百の目をもつ女
「や……ややややややや……」
「ひえええええっ!」
駕籠のなかにいるはずの、赤い着物女はいなかった。駕籠の底部にある座布団を触ると、なぜかぐっしょりと濡れていた。
「だ……誰もいない……いつの間に出ていった? おい、熊公……女が出るのをみたか?」
「いいや……いいや……オイラは見てねえぞ……あの女……幽霊だったんじゃ……」
「まさか……夏でもない春に……幽霊女かよ……」
おろした駕籠の底部から水が地面を塗らし、さらに二人の駕籠かきの足元まで伸びてきた。草鞋に触れそうになり、大の男二人が慌てて後退りする。
「もうし……駕籠屋さん……」
二人の背後から消え入りそうな女の声がした。八郎兵衛と熊吉は心臓が飛び出そうになるくらい驚いた。そして、恐る恐る振り向くと、長い髪を結いあげもせず、長く伸ばした女がいた。顔も長い髪で見えない。
「だ、だだだだ……誰でい!」
「お化けだあああ……ひえええええ……」
震え声で相手を誰何する八郎兵衛。熊吉は相方の後ろで震えながら覗いている。
「失礼ねえ……私だよぉぉ……」
長く垂らした女の髪が風でふき流され、素顔が見えた。青白い顔だが、美貌の女――駕籠に乗っていて、消えた女であった。
「い……いつの間に……俺たちの背後に……」
「それよりもさ……あんた達の……元気な目玉をおくれよ……」
「目玉だと? なんのこっったい?」
黒髪美女がニッと笑うと、口の端が耳まで裂けた。そして、額に、頬に、顎に、首に、喉元に、腕に、足に一文字の切れ込みが生じる。そして、その裂け目がカッと見開くと、すべてが眼球になった。すべてがまぶたを閉じ、視線をキョロキョロと動かす。
「いひひひひひひひひひひひひひ……」
八郎兵衛と熊吉は腰を抜かして絶叫した。妖怪女の手が長く伸びる。腕にも目玉がたくさんついていた。両の掌を二人の男の双眸に置く。氷のように冷たい手である。
「ぐああああああああああああっ!」
女が手をどけると、八郎兵衛と熊吉の両目が無かった。目のあった眼窩には、肌肉が覆いかぶさり、のっぺらぼうのようになっている。
「目……目がああああ……」
「何も見えねえよ……真っ暗だあ……」
「おいらの……目玉を……返してくれよぉぉ……」
八郎兵衛が両手で目のあった位置を何度も触りたしかめる。熊吉は地面に両手をついて、はいずり回っていた。
「ほほほほほほほほ……元気な目玉が手にはいったわ……」
女が両手を広げると、左右の掌に男の目玉が二つずつ埋め込まれ、ギョロギョロと動いていた。これが江戸を騒がした妖怪百々目鬼騒動の幕開けであった――
十代将軍徳川家治の時代――天明元年四月下旬、西暦でいえば1781年の宵の頃。




