異国船マキューラ号
千石船銀鮫丸は風を帆に受け、青い海面に白波を蹴立てて進んでいく。
房総半島竹岡の平水区域まで足を延ばしていた。
甲板で操船をしていた水主が左側の海に、灰褐色の体長11メートルほどのコクジラが泳いでくるのを発見した。
「鯨だ!! ありゃ、コクジラらしいぞ!!」
「帆をたため!!」
鯨類はふだん海中で生活するが、哺乳類であるゆえ、時々海面に浮上して空気を呼吸する。
そのとき、船と衝突する危険があるので、100メートルも近づいたら、船を低速にして離れるか、停船するのが常識だ。
慣れた捕鯨漁師でも、鯨の行動には予想がつかないことがある。
しかし、コクジラは銀鮫丸から遠く離れたまま、江戸湾の奥へ波を蹴立てて去ってしまった。
「ふうぅ……鯨とぶつからずに良かったぜ……」
「しかし、あの鯨……何かから、必死に逃げているみたいだぞ?」
「きっと、シャチか、鯨捕り漁師にでも追われてきたんじゃねえか?」
「そうかもな……」
銀鮫丸甲板下では紅羽達が扉を開けて様子をさぐっていた。
見張りとおぼしき水主が廊下を歩いてくる。
紅羽はそっと扉を閉めた。
この虜囚部屋に用があるのか、それとも別の部屋か?
ごくりと唾をのみこみ、三人は様子をうかがう。
(この部屋に入ったら、襲いかかって、ふんじばるぞ!)
(わかったのですぅ!!)
(承知しました!)
(了解だぜ)
水主は別の部屋の扉を開け、何か物を置く音がした。
しばらくすると、元の方向へ戻り、階段を昇る足音がした。
ほっと息をつき、紅羽が廊下に出ると、人影は見えない。
「船の漕ぎ手の部屋がないようだな……するとこれは、五大力船じゃなくて、千石船のようだな……」
「ああそうだ……くわしいじゃねえか」
「どう違うのですか?」
「それはねえ、黄蝶ちゃん……五大力船も千石船も基本は帆に風を受けて航海するけど、逆風の時もあるだろう?」
紅羽が喋ろうとしたのを、左七郎がしゃしゃり出た。
「あるですねえ……」
「五大力船は大勢の漕ぎ手をつかって海を進む……けど、千石船は横風や逆風のときでも奔走できる技術があって、少人数で動かせるんだぜ」
千石船とは、特定の船舶に限らず、米千石(積載重量百五十トン)を積める大型船の意味であったが、十八世紀中頃に弁才船が大量に普及し積石数に関わらず、弁才船の通称にもなっている。
渡海屋繁蔵の持ち船・銀鮫丸は二十四反帆、千石積み、全長二十九メートル、幅七百五十センチの大型船だ。
「なるほどぉぉ……」
「この千石船は銀鮫丸といって……水主が十五人から二十人くらいで航海できるんだ……たしか、今回は渡海屋繁蔵もふくめて十五人のはずだ」
「すると、渡海屋繁蔵と抜荷買い一味はほとんど甲板の上で帆を操り、舵取りなどをしているはずだな……」
「そういうことだ……おっと、紅羽とか言ったな……お前の太刀のことなら、心当たりがあるぜ」
「どこだ!?」
左七郎の案内で入った広い船倉に積荷がならぶ。
主に薪炭の束、真水の入った樽、食糧の入った行李などだ。
木更津湊で見かけた水晶像の入った木箱もある。
左七郎が案内した長持ちを開くと、日本刀が幾つか入っていて、探してみると、紅羽の比翼剣も左七郎の刀もあった。
「これは比翼剣! よかったぁ……あたしの愛刀が戻ったよ」
紅羽が太刀を持ち上げ、頬ずりする。
「どうしてこんなに日本刀があるのですかねえ……」
「それはねえ、黄蝶ちゃん……日本刀は出来がよくてね、平清盛の時代から輸出品として海外に売られているのさ。渡海屋は水晶像の他にも日本刀をマキューラ号の連中に売る予定なんだろうな……」
「マキューラ号という異国船は密輸のために、日本まで来たのですか?」
「いいや……本来は捕鯨のために来たんだ。渡海屋は奴らと交流があって、捕鯨船の欲しいもの……真水・食糧・燃料の薪炭なんかを都合する。渡海屋は異国の珍しい品……生糸、織物や砂糖、美術品などを手に入れているんだ」
「なるほどなのです……」
「ラパッシュ船長は髭面で大男だ……部下もがっちりした海の船乗りで、奴らも渡海屋と合力したら厄介だ……外房へ出る前にかたをつけねえといけねえぜ」
「おおっ! 左七郎さんは詳しいですねえ……」
「へへ……まあねえ……」
「こいつは、元抜荷一味の用心棒だからな!」
「そうだけどよ……もっと、言い方があんだろがよ!」
などと、言いあいをしていたら、船倉に四人の水主が木箱をもって入ってきた。
「なんだ、お前ら……いつの間に……」
紅羽が太刀の柄をその男の脾腹に突き、男が呻いて崩れ落ちる。
「野郎っ!!」
黄蝶を掴みかかった水主だが、黄蝶は跳躍して男の頭に両手をつき、跳び箱のように向こうへ乗り越え、その時勢いよく頭を押したので、水主は床に潰れた。
「うぎゃつ!!」
その首筋に手刀を当てて気絶させる。
「裏切る気か、左四郎!!」
「裏切りじゃねえ、正義に目覚めて、表返るのよ!!」
左七郎が打刀を抜いて、水主の首筋に峰打ちを喰らわせ、昏倒させた。
「なんだこの犬!!」
白犬イーマに匕首で切りかかった水主は、その犬が眼前でふるふると震え、形を崩して、褐色の美女に変形したことに驚き、硬直した。
「余はイナンナ……金星王朝の統治者である!!」
イナンナ女王が槌矛の柄で水主の鳩尾をついて喪神させた。
これはすべて須臾の間の出来事である。
「おい……あの犬、ヤモリから犬になったと思ったら、今度は異国の人間の女になったぞ!? 妖怪変化なのか? それに、お前は扉を不思議な術で燃やしたし、いったいなんなんだ!?」
「ああ……あたし達は妖霊退治人で、修行をして神通力を得たのさ!」
「このイーマちゃんは金星から来た天狗犬だから、しゃべったり、変化の術がつかえたりするのですよ」
「妖霊退治人に……金星の天狗犬だとぉ……何がなにやら、信じられんことばかりで、頭がこんがるぜ……」
紅羽と黄蝶が船倉から頭を出して周囲をうかがい、音をたてない忍び足で廊下を進む。
上の甲板に昇る階段前で止まり、
「甲板の上には、もっと人がいるみたいですよ……」
「なあに、今回は油断して捕まったが、抜荷買い一味なんて、あたし達が本気を出したらイチコロさ」
紅羽が太刀を構え持ち、黄蝶もつられて円月輪を両手に構えた。
「むふぅ……それもそうですねえ……さっきのお返しですぅ!!」
その時、船が大きく揺れた。
「ぴえええええっ!!」
「大波かっ!? もしかして、外は嵐か?」
甲板の上を首だけ出して窺うと、真ん中に帆が立ち風を受け、水主たちが左舷に向かって集まっている。
青い海原に無数の白波が生じては消えてゆく。
「頭領!! 船が……銀鮫丸の舵取りがうまくきません……」
「潮に呑みこまれたか? 帆の向きを変えて、潮流から出るんだ」
舳にいる見張りの水主が渡海屋を呼んだ。
「頭領!! あそこにマキューラ号が見えますぜ!」
見張りが遠眼鏡を渡海屋繁蔵に渡し、彼もそれを確認した。
縦帆三本マストで全長30メートルほどある英国製スクーナー型の捕鯨船マキューラ号である。
「さっき、コクジラが逃げるのを見やしたが、きっと、マキューラ号に追われていたんじゃねえですかい?」
「なるほど……ラパッシュ船長の野郎……役人船がうるさいから、内房(江戸湾)へ入るなと言っておいたのに……」
「きっと、鯨捕りに夢中になってここまで来たんじゃ?」
「……莫迦な野郎だ……しかし、船が傾いてねえか?」
「本当だ……変ですね……座礁したのかな?」
そういっている内にも銀鮫丸がぐんぐんとマキューラ号に近づいていく。
見張りの水主は手庇で眼を凝らす。
「頭領!! あそこに島が……マキューラ号はあの小島にぶつかって難破したのでは?」
「う~~む……鯨捕りに夢中で座礁したとは莫迦な野郎だ……しかし、江戸湾のここらへんに小島や岩礁があるとは聞いたことがないぞ……」
「ありゃあ、もしかして……海底火山でできた新島じゃあねえですかい?」
「火山による新島なら、噴煙があるはずだが……」
「それもそうですね……」
見張りの水主が大声をあげた。
「頭領!! 船があの島へ引き寄せられていますぜ!!」
「まだ潮流に呑まれたままか? ……帆の向きをさらに大きく変え、大舵をいっぱいだ!」
「ははっ!!」
水主たちが慌てて帆柱に取りつき、横帆を変えた。
船の勢いが制限され、流れから離れるべく舳の方角を変えた。
「ふぅ……これで離れることが……」
だが、横向きとなった銀鮫丸は、ますます黒い小島に近づいていく。
「わああああっ!!」
「ぶつかるぅ!!」
「野郎ども、その辺につかまれ!!」
そして、銀鮫丸は大きな音を立てて小島にぶつかり、止まった。
船室に身をひそめていた紅羽たちは壁や柱などにつかまって難を逃れた。
「止まったようだな……」
「ぴええええ……舌をかみそうになったのですぅ!!」
「くそっ!! 黄蝶ちゃんが怪我するじゃねえか……渡海屋のやつ、なにやってんだ!!」
口々に文句をいう三人に対し、白犬イーマはじっと神妙な表情で気配をうかがっていた。
「どうしたのですか、イーマちゃん?」
「……おそらく、この船は……」
「えっ?」
「何かおかしな力で引き寄せられたのかもしれません……」
銀鮫丸の甲板では帆筒や船べりにつかまった渡海屋と手下の水主たちが、息を吐いて起き上がった。
「頭領!! 銀鮫丸が破損したようです!!」
「くそっ……こんな莫迦なことが……船体に穴が開いてないか、調べろ!!」
「へい!!」
水主数人が矢倉から階段下へやってくる。
「妙なことになったな……反乱を起こして船を乗っ取るつもりだったけれど……」
「おい、紅羽……俺たちは船の素人……ここはいったん、身を隠して様子をみたほうがいいぜ……」
「う~~ん……そうだなぁ……」
四人は船体がぶつかった側とは反対方向の刀などに積荷のある船倉に身を隠した。
一方、渡海屋繁蔵が甲板から島を見ると、捕鯨船の倍はある磯岩島であった。
銀鮫丸が接舷したのに、マキューラ号から人が出てこない。
「変だな……ラパッシュ船長の野郎はどうしたんだ?」
「房総の役人船か船手組に捕まったんじゃ……」
「いや……ラパッシュ船長だったら、最新の洋式銃で幕府の役人どもなど蹴散らしているだろう……」
「じゃあ、難破のときの怪我人が多くて動けないか、船の修理に夢中なのでは?」
「うむ……なら、ラパッシュに恩を売っておくか……マキューラ号を調べる。紋次と捨松、寅造、通詞の徳兵衛はわしについてこい!!」
徳兵衛は元長崎商館に務めた通詞崩れで、阿蘭陀語のほかに英語も話せる。
手下たちは「へいっ!!」と返事をして渡海屋についていく。
千石船銀鮫丸から縄梯子が下ろされ、医療品と密輸した洋式銃をもって、謎の小島に降り立つ。
繁蔵が銛で小島の岩肌を突ついてみた。
鯨は頭部や背中にフジツボなどの寄生動物が付着していることが多いため、岩にも見えるのだ。
「どうやら、鯨の背中じゃなくて、本物の硬い岩のようだな……」
「普通の岩島のようですね……」
渡海屋繁蔵たちは島に傾いて接舷している捕鯨船マキューラ号に近づいていった。
「こりゃあ……島にぶつけたようだな……大穴が開いてやがるぜ……」
銀鮫丸からは見えなかったが破船した船を修理すべく、木材や大工道具が散らばっていたが、人影は見えない。
繁蔵たちは縄梯子をのぼって、マキューラ号船内を調べてみることにした。
甲板には誰もおらず、捕鯨ボートが六隻あったが、降ろされた形跡はない。
捕鯨銃や銛、鯨の解体道具などが散らばり、採油用の炉を調べると、火が消えかかっている。
船室にも船長室にも、食糧庫、油用の船倉などを調べたが誰もいない。
「変だな……少し前まで人がいた気配がする……だが、誰もいない……」
「気味が悪いですね……まさか、ラパッシュ船長たちは、舟幽霊にとっつかまって、海に呑みこまれて、さらわれたんじゃあ……」
「……こんな真昼間に舟幽霊か……いや、海では信じられんこともあり得る……案外、そうかもなア……」
「そんな、まさか……」
「灰か燃えさしの薪でも海に投げ込んでおけ」
「舟幽霊を追っ払う呪いですね……」
迷信深い船乗りの二人が炉の燃えさしの木切れを海に投げた。
「ここで考えても始まらねえ……交換予定の積荷を銀鮫丸に運んで、船を修理し、銚子にでも身をひそめよう」
「さすが、頭領……」
「転んでもタダでは起きない……」
麻袋にはいった洋式銃などの密輸品を小島に下ろす最中、反対側の海面が発光し、ブクブクと大きな泡音がして、何事かと振り向く。
謎の小島の左方の海面が泡立ち、波飛沫をあげて、巨大な影が出現した!!
「なんだあれは!?」




