まあ、せいぜい気を付けるよ」
秋芳尼たちが座る丸屋の懸崖造りの座敷から外……橋をはさんで南側に建つもう一軒の丸屋の席……その薄暗がりに、二つの影法師がいた。
「……あれが標的の尼御前一行か……」
「思っていたよりも小娘の護衛ですな、須佐美の旦那……」
「ああ……しかし、天摩流とかいう武芸の達人だというぞ……」
「一応、きゃつらの手の内をみておきますか……」
「ああ……引又宿までの道のりは長いからな……」
影法師たちは手酌で酒をあおった。




