長屋のお稲荷さま
その後の深川材木町の金助長屋。
朝早い時刻に戸が開き、
「今日から亀戸で大工仕事だ。いってくるぜ、おしの、惣太……」
「いってらっしゃい、お前さん……今日も曇り空だねえ……蓑と笠をもっていっておくれな……」
そらの具合をみて、おしのが雨具を渡す。
「おうよ……あんがとよ!」
「父ちゃん、がんばってね……」
「おうともよ……いい子にしてたら、休みの日に竹とんぼを作ってやるからな……」
「わ~~い!!」
大工の道具箱を背負い、鶴吉は威勢よく三和土をでた。
鶴吉は大家の金助に仲人になってもらい、おしのと祝言をして、晴れて夫婦になった。
同じ長屋の産婆で拝み屋のお粂婆さんなどは「産気づいたらあたしをお呼びよ……」と気が早いことをいって、おしのを赤面させる。
――長次兄、あの世で見ていておくれよ……おいらは絶対、あの二人を幸せにしてやらあ……おっと、忘れてた……
門の形をした長屋木戸をくぐり、町木戸くぐろうとした鶴吉は、木戸番小屋の店先に稲荷寿司があるのを見つけた。
木戸番小屋は長屋への入り口の路地にあり、防犯のため日暮れ時になると戸をしめる役の者で、「番太郎」といった。
少額の手当のため、副業として草履・草鞋・鼻紙・箒・軟膏・ロウソクとった日常品から子供向けの駄菓子などを売って生計のたしにしていた。
ほかにも、夏には金魚や白玉、冬には焼き芋などの季節物も売っていた。
「番太郎さん、お稲荷さんを三つばかりおくれな……」
「あいよ……」
箒で路地を掃いていた老爺が稲荷寿司の包みを渡した。
そして、長屋の横にある猫の額のような狭い庭にある、小さな稲荷神社の祠にいった。
長屋を持っている地主は、その地所ごとに小さな稲荷神社を建てて、屋敷神として火事やあ盗難などの災いが起こらないように祀っていた。
なので、江戸時代は数えきれないほどの稲荷神社があったのだ。
鶴吉は神妙な顔をして、祠の前に稲荷寿司をお供えして、お詣りした。
なぜか鶴吉は、ときどき無性に稲荷神社にお参りをせずにはいられなくなるのだ。
「お稲荷様……神使のおキツネ様……どうか、おいらの留守の間、おしのと惣太坊を見守ってやってください……」
――しょうがないねえ……ときどき、あたいが、見回りにきてやるよ……
お転婆そうな若い娘の声が聞こえたような気がして、ギョッとして、周囲を見回した。
祠横の茂みがガサガサと揺れ、何か細長いものが路地塀に飛んで、消えてしまった。
「なんだいありゃ……狐のようだったが……いやいや、まさか、こんな町中に狐もいなかろう……」
文字通り、狐につままれたような顔をして、大工の鶴吉は普請場に足を向けた。
途中で、馴染みの魚売りに出会い、挨拶したが、ギョッとした顔をして立ち止まる。
「なんでい、鶴吉さん……泣いてんのかい?」
「何いってやがんでい……江戸っ子のこの俺が涙なんぞ……」
鶴吉は右手で頬をさわり、それが濡れていることを知って、だまりこんだ。
柴垣に雀たちがたむろして、チュンチュンと鳴いている。
それでは、今回のお話はこれまで。
次回はどんな事件が待っているのか……それはまた、次回の講釈で……




