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妖霊退治忍!くノ一妖斬帖  作者: 辻風一
第九話 閃火!紅羽二刀流
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目撃!遠眼鏡の中の怪人

 うっとうしい梅雨がつづき、ようやく日が射した梅雨晴れの貴重な日。

 どこの家でも物干し竿に洗濯物がぶら下がっていた。


 ある屋敷の二階に、机に本を置いて読んでいた十四歳の少女がいた。

 紫地に藤という高価な小紋を着て、裕福な商人の娘だとわかる。


「ふぅぅ……光源氏さまって、一見、まめやかで高貴な貴公子なのに……女ったらしであちこち口説く、いけずな御方……だけど、いざって時は優しくて、面倒も見てくれるし……なんて、憎たらしいほど罪なお方……でも、憎めないわぁ……もう、五回もくり返して読んじゃったぁ……う~~ん、続きが気になるぅぅ~~」


 万年床に寝転んで、足をバタバタさせて着物の裾がほころび、生足が出る。

 読んでいる本は『湖月抄こげつしょう』である。

 これは和学者で歌人俳人である北村季吟きたむらきぎんが『源氏物語』の本文に注釈を入れてわかりやすく解説した本であり、『源氏物語湖月抄』ともいい、江戸時代にもっとも流布した源氏物語の本であった。


 ここは神田須田町にある呉服問屋・武蔵屋嘉右衛門むさしやかえもんの家である。

 表の店では小紋・紬・付け下げ・訪問着・振袖・名古屋帯・袋帯といった衣服をあつかい、江戸でも指折りの豪商であった。


 人の出入りが多い表の店から奥のほうには、その家族がすむ母家があり、今はお真由と女中たちしかいなくてひっそりとしている。

 お真由は生来、体が弱く、たびたび風邪などで熱が出てしまうが今日は具合が良い。


 父母と兄の喬太郎きょうたろうは体の弱いお真由を不憫がって、着物や小間物、お菓子など好きなものを買い与えて甘やかしていた。

 御稽古ごとや花嫁修業の奉公などにも無縁となったお真由はその有り余る時間を好きな読書についやした。


 あまり外に出ず、友人とも遊ばない彼女は内向的になり、本の中の幻想の世界にひたるのが好きな、夢見がちな子に育っていった。

 文字の世界に没頭すると、部屋の中にいながら、胸が躍り、いやな事も忘れた。


「あにやってるだ、お真由まゆ様……はしたねえだよ……」


「はっ……おかね、いつの間に……いやん……」


 いつの間にか二階の部屋に来ていた女中のお兼の指摘に、あわてて裾をもどすお真由。

 お兼はお真由の三倍の目方はありそうな奉公人である。


「それより、貸本屋の茂平治もへいじが来たけど、どうするかいね?」


「まあ、ホント。すぐに伺いますわ……借りてた本を運ぶから手伝ってちょうだい、お兼」


「あいよ」


 母家の二階の私室から、線の細い色白の娘が本を二冊持ち、階段をタントンとおりた。

 勝手口の上りかまちで背負った木箱を下ろして待つ行商本屋の茂平治を見つけた。

 馬のように顔が長く、困り眉で目が細い男で、弁舌あざやかで話がうまい。


 彼は行商本屋であり、木箱に何十冊という本を背負ってお得意様の家々を歩いて貸し出していた。


「これはこれは、武蔵屋のお嬢さま……『湖月抄』の続きをもってまいりました……」


「待っていたのよ……光の君の続きが気になってぇ……」


 今まで読んでいた本を七冊返却し、続きの本を借りた。


「それはそうと、他にもいい本が手に入ったでげすよ……」


「まあ、ホント……茂平治さん?」


 行商本屋が木箱にはいった本を何冊か取り出してみせた。




 ところで、貸本屋というのは江戸時代からあるとされている。


 寛永年間(1624~44)ごろから庶民向けの仮名草子の書物が増え出し、江戸中期には娯楽向け書物や実用書が全国的に広まった。

 人気の本の種類は小説のほかにも浄瑠璃本、歌舞伎の脚本、八文字屋本、軍談、実録物などさまざまだ。

 とはいっても、まだまだ書物は高価な時代であって、個人で所有するものは大大名や公家、裕福な商人くらいで、庶民や下級武士はもっぱら貸本屋から見料を払って借りるが一般的であった。

 

 貸本屋は始めの頃は大風呂敷に本を包んだり、背中の木箱に何十冊も背負って、顧客の家を歩いて貸し出したりという、茂平治のようなデリバリー形式が多かったが、しだいに店舗で借り手を待つという形態が増えていった。


 文化5(1808)年の記録によると、江戸の日本橋南組・本町組・神田組などの十二組の貸本屋組合があり、合わせて656人の組合人がいたという。

 また大坂の貸本屋は300人の組合人がいたらしい。

 ほかにも地方城下町、在郷町、温泉場などあらゆるところに貸本屋はあったという。


 ちなみに庶民向けの娯楽が発達したのは鎖国中の日本ぐらいであった。

 文明の発達した西欧諸国では書物や絵画などの芸術や娯楽は王国貴族や大商人の楽しみであって、庶民はその日の生活の糧を得るために汲々として、仕事が忙しく娯楽を楽しむ余裕などなかった。




「まずはご存じ桃太郎や花咲か爺、さるかに合戦に舌きり雀といったお話を有名浮世絵師が差し絵を描いた絵草紙えぞうしなんていかがでげすか?」


「やあねえ、赤本あかほんなんて……私もう、子供じゃないわ」


「なるほど、こいつはしたり……そんじゃあ、赤本が駄目なら黄表紙本で……恋川春町こいかわはるまちの『金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ』なんていかがでげす?」 


「あっ、去年出たばかりの話題の本でしょ、それ! どんな話なの?」


「へい、主人公は田舎から江戸にやってきた金兵衛という男で、末は大店の番頭になって、売上金をちょいとちょろまかして豪遊をしてやろうという呆れた奴でして……」


「ふふふふふ……」


「まあ、そいつが旅先の茶店で粟餅を注文して待っていると、うとうととして眠り込んじまい、売り上げをちょろまかす夢どころか、大店の主人にしてもらえる夢を見まして……」


「あら、果報は寝て待てね……ふふふ……」


「ところが夢と言って世間は甘くないもんでげして……」


「まあ……それでそれで? どうなるの?」


「その後はこの本を読んでごろうじろ、でげして……」


 茂平治が黄表紙本を開いて挿絵を見せた。

『金々先生栄花夢』は中国の邯鄲かんたんの夢を元にした話で、今はやりの異世界転生小説の遠い御先祖のようなものだ。


 黄表紙とは、文章が半分、挿絵が半分という草双紙で、現代の小説やマンガの始まりといってもよい。

 実際、マンガの吹き出しのようなものがあり、ルーツだともいえる。


「そうねえ……流行っているし、借りてみるわ」


「毎度ありい~~…それからでげすね……山東京伝さんとうきょうでんの『娘敵討故郷錦むすめかたきうちこきょうのにしき』に『米饅頭始よねまんじゅうのはじまり』、近松門左衛門の『曽根崎心中』、井原西鶴の『日本永代蔵』といったのもあるんでげすが……」


 茂平治が両手をスリスリさせながら猫撫で声でオススメの本をあれこれ紹介した。

 商売熱心で、まるで人間レコメンドのような男である。


「あっ、そうそう……お嬢さん、手荒いを貸していただけませんか……冷えてしまって……」


「ああ、それなら右の廊下をまっすぐ行って、横の中庭にあるわ……迷ったら、お兼か小僧さんにもで聞いてちょうだい」


「へい、それじゃ、失礼いたしまして……」


 行商本屋を尻目に本をかかえて二階の私室にはいったお真由は火鉢を横にして、机の上に草双紙をおき、『源氏物語湖月抄』の続きを読み出した。




 一方、女中のお兼は呉服をしまった二番蔵から高価な帯を取ってきてくれと番頭に頼まれて、鍵をぶらさげて中庭の蔵が並ぶ一画まで歩いていた。

 すると行商本屋の茂平治が土蔵の前でキョロキョロとしているのを目撃。

 そして、着物の前を開いて蔵の壁に小便をしようとしていた。


「ちょっと、茂平治さん……こんなところであにする気だよ!!」


「あっ、これはお兼さん……いや、実はかわやを借りようとしたら、迷ってしまいまして……もう漏れそうなんで、つい……」


「ついじゃねえだよ……そんな所で小便なんかされたら、臭くてたまらんがね! 厠に案内すっから、も少し我慢するだよ!」


「すいやせん、さっき、お嬢さんに道順を聞いたんですが、どうにもあっしは方向音痴でげして……」


「きっと……廊下を左に曲がっただよ……も少しだよ、男は我慢が肝心だがね」


 そう言ってお兼は青い顔をした貸本屋の襟首をつかんでドスドスと厠に引っ張っていった。


「ぐえええ~~…首があ……」




 そのころ、二階の私室で『源氏物語湖月抄』を楽しんで読んでいたお真由であったが、突如、隣家から金槌を叩く音が聞こえて中断された。

 そして複数の男の威勢のよい声が聞こえはじめた。


「あら、もう普請がはじまったようね……」


 斜交はすかいにある桔梗屋の蔵の屋根の一部、が長雨で腐り、雨がやむと普請を始めると母から聞いていた。

 読書の集中を邪魔され、眉根を寄せるが、それでも読書に没頭していった。


 やがて、槌音がとぎれ、中休みになったようだ。

 ほっと、息をついて彼女も休憩した。


 が、休憩中のはずなのに、男たちの威勢のよい掛け声が聞こえてビックリした。


 お真由はムクムクと好奇心が芽生え、蔵の窓を少し開け、おそるおそる隣家の庭をのぞく。

 すると、若い大工たちが着物を脱いで上半身裸となり、相撲すもうをはじめていた。


「ええっ……休み時間なのに……なぜ、相撲なんて疲れることを? ええっ!?」


 繊弱なお真由には元気な大工の若者たちの休憩の過ごし方が理解できなかった。

 年頃の娘としては青年たちの鍛えられた上半身の姿を見てはいけない、はしたないと思い視線をそらした。

 が、好奇心に負けて再び若者たちの相撲を見た。


 当時の大相撲は、女人は見る事が禁じられていたので、一度見てみたいと思っていたのだ。

 素人相撲とはいえ、願いは叶ったのであった。

 もっと、よく見てみたいと思ったが、彼女は視力がそれほどよくない。

 そこではたと気が付いた。


「……そうだ、お父様がくださったあれがあるのだったわ……」


 お真由は箪笥にしまったままであった遠眼鏡とおめがねを取り出し、筒先をはさみこんだ。

 遠眼鏡とは、遠くにある対象物を複数のレンズを組み合わせ筒に収めた装置であり、望遠鏡や双眼鏡の古い名称である。


 十七世紀初頭にオランダの眼鏡製作者ハンス・リッペルハイがつくったものとされている。

 日本に伝わったのは、近藤正斉の『外藩通書』によれば、慶長十八(1613)年にイギリスのジェームズ一世の使いであるジョン・セーリスが徳川家康に献上したものが初だとされている。


 天明年間でも遠眼鏡はたいへん貴重で高価なものだったが、豪商である嘉右衛門は愛娘の無聊をなぐさめるために買い求めたのであった。


 やがて煙管を吸い終えた親方の号令で、ふたたび大工たちは作業を始めた。

 お真由は頬を上気させ、息も荒く遠眼鏡を外して箪笥にしまった。

 お真由はすっかり遠眼鏡の魅力というべきか、魔力というべきかにはまり、別の窓から外を覗いてみた。


「あら、あれは西田屋さんとこのタマだわ……」


 垣根の上を近所の飼い猫タマがトテトテと歩むのを見つけた。

 向かいのひさしに来ると、背をかがめてソロリと向かいの上の屋根瓦をうかがっていた。

 瓦の上で雀たちがピーチクパーチク井戸端会議をしているのを狙っているようだ。

 お真由が手に汗握りタマの様子を窺っていると、雀の隙を狙ってタマが群れに飛び込んだ。


 一斉に飛び立って逃げ出す小鳥たち。

 小さな羽が散乱。


 だが、タマの戦果はむなしく、肩を落としてタマは向こうの屋根瓦へと消えていった。

 少女はクスリと家猫の哀愁の背中を見送った。

 すると突然、「玉ヤ~~、玉ヤ、玉ヤ、玉ヤ……」と威勢のよい男の声がした。


 その声にギクリとして傷心のタマが声のした方へ、庇から垣根を飛び降り、玉と呼ぶ者の元へむかった。

 それはタマの飼い主では無く、サボン玉売りの棒手振りだった。

 サボン玉とはシャボン玉のことである。

 ちなみに当時は石鹸せっけんが高価だったため、ムクロジ、芋がら、タバコの茎などを加工した水溶液をつかっていた。


「なんだい……この猫は? ひょっとして、おめえの名前はタマかい? とんだ玉違いだよ、シッ、シッ……」


 玉ヤというのはサボン玉売りの掛け声であったのだ。


 と、お真由は勘違した猫とサボン玉売りという、落語の一席のような出来事に笑い転げた。

 なんといっても、お真由はまだ、はしが転げてもおかしい年頃である。


 他にも路地を遊ぶ子供達の鬼ごっこや行商人の売り買い、近所の奥さんの世間話などを見物した。


 かくて、内向的で夢見がちな少女は遠眼鏡が見せる近くて遠い、遠くて近いという摩訶不思議な世界にはまってしまう。


 あっという間に夕暮れとなった。

 右隣の家は油問屋の山城屋で裏の路地で、十歳になる息子の平助が近所の子供達との影踏み鬼をしている子供達を見物していた。

 遊びなのに、必死で鬼から逃げる子供達の様子がおかしい。


「あらあら、平助ちゃんもおもんちゃんも、みんながんばれ、がんばれ……あっ、小太郎くんが転んじゃった……大丈夫かしら?」


 大した事がなく、再び駆けだした小太郎を見送る。


「そういえば、平助ちゃんの妹のおきみちゃんの姿が見えないわねえ……あっ、そうだ……熱をだして寝ているんだったわ……」


 気になって遠眼鏡で山城屋の裏庭を覗き、母家のほうを見た。

 奥の座敷でおきみは寝ているはずだ。

 障子がしまっているが、無事なようだ。


 ふと、庭を見ると、妙な人影が見えた。

 日暮れで真っ黒な影法師であるが、そのシルエットは肩幅が広く、背も高く、異様な気配がした。

 小柄な者が多い山城屋の家族にも使用人にもあのような怪しい人物は思いつかない。


 誰かしら? 

 

 と、目を凝らして遠眼鏡で見るとそれは襤褸(ぼろ)のような長衣をきた人物であった。

 頭も頭巾ですっぽりと覆われ、顔が見えない。


「なにあれ……もしや……きっと……ど、泥棒だわ! どうしましょう!!」


 いつもの日常に突如あらわれた異物というべき珍事がおこり、お真由はガタガタと震えだした。




 いまは、天明てんめい元年六月中旬、西暦でいえば1781年。

 徳川家の将軍も十代目家治のころ――俗にいう老中田沼時代の話であった。


ここまで読んでくれてありがとうございます!


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