恐怖の爪痕
拳固を振り上げた赤鼻の源五郎であったが、右手が小太郎の頭の手前でピタリと停止した。
「な、なんだぁぁ……」
顔を赤くして右手を動かそうとする岡っ引きだが、ウンともスンとも動かない。
目をつぶって怯える小太郎であったが、中々拳固がこないので薄目を開けると、大きな背中が目に入った。
「まあまあ……親分さん……」
涙目になって怯える小太郎の前に、貸本屋の茂平治が間に入ったのである。
「なにぶん子供のした事でげすし……ここは穏便に……これでタバコでも……」
茂平治がするりと赤鼻の源五郎の動かない腕の袖の下に小粒銀をいれた。
すると、急に岡っ引きの右腕が動きだし、タタラをふんだ。
「なんだぁ、今のは……腕がつったのかな?」
訝しる御用聞きの源五郎。
その間に子供達は茂平治の後ろに集まり、腕や袖にすがりついた。
「ま……まあ、よかろう……なに、俺も本気じゃねえ、ちょいと驚かせただけだ……ところでおめえはこのガキどもの知り合いか?」
「へへへへへ……御ひいきにしてもらっているお店に出入りさせてもらっている、しがない貸本屋でして……茂平治といいやす、お見知りおきを……」
「貸本屋か……」
「あっしは昔、石州で百姓をやっていたんでげす。幼い弟や妹たちがいやしたんですが……飢饉で亡くなっちまいやして……この子たちを見ると、なんだか、ほっとけなくてねえ……」
こう、身の上話をされると、さしもの源五郎も気勢がそがれた。
「ん……そうかい……そりゃ、気の毒にな……ところで、昨日、今日と怪しい奴は見なかったか? 襤褸をまとって、頭巾を被った背の高い奴を……」
「さあて……そんな妙な奴は観たことありやせんねえ……ボクたち、嬢ちゃんたちはどうだい?」
子供達もそんな怪しい奴は見なかったという。
「そうだ……子供といやあ、ガキども、さいきん『ももんがあごっこ』をしなかったか?」
顔を見合せ、おびえる子供達。
茂平治がなだめて訊くと、さいきんは鬼ごっこと隠れん坊しかしてないという。
「ああん……本当かぁ? ……う~~む……どういうことだ?」
首をふりふり、赤鼻の源五郎が去っていった。
子供達がほっとして、茂平治にすがりつく。
「よしよし、怖かったねえ……あっしが飴を買ってやるから、元気をだしな……」
茂平治が通りかかった唐人飴売りを呼び止め、飴を買い、子供達にふるまった。
飴売りにもいろいろあるが、鳥毛のついた唐人笠をかぶり、唐人服に沓をはいた、いわばインチキ外国人の扮装をした唐人飴売りは人気があった。
飴を買ったお礼に「ハッホニホロホニホロ~~」という陽気で珍妙な唄と踊りを披露すると、ようやく子供たちに笑顔がでた。
「そろそろ夕飯の時間だ……気をつけてお帰り」
「ありがとう、茂平治さん!」
と、子供達が手を振って帰っていった。
丸顔にドジョウヒゲの唐人飴売りが訝しげに、
「岡っ引きが何か探ってたようですが、何か事件でもあったんですかい?」
「いえね……山城屋さんと西田屋さんの中庭に昨日今日とボロキレを着た不審者が入り込んだようで、それで探しているとかで……」
「ほほう……じゃあ、大したことはなさそうだなあ……それじゃあ、貸本屋さん、あっしにはもう声をかけないでくださいよ……」
「ええ……そりゃあもう……」
そう言って、貸本屋と唐人飴売りは正反対の方向へ去っていった。
同心と岡っ引きの探索結果は、怪しい者はいなかったという事だった。
結局、怪しい奴を見たという唯一の証人であるお真由に、座敷で二度目の訊き込みとなった。
おびえるお真由であったが、父の嘉右衛門と母のお浜になだめられ、なんとか一部始終をくわしく話した。
「するとまた、二階でたまたま目撃したのか、そのボロをまとった怪しい男を?」
「はい……」
「訊き込みをしたが、この辺りに怪しい奴はおろか、お菰さんだってこの辺にゃいなかったんだがなあ……子供も『ももんがあごっこ』で遊んでないという話だ……しかも、二度とも怪漢を見たのは娘のお真由さんだけだってんだ……するってえと、これは……なあ、源五郎……」
「へい、言いにくいんですが……お嬢さんは貸本の読み過ぎで夢と現実がごっちゃになったんじゃねえんですかい? 近所の人に聞いたら、武蔵屋さんとこのお嬢さんは本の虫だって、いってやしたよ……」
御用聞きに空想癖のある少女の世迷言、のようなことを言われて、お真由は仰天して、背筋がのびた。
「まあ、夢見る年頃だしなあ……うたた寝でもして、夢でもみたんだろう?」
「えっ……でも確かに……私……私……」
「だいたい、わしらは夜嵐党の探索や江戸の平和を守るために、朝から晩まで市中を駆けずり回って大変なんだぞ……」
「まったく、旦那の言う通りでさ……御上の仕事は多忙でしてねえ……」
鬼瓦のような顔の田亀同心と強面の赤鼻の親分に迫られ、年端もない少女であるお真由はすっかり萎縮してしまった。
二人ともヘボ将棋をして油を売っていた事はおくびにも出さない。
「まあまあ……田亀様、源五郎親分……娘が粗相をいたしまして、たいへんなご迷惑を……」
そこへ、嘉右衛門が銚子と肴の入った膳を運ばせ、不機嫌な二人を接待しはじめた。
「さあさ、今日はご苦労さまでした……まずは一献……」
「む、むうぅ……」
酒気がはいると、荒れた気分もしだいにほぐれてきたようだ。
「田亀様……源五郎親分……何もなかったようですので、今日のところはもう……」
嘉右衛門が不機嫌な顔の同心と岡っ引きの袖の下に、前より多めの金子を花紙で包んで入れると、現金なもので、上機嫌となって帰っていった。
「がははは……山吹色が三枚とは、さすが武蔵屋だわい……昨日と合わせて、思わぬ臨時収入が入ったな、源五郎。料亭にでも行って豪遊でもするか?」
「待ってください、田亀の旦那ぁ……二度あることは三度あるといいやすぜ……明日になれば、またお真由が不審者を見たといいだすかも……」
「ああ……なるほど、また武蔵屋から金をせしめられそうだな……さすが、金になりそうな話には鼻が利く奴だわい……」
「へへへへへ……伊達にあっしの鼻は赤くねえですよ」
そういって、源五郎は鼻の下を人差し指でこすった。
「それでこそ、わしが十手をあずけた甲斐があるというものよ……がははは……」
「うひひひひ……」
暗くなった通りを莫迦笑いする同心と岡っ引きが帰ったあと、母親のお浜はお真由を呼び出し、嘘をいってはいけないよと諭し出した。
またもすっかり、お真由の見た人影は見間違いという流れになってしまっていたのだ。
「そんな……私は嘘なんて……」
「でも、同心や岡っ引き、店の者達が探したが、どこにも怪しいところはなかったんだよ……西田屋さんのお母さんは寝込んでいるのに騒ぎ立てたりして……明日、もう一度、ご迷惑でしたと謝りにいかないと……それに山城屋さんにも……あちらもおきみちゃんが寝込んで大変なのよ」
「そんな……お母様……」
お真由は悲しくなって、ポロポロと涙を流し始めた。
嘉右衛門があわてて女房をとりなす。
「お浜……きっと、お真由は私たちが店のことで忙しくて、かまってやれなくて、寂しかったんだよ、きっと……そっとしておいてやろう……」
「もう……男親は娘に甘いんだから……さあ、お真由、お夕飯を食べて、今日はもう御休み……」
「はい……」
すごすごとお真由は茶漬けをかきこみ、二階の私室へと戻った。
布団にもぐりこみ、涙目となった。
「嘘じゃないのに……本当に見たのに……どうして、私以外の人は見ていないの? それとも……まさか……私がおかしくなってしまったのかしら……」
惑乱して、泣きじゃくるお真由であったが、いつしか睡魔が襲い、眠りについた。
(起きて……起きて……お真由……お真由……)
夢の中で五、六歳くらいのオカッパ頭の少女がお真由を呼ぶ声が聞こえた。
近所の子供ではないが、どこか見覚えがあるような……懐かしいような……
――あなたは誰? 誰なの……
ふと、寒気がして、目が覚めた。
窓を開けっ放しで、夜気が入って冷えたのだ。夢現のお真由が起き上がり、障子をしめる。
天窓の紐を握って閉めようとすると、異様な気配がして、背筋が寒くなった。
――なにか……天井に……気配が……いや、頭の上から視線が……
お真由の頭上に何かいる……おそるおそる見上げると、開いた天窓の片隅に黄色い二つの光点がギラリと光った。
ギョロリと夜目にも光る眼玉であった。
月明かりが逆光となってよく見えないが、それは襤褸のよう頭巾を被った異形の存在であった。
息を潜めてこちらを窺っている。
袖から伸びた三本の長い爪のようなものが窓枠に食い込んでいるのが見えた。
――ひっ!! あれは……あれは……人間ではないわっ!!! か、怪物……
お真由は恐怖のあまり蒼白となり、さっと血の気が引いていくのがわかった。
(……お前なんか……出ていけぇぇぇ……)
頭の隅で童女が叫ぶ声が聞こえた気がした。
しかし、お真由は恐怖のあまり、気を失ってしまっていた。
翌朝……目が覚めたお真由は布団の上にいた。布団をかぶらずに眠ったので、鼻がぐずぐずいう。
――あれは……夢だったのかしら……そうね、あんな怪物なんて……きっと、夢だったのよ……
天窓を見上げると、そこには三筋の生々しい引っ掻き傷の痕が見えた。
まるで猛獣がそこにいた証拠であるかのように……
「ひっ……ひいいいいいいいいっ!!!」




