不思議な童女
――あれは……私の見間違いだったのかしら……
翌日、朝食をすませたお真由は源氏物語湖月抄を開いては閉じ、開いては閉じをしていた。
彼女は昨日のやりきれない思いが気になって、大好きな貸本を読もうとしても、頭に入らなくて悶々としていた。
「もう、こんな物があるからいけないんだわ……」
お真由は思い切って、事件の発端となった遠眼鏡を箱にしまって、箪笥の引き出しの奥にいれた。
すると、なんだか気分がすっきりして、気持ちが読書に切り替えられた。
だが、好事魔多し、桔梗屋でまたも屋根修理の普請がはじまってしまい、槌音が耳障りで気分をいらだたせる。
が、雨がしとしとと降りだし、普請は中止となった。
雨音という自然の環境音のおかげで読書に集中できるようになる。
英国サセックス大学の研究チームがストレス解消について調べた結果によると、読書がもっとも高いストレス軽減に役立つと計測した。
人間は読書で本の中に没頭すると扁桃体が鎮まり、ストレスが軽減されるという。
また、本を読んで作中の登場人物に共感体験することもストレス解消に役立つといわれている。
かくてお真由はしだいに物語の世界に没頭して嫌なことを忘れていった。
やがて梅雨も止み、槌音が再開されたが気にならなかった。
陽が昇り、さすがに室内が蒸し暑くなり、木戸と障子窓、そして天窓を開けた。
江戸時代の天窓はもともと台所で竃の薪を焚く場合に煙を外に出すための換気用に屋根に開発された窓である。
その開閉の仕組みが工夫されていて感心させる。
天窓を開く方向と閉じる方向の両方に紐が通し、丸竹を仲立ちにさせて、引っ張って開閉できるのだ。
二階座敷にひんやりとした風が入り、明かりがさして読書にちょうど良い。
そして、いつしか、お昼がすぎた。
昼食後も部屋で本の中の世界に没頭しているお真由をよそに、外では寺子屋から帰ってきた近所の子供達があつまって路地裏で遊び始めていた。
油問屋・山城屋の息子・平助が十歳で年長であり、桔梗屋の娘おもんが八歳、その弟の善太が五歳、長屋の大工のせがれの小太郎が六歳、桶屋の娘のお光が五歳であった。
ふだんなら平助の妹のおきみもいるのだが、風邪を引いていてお留守番だ。
「鬼ごっこしようぜ!」
平助が言い出し、ジャンケンをしておもんが鬼になった。
狭い路地裏を駆けまわり、人の家の垣根に勝手に張り込む。
盆栽を手入れしていたご隠居さんもそれをとがめず、微笑ましく見守った。
遊び疲れ、子供達が路地の隅で座り込んでいると、小太郎が隣の女の子を見上げ、
「あれぇ? この子だれだっけ……」
「えっ?」
遊んでいた子供達が注目する。
おかっぱ頭に赤い小袖に紺色の帯をしめ、可愛らしい顔立ちだ。
ニコリともせず、平助を凝と見つめてくる。
「あれえ……知らない子だけど……どこかで見たような……」
「おい、お前……名前はなんていうんだ」
「…………………」
「おい、なんか言えよ……」
平吉が強めに言うと、幼女はだまって人差し指を前に向けた。
子供達がいっせいにその先を見る。
が、何もかわったものはない。
もう一度、童女に振り返ると、誰もいなかった。
「……どこいったんだ?」
「変な子……」
赤い小袖の少女のことを忘れ、子供達は隠れん坊を始めた。
日が傾きだし、路地裏の塀によりかかって休憩し、おしゃべりに夢中になった。
六歳の小太郎はそこから離れた場所にしゃがみ込み、塀の隙間から這いだした毛虫を見つけた。
「あっ……毛虫だ、気持ち悪い!」
そういって、近くにあった棒きれで叩きつけようとした。
(……可愛そうだよ……)
突如、女の子の声がして、小太郎は驚いた。
「え、だあれ?」
小太郎がふり向いてキョロキョロするが、女の子はいなかった。
おもんとお光は離れた場所でおしゃべりをしている。
気のせいかと思い、小太郎が再び棒きれを毛虫に叩きつけようとした。
(……バチがあたるよ……)
「うるさいなあ!!」
小太郎がムキになって毛虫に棒を叩きつける。
が、棒きれは空中で止まって、動かない。
押しても引いても動かないので、小太郎が棒をあきらめて、手を放すと、棒は空中に浮いたままであった。
「?」
小太郎が近くにあった小石を毛虫に投げた。
すると、小石は毛虫の真上でピタリと停止した。
まるで透明な覆いがあるかのようだ。
他の石も投げるが、宙に浮いて止まり、その間に毛虫はどこかに行ってしまった。
「みんな来てぇぇ!!」
興奮した小太郎が平助、おもん、善太、お光を呼んだ。
そして、皆が空中に浮かんだ棒きれと小石に驚き、平助がおそるおそる手を触れる。
すると、ポトリと棒きれと小石は落っこちた。
「なんだあ……今のは?」
「不思議だなあ……」
子供達は宙に浮いた小石と棒きれのことで興奮してしゃべりまくった。
が、その内に飽きてしまい、再び鬼ごっこを始めた。
もしも武蔵屋のお真由がこれを遠眼鏡で見ていたら、不思議な出来事の生き証人になっていたかもしれない。
が、彼女は二階の座敷で大昔の平安京宮中での恋物語に、胸を焦がしている最中であった。
時間を忘れ、物語に熱中していると、西日が顔にあたり、日暮れだと気が付いた。
「あら、もうこんな時間……熱中して読んじゃったぁ……でも、昨日の今頃は散々だったわ……だけど、昨日のこの時間に見た襤褸をまとった人影はなんだったのかしら?」
気分転換に窓から外の景色を見ようと思ったが、昨日のことがあるので右側の窓はやめた。
反対の左側の窓から景色を見る事にした。
左側には雪駄草履を扱う西田屋がある。
なんとなしに裏庭に植えられた紫陽花の花々を見つめ、母家を見た。
視界の端に異様なものがチラついた。
――まさか…………
お真由はギョッとなり、体が金縛りにあったように硬直した。
渇いてひりつく咽喉を、唾を呑みこんで潤した。
すると、間接に潤滑油が入ったかのように、体が少し動く。
箪笥にしまった遠眼鏡を出して、照準をあわせる。
西田屋の母家の濡れ縁に背の高いボロキレをまとった怪人が上がり込み、廊下を渡って、奥座敷に入るのをしかと見た。
――やっぱり……本当にいたのよ、怪しい奴が……今度はお隣の西田屋さんに……どうしよう……どうしよう……
心臓が高鳴り、恐慌状態となったお真由。
そこへ、女中のお兼が夕飯だと知らせにきた。
「お兼ぇぇぇ……やっぱりいたのよ……子供の変装じゃないわ……怪しい奴が……怪しい奴が……」
「落ち着いてくだせえ、お嬢様……お嬢様……」
恐慌状態になったお真由は女中にすがりついてきて、腹の肉に埋まりそうになる。
女中は箱入り娘をなだめ、帳場にいた喬太郎と嘉右衛門に知らせた。
やはり怪漢はいたのだと言うことになり、またも喬太郎と手代が自身番に知らせにいった。
そこでは折よくというか、折悪くというべきか、昨日の田亀武兵衛と赤鼻の源五郎がヘボ将棋を指していた。
「がはははは……今度はわしの勝ちだぞ、源五郎。鰻をおごれよ」
「うぅぅ~~む……いや、何か手はあるはずでさあ……う~~む、う~~む……」
そこへ、またも喬太郎がやってきて、今度は西田屋に怪漢が出たと知らせてきた。
口をへの字に曲げる鬼瓦顔の同心。
「なんだとぉぉ……また見間違いじゃないだろうなあ?」
「何を言ってんですかい、旦那ぁ! やっぱり空き巣か浮浪者はいたんでさあ……いや、夜嵐党の手先かもしれねえ……あっしらが大江戸八百八町の平和を守らねえと、誰が守るんですかいっ!」
赤鼻の源五郎がはりきって声をあげ、十手をかざして飛び出した。
わざと裾で盤面をひっくり返していった。
「おいいいいっ! ……わしが勝ってたのに…………むう、だが御役目だ……」
田亀武兵衛もあわてて西田屋へと走り出した。
西田屋の主人と番頭に話すと、たいそう驚いたが、捜査に協力的だった。
奥座敷には春から臥せっている隠居した老母のお杉しかいないという。
今度は室内を源五郎が、庭を田亀武兵衛が探索することにした。
「あいたぁぁっ!!」
赤鼻の源五郎が庭に飛び出ると、地面にねそべった田亀武兵衛が見えた。
「大丈夫でうかい、旦那ぁぁ……傷は浅いですぜ!」
「いや……転んだだけだ、源五郎……チキショウ、モグラの奴、こんな所に穴なんか掘りやがってぇ……」
田亀同心の足元を見れば直径三寸ほどの穴ぼこがあった。
「なんか、昨日もこんな事がありやしたね……」
「うるさいわい、ともかく探索せい!」
二人は庭や屋敷内を捜しまわった。
が、結果は泥棒も不審者も見つからない。
こんな騒ぎの中でも御隠居の老母は寝たきりであった。
念のため、店の者に盗品はないか調べさせ、前より念入りに近所に訊き込みをした。
岡っ引きの源五郎が西田屋の裏の路地で近所の者、通行人に訊き込みをしたが、不審者を見たものは見つからない。
溜め息をついて、暗くなりつつある空を見上げた源五郎。
突如、その横の垣根から子供が飛び出してきて、ドシンとぶつかった。
虚を突かれ、岡っ引きは無様にひっくり返ってしまった。
「あいたぁぁぁ……」
「痛てえな……何しやがんだ、このクソガキっ!」
顔を真っ赤にして怒る源五郎。
周囲から鬼ごっこをしていた近所の子供達が集まってきた。
腕白小僧の小太郎も、相手が自分より大きく、体重も二倍以上ある強面の岡っ引きと知って、青くなった。
「ご、ごめんさない……親分さん……」
「い~~や、ゆるせねえ! 性悪なガキは拳固で御仕置きすんのが一番だ。こっちに来い!」
血の気がひいて、身動きできない小太郎。
平助たちも恐ろしくて金縛りにあったように動けなかった。
赤鼻の源五郎が拳固をふりあげる……




