秋芳尼、ニセ卵焼きに御満悦
王子の門前町にある料亭・扇屋では、瑞雲山鳳空院の住持であり、天摩忍群頭目でもある秋芳尼の般若心経の言霊と浄化治療で、人間樹にされた人々をほぼ解呪に成功した。
「おおおお……秋芳尼さま、お供の皆さま、ありがとうございます、ありがとうございます……」
扇屋主人と女房は三人に両手をついて感謝した。
秋芳尼、伴内、金剛は奥の間に通されて手厚いもてなしをされた。
「いえいえ、良いのですよ……それにしても、このたびは災難でしたねえ……」
そういって、秋芳尼がグラリと倒れそうになった。
伴内と金剛が両側から支える。
「秋芳尼さまっ!!」
美貌の尼僧のお腹の虫がくぅぅ~~~と、鳴った。
「……お恥ずかしい……お腹がすきました……」
頬を赤らめる尼僧に、扇屋主人が慌てて、
「いえいえ……法力を使われてゆえのこと……すぐに手前どもが料理を支度いたします!」
そして、扇屋夫婦は久しぶりに厨房にたち、手ずから料理をはじめた。
おいね・源三・与平などは別室に敷いた布団で寝かせている。
秋芳尼と護衛忍である松影伴内と金剛は座敷で、遅い昼食をいただいていた。
「おお……さすがにうまいですなあ……この魚の煮つけなど絶品で……」
「小頭、この地鶏の焼いたものもうまいですぞ!」
頬をゆるめた松影伴内がハッと気がつき、
「こりゃ、金剛! 秋芳尼さまの前で不躾であるぞ!」
「たはっ……これは失礼いたしました……しかし、小頭がさきに……」
「ほほほほほ……いいのですよ。小頭と金剛は力仕事があるのですから、私に遠慮しなくても良いのですよ……」
秋芳尼は摩利支天を信仰する僧侶であり肉食はしない、彼女だけは夫婦が用意した『精進料理』を食している。
白米にけんちん汁、芋揚げ、舞茸の焼き浸し、あけび酢、しめじと青菜のひたし、浜納豆、胡麻豆腐、香の物などの他、おやつとして饅頭と羊羹が用意されていた。
精進とは、仏教用語であり、美食を戒め、粗食をし、精神修養を行うこと。
精進料理を食べるのは、殺生や煩悩などの刺激を避けるためだ。
野菜や穀物などの植物性の食品のみを口にする。
ただし、宗派によっては、ネギ・ニンニク・ニラ・ラッキョウ・ノビルなどはあ「五辛」または「五葷」といって、刺激の強い植物として食することを制限する。
そこへ、扇屋亭主が襖をあけて別の料理をもってきた。
箱膳には、湯気のたつ、香ばしいにおいの玉子焼きがのっていた。
「まあ、これが美味しいと評判の玉子焼きですね……ですが、私は御仏につかえる身、食べるわけには……」
「いえいえ、これは本物の玉子をつかっておりませぬ……神主さんやお坊様にだすために扇屋で開発した『擬製豆腐』ですよ」
「まあ……擬製豆腐……でしたら……」
擬製豆腐とは、水切りしてくずした豆腐に野菜をいれて蒸したり、焼いたりして料理したものである。
一見すると玉子焼きにみえるが、豆腐のなかにタケノコ、ニンジン、キクラゲ、カブの葉、インゲンなどが入って、香ばしく焼かれた豆腐料理である。
ガンモドキなどはもともと精進料理であり、『雁擬き』とかいて、雁の肉の代用品であったのが一般に広まったという説がある。
尼僧は擬製豆腐を一口大にきりわけ、湯気の立つそれを口にいれた。
ホクホクとして甘味が口に広がる。
「美味しいですわ~~!!」
花が咲き乱れたかのように、美貌の尼僧が笑顔を見せた。
周囲の者も釣られて笑顔になり、多幸感にひたる。
そこへ、遠くでドタドタと足音が響き、こちらにやってくる気配がした。
「秋芳尼さまぁぁ~~~!!」
「あらま、紅羽……竜胆に黄蝶も……どうしたのです、泥だらけですよ……」
「実は狐男を探し求めたら、偽物で、でも本物の狐の妖怪が出てきて、地の底でボォ~~~とやってやりましたよ!」
「あらあら、まあまあ……ボォ~~~となりましたか?」
少し困り顔の秋芳尼の横から、伴内が血相を変えて弟子を叱り飛ばす。
「おい、紅羽!! 話をはしょりすぎじゃい! 竜胆、代わりにわかりやすく頼むぞ……」
「はっ、小頭。実は……」
竜胆がわかりやすく深川材木町での判官狐たち妖狐軍団の顛末をかたった。
途中で気を利かせた扇屋夫婦が紅羽・竜胆・黄蝶にも箱膳をはこび、遅い昼食を味わった。
「なるほど……では、大工の鶴吉さんと御隣の母子が、妖狐一味につかまって狐御殿とやらに連行されたのですね……」
「はい、おそらく奴らの棲家は王子のどこかにあると思われます。おそらくは狐火のよく出るというあたりではないかと……」
「では、浄天眼の術で居場所をつきとめましょう……何か鶴吉さんの持ち物は?」
「はっ、長屋の大家に事情を話し、大工の半纏を拝借させてもらいました」
竜胆が頭目に黒い着物を渡した。
「しかし、秋芳尼さま、ここには鏡がありませんぞ……急ぎ、鳳空院に戻りますか?」
伴内が秋芳尼に駕籠へと促すが、麗しき尼僧はかぶりをふった。
「緊急事態です……扇屋さん、鏡を……なるべく大きな鏡を貸してくださいませんか?」
「はいっ!!」
主人は奥さんの姿見鏡をもってこさせた。
「法具ではない鏡ですが、なんとかしましょう……」
秋芳尼は大工の半纏に触り、念を凝らす。
精進料理で体力が回復したとはいえ、オーバーワークであった。
しかも、本来は鳳空院にある浄玻璃鏡という法具をつかうのだが……
天摩忍群一同が固唾を飲んでみまもる。
やがて秋芳尼は姿見鏡に両手をかざし、摩利支天の陀羅尼の経文をとなえはじめた。
「ナモアラタンナ タラヤヤ タニヤタ アキャマシ マキャマシ アトマシ……」
秋芳尼の両掌があわく緑色に発光し、それに反応するように鏡面の映像がゆらぎだした。
やがて、中央に波紋が幾重にも広がる。
「天摩流法術・浄天眼!」
鏡面にぼんやりとではあったが、神社のような姿が見えた。
「これは……王子稲荷神社でございますよ!」
地元民で、神社の氏子でもある扇屋主人が建物のシルエットでピンときて叫んだ。
「なんと、王子稲荷神社に妖怪の巣窟があるとはのう……」
映像が歪み、次に木の根っこがはえた穴倉のような場所が映った。
「穴倉みたいなのは、地下道かもしれないですぅ……」
さらに、歪み、立派な構えのある、黒い影のような邸宅のシルエットが見えた。
「これが狐御殿とやらか……ここに鶴吉さんたちが捕まったんだな……」
「ふぅ~~~…あとは頼みますよ……私は休ませていただきます……」
尼僧が女童のように、おねむの表情になった。法力を使いすぎてしまったのだ……
「はいっ、秋芳尼さま、後はまかせてください!」
紅羽がトンっと胸を叩き、美しき尼僧は奥で休ませてもらうことになった。
「秋芳尼殿たちはこちらか……」
奥の間にまたも訪問者があった。お馴染みの寺社役同心・松田半九郎である。
「あっ、松田の旦那ぁ……どちらに行ってたんで?」
「おう、紅羽たちも戻ったか……実は近在の者たちから、最近、夜になると大入道が出現するというのだ……近所の者たちから苦情があり、番屋で聞き取りをしていた……」
「ぴええええっ! 狐妖怪とは別に大入道も出たのですか?」
「どうせ、狐か狸に化かされたんじゃないの? ここは狐で有名な王子だし……」
「それはそうだが……猟師や樵などが数名、行方不明となっているんだ」
三女忍は顔を見合わせた。
「気になりますねえ……松田殿、消えた場所はわかっているのですか?」
「うむ……王子の滝野川のほとりや、不動の滝、飛鳥山周辺などで大入道にさられたという噂なのだ……」
気になる事件だが、紅羽たちは松田半九郎に事情を話し、まずは狐御殿に捕まった鶴吉たちの救出に向かうことにした。
出がけに、扇屋の女房からおやつにと、胡麻団子の包みを渡した。




