絹を裂くような女の悲鳴
「ちょっと、轟竜坊さんとかいったわね……あたし達じゃ暗闇坂の妖怪に太刀打ちできないとでもいうの!」
紅羽がムッとして羽黒修験者の轟竜坊にくってかかる。
「しか~~り、どうせ今まで低級妖怪や幽霊なんぞを退治したのだろうが、暗闇坂の妖怪はすでに人を何人も殺してお~~る。お前たちも莚の仏のようにカラカラの木乃伊となるのがオチ……まだ若いんじゃ、お家で裁縫仕事でも習ってきなさ~~い」
「うき~~~、莫迦にしちゃって……あたし達はそんじょそこらの妖怪退治屋とは腕のほどが違うんだからね!」
「ほほ~~う、ならば実力を見てやろうではないか……かかってこんか~い」
羽黒山伏の轟竜坊が錫杖を構えてグルリと回し、三人娘に対峙する。
「おもしろいじゃない、コテンパンにしてやるわ!」
紅羽が縁台から立ち上がり、左手の指で鍔を押して一寸ほど刀身を出す。これは鯉口を切るといって、素早く抜刀するための予備動作だ。
「おいおい……紅羽、頭に血が上りすぎだぞ……」
「挑発にのっちゃダメですよぉ~~」
頭に血が上った紅羽を竜胆と黄蝶が止める。
「ほう、威勢がいいな……名を聞いておこう」
「あたしは妖怪退治屋の紅羽よ」
「男侍のなりをしているが、まだ小便くさい小娘じゃな……まあ、あと十年もして尻の肉がもちっとつけばマシになるか喃?」
「きゃああああああああっ! どこ見てんのよ、この助平山伏!」
紅羽が赤面し、両手で尻をおさえて高い声をあげる。竜胆があきれ、黄蝶がクスッと笑う。
「……おい、紅羽。急に乙女みたいな声をあげるでない……」
「紅羽ちゃん、可愛い声ですぅ♡」
「だってだって、あたし乙女だもん! お尻は性的意地悪だもん!」
紅羽の声を聞いて、暗闇坂を一本松まで上ってきた同心の田亀武兵衛と十手持ちの赤鼻の源五郎が駆けつけた。
「絹を裂くような女の悲鳴……いったい、どうした?」
「あっ、八丁堀の旦那。この山伏が変なんです」
「そうです、我が輩が変な山伏であ~~る。って、変な山伏ではないわいっ!!!」
「さっきの娘だな……この山伏が辻斬りをしようとしたのか?」
「えっ!? ちがうよ……あたしのお尻のお肉が足りないって、助平なこといっただけだけど……」
「やかましいっ! 取り込み中だっ!」
「え、えぇぇぇ~~~……」
田亀同心と源五郎親分は鋭い目で、蓬髪に髭面の羽黒修験者をぐるぐる回って検分した。
「う~~む、見れば見るほど怪しい奴だ……なあ、源五郎?」
「へい、まさしく……おい、山伏。朝はどこにいた?!」
「おいおい……まさか犯人が見つからんから我が輩を下手人にしたてる気ではないだろうなあ? 儂は山伏で、太刀など持っとらんぞ?」
「山伏だって戒刀は持っておろう……ちょっと、奉行所まで同行してもらおうか……」
「神妙にしろいっ!」
田亀と源五郎が十手を突きつけて大柄な山伏をどうにでも連行しようという肚だ。
「それに暗闇坂の辻斬りは人間が犯人ではないぞい。凶悪な妖怪の仕業じゃ。我が輩は妖怪退治人の轟竜坊さまじゃ!」
「へんっ! 妖怪だの幽霊だの、この世にいてたまるかい! ねえ、田亀の旦那……」
「そうそう……儂は生まれてこのかた幽霊も妖怪変化も見たことがない」
「や~~れやれ……これだから妖怪や幽霊を見たことのない者は説明に困るわい……」
「「なにおおおおおっ!」」
「たかが町方同心風情が……山伏は寺社奉行所が管理しておる、貴様らは手出しできぬわっ」
「ぬうぅぅぅぅ……寺社奉行所……かあ……それを出されると……」
江戸幕府には三奉行があり、寺社奉行、勘定奉行、町奉行で構成される。なかでも寺社奉行は三奉行のなかで筆頭格であり、のちに大阪城代や京都所司代をつとめてやがては老中にまで出世するエリートコースであるのに対し、町奉行は一部の例外をのぞき、そこまで出世はできない。
なので、町奉行所と寺社奉行所が喧嘩にでもなったらおのずと町奉行のほうが遠慮してしまう。下手をすればヒラ同心の田亀などは町奉行に不興を買い、クビになるやもしれない……さすればもう甘い汁は吸えない……
「旦那あ、どうしやす?」
「むむむ……いや、このふてぶてしい態度は下手人の開き直りに違いない……轟竜坊とやら、町方同心でも僧侶や武士を吟味はできるんだ。その上で寺社奉行所へ引き渡す……」
「おい山伏、神妙にしないとお縄にするぞ。大人しくついて来い!」
「むははは……大手柄にはならんが、小手柄にはなるだろう……」
「なんじゃと……面倒くさいのう……どうせ無罪であるのに……おん・きりきり……」
田亀同心と源五郎親分が山伏を後手に縛ろうと近づいたとき、羽黒修験者は錫杖を回転させ、先にある遊環をジャラジャラン! と鳴らした。
「おん・きりうん・きゃくうん……羽黒忍法・心の一方!」
田亀同心と源五郎親分がビクンと体をしならせ、その場に不自然な姿で立ち止まった。
「ぬぐぐぐ……うご……けん……」
「旦……那あ……これは……いったい……」
「羽黒修験道の秘術、不動金縛りの術じゃい。本来は人に憑りつかんよう悪霊の動きを封じる霊縛法じゃが人間にもつかえるんじゃい。ま、半刻(一時間)ほどで解けるから安心せい……」
『心の一方』とは、二階堂流剣術の創始者である二階堂主水と、孫の松山主水が得意とした秘術で、「すくみの術」ともいう。現在でいう瞬間催眠術であろうか? 継承者が絶えたといわれるが、羽黒修験道に後継者がいたようだ。
「なんですってっ! 羽黒忍法?!」
「どうやら、ただの山伏ではなかったようじゃのう……」
「もしかして敵ですか?!」
紅羽、竜胆、黄蝶が羽黒忍法と聞いて色めき立つ。
「轟竜坊! もしかして、蛭沼一派か雨小路家に雇われた刺客の忍者か!!」
紅羽の問いに轟竜坊がゆらりと振り向いた――