あやしい影
夢見がちで本好きの少女には現実の脅威にはまったく対応できない、か弱い小猫であった。
恐怖で全身が硬直し、のどが掠れて声が出ない。
「お嬢さま、そろそろ夕飯だよ……」
「お、お兼ぇぇぇ!」
お真由は上がってきた女中にしがみつき、身体が女中の腹の肉布団に半分埋まった。
「ぶふぅぅ~~…息がぁぁ……」
「あに、やっとるんかね……お真由さまは……」
女中がお真由の帯をつかんで肉の海からスポッと引き抜いた。
彼女はホッと安堵して声がしぼり出た。
そして、今見たものを話した。
目を丸くしたお兼であったが、隣家の危機としって、一階に駆けおり、店の表で勘定の帳面をつけていた主人の嘉右衛門と跡取りの喬太郎に事の次第をつげた。
「なんだってぇ……隣の山城屋さんの家に怪しい人影が!?」
「きっと、空き巣か泥棒かもしれないよ、おとっつあん……ちょうど、番屋に同心がきているとか……手前が知らせてきます!」
さっそく、喬太郎が手代を引き連れ、近くの自身番に走る。
自身番とは町人たちによって運営された町内警備のための番所であり、番屋とも呼ばれた。
いわば町内会所であり、消防団の詰所でもあり、交番でもある。
そして、江戸町奉行所の監督下にあった。
町内に不審者がいれば自身番に留め置き、巡廻している定町廻り同心に引き渡すことになっていた。
また、火の番も重要な役目であり、自身番屋の多くには、屋根に小さな火の見櫓や半鐘が備えられていた。
「むむむ……その手は待て、源五郎……」
「へへへへ……そうは問屋が卸しませんよ、田亀の旦那ぁ……これで三度目じゃねえですかい。仏の顔も三度までってね」
「そういうなあ……角を取られたうえで、わしの飛車を取るのは勘弁してくれぃ」
鬼瓦のような顔をした男は北町奉行所同心の田亀武兵衛で、こちらはその手先である岡っ引きの赤鼻の源五郎という。
自身番にはときに定町廻り同心などが立ち寄り、番所に詰める番人、通称・番太と交流をはかり、事件がおきたときに円滑にことが進むようにしていたものだ。
「じゃあ、この手は待ちますが、こいつでどうです?」
源五郎が銀将を盤にパチリと置いた。
王様はどこにも逃げられない。
「なんじゃとぉぉ~~!!」
「ヘボ将棋、王より飛車を可愛がるってね……詰みですよ、詰み……」
「いや、何か……何か、手があるはず……」
「ねえですよ、いくら考えても日が暮れますって……あっしの勝ちななんですから、約束どおり鰻をおごってくだせいよ」
「ぬぬぬぬぬぅぅ……待てい、今考えておるから……」
そこへ番太の老人が粗茶と煎餅をもってきて一息いれることにした。
「ところで、田亀様、源五郎親分、いいんですかい? もう、一刻(ニ時間)も遊んでいて……御同役のみなさまは例の盗賊を捕える手がかりを探してあちこち駆けずり回って大変なのに……」
「そうはいっても、なかなか手掛かりがなくてなあ……あっしも田亀の旦那も疲れ果てちまったよ……たまには休憩させろい」
「へい……さいですか……」
「田亀の旦那ぁ……そろそろ、諦めがつきましたかい?」
「いや、まだだ……何か……何か手があるはず……」
脂汗をかいて盤面を凝視する田亀同心。
よっぽど、飯をおごるのが嫌らしい。
そこへ血相をかえた喬太郎と手代が駆けこんできた。
「大変です、お役人様! 山城屋さんの母家に怪しい奴が入りこんだようで……」
「なにぃぃぃ! そいつは一大事だっ!! もしかすると夜嵐党かもしれんぞっ!!」
夜嵐党は、その頃江戸に出没した兇悪な盗賊集団である。
押し込んだ大店の家族や奉公人を惨殺して、蔵の中の千両箱を根こそぎ奪うという凶暴な一味で、江戸市民が震えあがっていた。
「ええっ!? まだ夕暮れですぜ旦那ぁ……夜嵐党はその名のごとく真夜中にしか出ませんて……」
「いや、襲う店を物色している手下かもしれん。いや、ただの空き巣だとしても一大事である。大江戸八百八町の平和を守らねば……いくぞ、源五郎」
ここぞとばかりに立ち上り、十手を閃かせ、わざと袖で将棋盤をひっくり返した田亀武兵衛が喬太郎たちと外へ駆けだした。
「わっ! ひでえや、田亀の旦那ぁぁ……」
ぶちぶちと愚痴をたれる赤鼻の源五郎であったが、お役目ゆえ、後を追いかけ、油問屋の山城屋に入った。
仔細を放すと、山城屋主人は驚き、店の中から母家へと向かった。
「いま、母家の奥には誰かいるか?」
「へい、あたくしの娘が……六歳のおきみがこの間、風邪をこじらせて以来、寝てばかりでして……家人や使用人にも静かに寝かせるよう言いつけてありますが……もしや、もしや……」
「ふ~~む……源五郎、お前は庭を探索しろ……賊をみかけたら、隙を見つけてふんじばるんだ」
「へい、合点でさ……」
十手を構えた岡っ引きが裸足のまま、濡れ縁から忍び足で外に出た。
田亀同心は山城屋主人と喬太郎を店先に待たせて、おきみの休む座敷の前へ行った。
障子から様子を窺い、怪しい気配がないようなので、少し開けて様子をうかがう。
布団にすやすやと寝息をたてる童女がいるきりで、他に人影は見えない。
飾り戸棚や手文庫にも乱れた後はないようだ。
障子を閉めて、他の部屋も探してみる。
そのとき、庭から「あいたぁぁっ!!」という悲鳴があがった。
もしや、賊が岡っ引きに気がつき、逆襲したのかもしれない。
「どうした、源五郎っ!!」
田亀同心が庭に飛び出ると、地面にねそべった赤鼻の源五郎が見えた。
「大丈夫か、源五郎、傷は浅いぞ!」
「いや……転んだだけですよ、旦那ぁ……チキショウ、こんな所にモグラの穴なんかありやがってぇ……」
源五郎の足元を見れば直径三寸(約10センチ)ほどの穴ぼこがあった。
「まぎらわしいなあ……賊に気づかれるではないか」
ともかく、二人は庭や屋敷内を捜しまわったが、怪しい人物は見つからなかった。
念のため、店の者に盗まれたものはないか調べさせたが、荒らされた後ひとつなかった。
その間に近所に訊き込みもしたが、怪しい人影一つ目撃者はいなかった。
すると、第一発見者であるお真由に直接、訊き込みをすることになる。
座敷に通され、不機嫌な表情の同心と岡っ引きに、オドオドするお真由であったが、嘉右衛門と喬太郎にうながされ、一部始終をくわしく話した。
「なにい……すると、遠眼鏡で覗き見していると、たまたま目撃したのか、そのボロキレを着た不審者を?」
「はい……」
「浮浪者が店に入り込んだのかもなあ……そんな聞き込みはなかったか、源五郎?」
「へい、おきみの兄の平助たち子供達が鬼ごっこをしていたとしか……いや、待てよぉぉ……」
人差し指と親指を顎にあてた赤鼻の源五郎。
「きっと、お真由さんは子供達が『ももんぐわごっこ』をしていたのを見間違えたのかもしれやせんぜ」
「なんだ、そのモモガンコというのは?」
「『ももんぐわごっこ』ですぜ、田亀の旦那……町人の子供達の間で流行っている遊びでして、羽織の背中をこう、ずり上げて、頭巾のように顔を隠し、振袖をピンと凧のように張って、『ももんぐわ』という妖怪に変装する遊びでさ……」
「ほう……みょうちきりんな遊びをするなあ、子供ってやつは……」
赤鼻の源五郎が実際に羽織をズリ上げてまねてみる。
「なるほど、きっとそれを見て、娘さんは泥棒と見間違えんだろうなあ……それに子供と野良猫は人の家に勝手に入り込むしなあ……」
「なんと……それでは娘の勘違いでしたか……とんだ御足労をおかけしまして……」
赤鼻の源五郎の推察に田亀と嘉右衛門はすっかり感心した。
「えっ……ちが……」
お真由は自分の見た怪人が、子供が変装した姿ではないと、声をあげようとした。
が、続きが出ない。
すでに、お真由が見間違えたという話の流れになってしまい、内向的な少女のお真由が口を挟めない状況になってしまっていた。
父親の嘉右衛門が源五郎親分の袖の下に花紙で包んだ金子をするりといれた。
「おっと、困るなあ……こんな事をしてもらっちゃあ……」
と、言葉ではいうが、まんざらでもない赤鼻の源五郎親分。
「いえいえ……ご迷惑をおかけしたので、せめてお茶代にでもと……」
「ああ……いいから、もらっておきなさい、源五郎……」
と、すました顔の田亀同心の袖の下にも、嘉右衛門がさきほどより多めの金子をするりと入れた。
「これはこれは、さすが田亀さまは御心が広いおかたで……」
「なになに……困ったことがあれば、いつでも声をかけなさい……町奉行所は市井の善男善女の味方だからな……がははははは……」
と、上機嫌で同心と岡っ引きは帰っていった。
お真由が父親の袖にすがって、必死に訴えようとした。
「お父様……わたし……わたし……」
「いいんだ……誰にでも見間違いというのはあるさ……さあ、奥で御夕飯を食べておいで……」
「……はい…………」
すごすごと肩を落として、お真由は冷えたご飯を食べたが、味が感じられなかった。
はたしてお真由の見た怪人物は、彼女の見間違いであったのであろうか?
否、これは世にも怖ろしい事件の発端にしかすぎなかった――




