王子稲荷神社
「おっ、稲荷神社についたな……」
「境内で狐のオモチャやお面、奴凧を売っているのですよ」
紅羽が指さす先に、街道の樹冠の隙間から赤い鳥居がのぞき、王子の大地の上にある、王子稲荷神社の甍が見えた。
この辺りは、現在は眺めの良い高台だが、江戸時代の頃は、杉の大木に囲まれた森林であった。
森にはいると、樹冠が大空を隠し、昼なお薄暗いほどであったという。
そして山中には稲荷社の神使である狐がたくさんすんでいた。
「ここが関東の稲荷神社でもっとも古いといわれる王子稲荷神社かあ……」
今は閑散としているが、王子稲荷神社は遠くからも参拝客がおおく、ちかくの飛鳥山の花見の季節になると、ついでだからと参りにくる行楽客も多かった。
この社の創建は古くからあり、平安時代には「岸稲荷」と呼ばれていた。
社伝によると、康平年間(1058~65)の頃、奥州追討を命じられた源頼義が岸稲荷を深く信仰し、関東稲荷総司としてあがめたとある。
その後、江戸に幕府をひらいた徳川家康は王子稲荷、王子権現、両社の別当であった金輪寺に宥養上人をまねき、江戸北域で重要な宗教地帯となった。
朱引きの外ゆえ、町奉行ではなく、関東郡代の支配地である。
「うむ、(徳川)将軍家の祈願所でもあり、歴代の将軍様も寄進もおおいときく。だが、やはり庶民たちの信仰が多いのだろうなあ……」
「商売繁盛、豊作祈願……なんでも聞いてくれる大明神さまは人気があるしねえ……」
「これ、紅羽……神前で無礼じゃぞ」
「おっと、現役巫女の竜胆姐さんに叱られた!」
「茶化すなというのに……」
「では、いくか……」
先頭に進み出た松田半九郎が鳥居をくぐって、境内に入ろうとしたとき、突然竜胆が、
「お待ちください、松田殿!」
「なんだ、竜胆?」
「ここは関東の稲荷神社の総司です。お詣りの作法を守ってください!!」
「なに? お詣りの作法というと、あれか……二礼二拍手一礼というやつか?」
「それもありますが、鳥居は人が暮らす俗界と神様がおいでになる神域の境となる門です。それなりの礼儀作法を守ってください……」
「礼儀作法だと? いや……今までたくさんの江戸の神社に寺社参りにうかがったが、宮司にそんな事を注意されたことはなかったがなあ……」
「それは松田殿が寺社奉行所の同心なので遠慮したからでしょう……それに怖い目つきでにらんでいなさるから……」
「怖い目つきは生まれつきだっ……ほっといてくれ……まあ、宮司たちも遠慮があったのだろうなあ……ここはひとつ、教えてくれ、竜胆」
「では……まず鳥居に入る前にはあのように、黙礼いたします」
竜胆の視線を追うと、鳥居の前で紅羽と黄蝶が礼儀正しくお辞儀をしていた。
「ほう……なるほど、二人とも板についたお辞儀だな……」
「いや……昔から竜胆は神社の作法にうるさくて……根負けしたんだよ……」
「耳タコなのですぅ~~…」
何かを諦めきった眼差しの娘忍者にならって、半九郎と竜胆も鳥居の前で黙礼した。
そして、松田同心が鳥居をくぐろうとすると、また停止の声が。
「今度はなんだ?」
「松田殿、鳥居の真ん中は神様が通る道です。邪魔をしないように端を通ってください」
「お、おう……」
「人はただ普通に暮らすだけでも、身が穢れにまみれます。身を清めましょう……」
次に手水舎へいって、一同は手を洗い、口をすすいだ。
「水は体を清めるだけでなく、心も清めるという事です。ここでは邪心をいだかず、素直な気持ちで、神仏を敬う気持ちを忘れてはなりませぬぞ……」
「うむ……稲荷神を敬うのだな……わかっている、わかっている……」
この先に石段があり、その先に稲荷神社が見えた。
本社には宇迦之御魂神が祀られ、本宮には十一面観世音菩薩が祀られていた。
左側に滝が見え、垢離場となっていた。
右側の向こうには池が見え、弁天池という。
境内は閑散としていた。
ほんらいはもっと参拝客が多いのであろうが、人間樹騒動で人が少ない。
この境内には奴凧などの凧も売られていた。
これは火伏の凧で、毎年午の日が縁日であり、二月初午の日がもっともにぎわい、火事除けの凧や守り札が売られ、「凧市」もたつという。
これは江戸時代に多発した火事の被害を広める原因である風をつかって高く舞い上がる凧を火難除けとしたことから、やがて無病息災、商売繁盛にも御利益があるといわれるようになったようだ。
この様子は江戸の名所として浮世絵に描かれ、歌川広重は『名所江戸百景』のひとつとして王子稲荷を題材にしている。
ほかに歌川国貞の『王子稲荷初午祭ノ図』などもある。
四人は参道の真ん中をさけ、拝殿の前へ進み、賽銭箱に鐚銭をいれ、鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼の参拝をした。
このたびの鶴吉たちを救う役目が上手くいくように、神域に入るかもしれないのでお許しを、と断りの願いもした。
右側の石段の下部に石像が二体見える。
狛犬、ではなく、赤い前掛けをした狐の石像である。
右の狐像は宝珠をくわえ、左の狐像は鍵をくわえていた。
「コンコン様の狛犬ですぅ」
「大明神のお守り、ご苦労さまです」
黄蝶と紅羽が狐像の下ではしゃぐのをよそに、松田同心が竜胆に、
「そういえば、ここへお参りに来るのは人間だけでなく、狐たちも来るのだったなあ……」
「はい、松田殿。毎年、大晦日になると関東地方の狐たちが集合し、行列をつくって王子稲荷神社にお参りにくるという伝説があります」
「それって、黄蝶たちが通った参道なのですか?」
「いや、あちらの道ですじゃ」
突然、箒もった白髪の老神主が声をかけてきた。
王子稲荷神社の神官職の老人である。
彼の指差す北東の方向に田畑が広がり、筑波山も遠望できる。
神主の指差す道に、ひときわ大きな榎の木が見えた。
「関東一帯から集まった狐たちがあの榎の木の下で衣装をととのえ、ここまで狐火の提灯をともして、行列を組んでやってくるんじゃよ、お嬢ちゃん」
「へええ……一度見てみたいですぅ!」
好奇心旺盛な少女忍者が瞳をキラキラさせて、夜の農道を行列して進む狐火行列を空想した。
これはこの地帯に昔から狐火が多かったからだ。
『江戸砂子』によると、「王子に住む農民たちはこの狐火によって田畑の豊凶を占ったという。狐火の出現する時刻は年によって違うが、1~2時間ほどの現象であり、晩に現れることもあれば、明け方に現れることもある。狐火を見物にわざわざ遠方からくる人がいて、見ることができずに終わる場合もあったが、一晩中待機していれば必ず見物できるといわれた」
この狐火の正体は狐たちの行列だと当時の人は思っていた。
関東一帯に棲む狐たちは王子神社の東にある古榎のあたりに集まり、ここで装束をあらためて神社へお参りの行列をするといわれた。
狐火は火の気のない場所に提灯や松明の明かりのような怪火が列となって出現して、点滅し、正体を突き止めようと怪火に近づくと何故か途中で消えてしまう謎の現象だ。
怪火の正体は狐が吐く息が光るとも、狐が尾を打ち合わせ着火するとも、狐のもつ『狐火玉』が光るとも、狐が朽ちた木をつかって火を作るともいわれ、いまだに正体ははっきりとしない。
「これはこれは……神主どの。俺は寺社奉行・牧野豊前守さま配下の同心で、松田半九郎といいます」
「おおっ、寺社奉行のお役人様でしたか……寺社廻りでも、滅多にここまで足を運ぶ方がおらぬというのに……ご苦労さまです。お連れの方たちは妹さんたちですかな?」
「いえ、私たちは谷中・鳳空院の妖怪退治人で竜胆と申します」
「あたしは紅羽」
「黄蝶なのですぅ」
「妖怪退治人ですと? 聞いたことはありますが、初めてお目にしましたじゃ……」
神主が目を白黒させて、松田同心と年若い三人娘を見やった。
「いや……実は門前町の扇屋で怪事件が起きて、それで探索中なのです」
「怪事件というと、人間が樹になったという噂の……それは真なのですか?」
「ああ……しかも、これには狐妖怪がからんでいるという……」
「ははあ……王子には、昔から妖術や幻術で人をたぶらかすイタズラ狐ならばたんとおりますが、そんな凶悪な狐妖怪の話などは、今まで聞いたことがございませんが……しかし……」
「しかし?」
「さいきん、滝や川のほとりで大入道が現れ、猟師をさらったという話があります……いったい、平和な王子で、何か異変が起こりつつあるのかもしれませんなあ……」
「神主さん、実は鶴吉という若い大工と、おしの・惣太の母子が判官狐という悪狐にさらわれたんだが、何か知らないか?」
紅羽が老神主に訊いた。
「はて……聞いたことはございません……」
「じゃあ、さいきん大きな黒雲がこちらを通らなかったか?」
「おう、それならば、昼に妙な雲の影が通りかかった……背中がゾクリとした妖雲であったのう……」
「神主殿、神社の森は神域ですが、判官狐一味の隠れ処がこの辺りにあるといいます、特別に入る許可をもらえないでしょうか?」
「あたしからも頼むよ、神主さん!」
「お願いするですぅ!」
「あいわかった……そういう事情ならば、大明神もお許しになるはず……『御穴様』を案内しましょう」
「『御穴様』?」
「その前に、こたびの事件が無事、解決できるよう、占いませんか?」
「占うって、御神籤ですか?」
「いやいや……黄蝶ちゃん、本宮社の横側に、『御石様』が祀られているんじゃ。願い事を唱えながら、石を持ち上げて、感じる重さによって成就を占うんじゃよ。思っていたより軽かったら、願いは叶いやすい。重かったら叶いづらいので努力が必要じゃよ。なに、漬物石をもてるならわけない重さじゃ」
この御石様は別名『おもかる石』ともいう。
皆さんも、王子稲荷神社に参拝のおりには、占ってみるといいですよ。
「へえ……御穴様の次は、御石様かあ……面白そう。いっちょ、あたしが『御石様』をもってみるよ」
「そうじゃな……二刀流のお主は腕力があるゆえ、うってつけじゃ」
「そうそう……紅羽姐さんに、まかせちゅか(まかせて)!」
さっそく、腕まくりした紅羽が代表して占うことにした。
建物の中の座布団に置かれた赤ん坊大の石を、紅羽が両手で触った。
「事件が無事に解決できますように……ウカノミタマノカミ様、お願いしますっ……えいやっ!!」
かんたんに石を持ち上げる、はずだが……紅羽が顔を真っ赤にして、「うぐぐぐぐ……」と、ぷるぷる震えながら、御石様を持ち上げていく。
「まさか……紅羽ちゃん……思っていたより、重いのですか?」
「……ううう…………うん」
どうやら、前途は多難のようである。




