狐の嫁入り
翌日の朝五ツ(午前10時)ごろ、深川材木町の金助長屋。
大工の鶴吉はおしのの息子・惣太に王子で買った火防の奴凧をお土産に渡した。
「わああっ……ありがとう、鶴吉さん! おいら、さっそく飛ばしてみるよ!」
「おうよ、飛ばせ、飛ばせい。これは王子稲荷の凧市でかったありがたい火伏の凧だ。揚げれば火事除けだけでなく、厄除け、無病罹災、商売繁盛にもなるっていう縁起もんだ」
惣太は元気に川岸へ走っていき、そのあとを鶴吉とおしのが並んでついていく。
はしゃいだ鶴吉が凧をもって河川敷を走り、その後を、凧本体をもった鶴吉が風にのった頃合いを見て放した。
この騒ぎに、楢の枝にとまった四十雀たちが飛び立った。
「わ~~い、あがった、あがったぁ……凧、凧あがれ、天までとどけ♪」
と、正月でもないのに歌をうたって楽しげだ。
背後から追いついたおしのが鶴吉の隣に立ち、嬉しげな惣太を見やるが、襟からのぞく後れ毛が色っぽい。
「遠いところで仕事から帰ったばかりなのに……惣太にお土産をありがとうねえ……鶴吉さん……」
「いやいや、いんだよ。おいらは惣太が喜ぶ姿をみるのが大好きでねえ……心がこう、ポカポカしてくらあ……」
「まあ……うふふふ……」
大工の若者は、若後家から発する目に見えない、なんとも優しい心気にあてられ、多幸感で蕩けそうになる。
――おしのさんと惣太のそばにいるだけで、幸せな気分になる……おいらは早くに両親をなくしちまったからなあ……これが家族ってもんかもしんねえや……
鶴吉はしんみりして、そっと目尻を袖でふく。
「ところで、鶴吉さん。さっきから気になっていたんですが、おでこの絆創膏はどうしたんです?」
「えっ……いや、なに……、喧嘩に巻き込まれて棒で叩かれちまってねえ……」
「まあ……気をつけてくださいねえ……」
言葉を濁した鶴吉に、なんとなく会話がとぎれる。
そのとき、頬にポツリと水滴の感触がして、小雨が降りだした。
「おや、日が照っているてえのに、小雨かな? まあ、長屋にもどるほどではねえけどね……」
「きっと、狐の嫁入りですよ、鶴吉さん……長く雨が降っていて、やっと晴れたから、どこかでお狐さんたちも、お嫁さんを送り出しているんですよ、きっと……」
「なるほど、狐の嫁入りかあ……長雨がやんだけど、狐日和が多いからねえ……だからかねえ、なんだか落ち着かねえや……」
「昔からお天気雨は吉兆の知らせなんていいますから、良い事があるかもしれませんね……」
太陽が照っているのに、小雨が降る奇妙な現象を『狐の嫁入り』という。
また、雨が降ったり、お日様が照ったりする落ち着かない天候のことを、昔から『狐日和』といった。
すると、急に周囲がうす暗くなっていき、晴れていたというのに薄暗がりになった。
通り雨かと空を見上げると、嘘のように天候が急変し、厚い雲が覆って暗くなった。
川岸向こうに怪火がポツポツと灯り、三十以上の狐火が生じた。それがゆっくりと近づいてくる。
「なっ、なんだあ……あれはもしかして、狐火……」
鶴吉はさぁ~~と、血の気が引いた。
王子の大工仲間が言っていたことを思い出した。
「狐は執念深い、祟られるよ」っと。
「鶴吉さん……顔が……紙のように真っ青ですよ……」
「なんでもねえ……きっと、通り雨だ……惣太、雷様がゴロゴロがくるかもしれねえ、凧揚げは中止だっ!」
「えっ、雷様こわい……おへそを取られる……帰ろう、母ちゃん!」
「おしのさん、惣太坊とさきに長屋に入って待っていてくれ。くれぐれも外に出ないでくれよ……」
「えっ!? 鶴吉さんは?」
「おいらはちいとばかり、野暮用だ……いいから早く」
鶴吉はおしのと惣太母子を急き立て帰らせ、怪火の点る方角へおそるおそる歩いて行った。
すると怪火にあたりの闇が、曇り空よりも真っ黒な靄が渦まき、長屋をすっぽりと包みこむほどの黒雲がこちらの河川敷に、神話の超巨大蛇のように濛々(もうもう)とやってきた。
その中にぼぉ~~と青白く燃える狐火が見える。
雲が縮小していき、捕吏の着物をきた狐頭人身の妖怪狐の群れが見えた。
その中心に大名駕籠がふたつあり、その一つから
「あっ、あいつだ、あいつだよ、叔父貴!」
「たしかだな、阿茶……」
「見間違えるもんかい! この額のたんこぶはあいつのせいだよっ!」
突然あらわれた狐妖怪の集団に鶴吉は目を見開いて金縛りにあった。
が、地面に突っ伏し、
「……昨日の狐の娘さんだろ……阿茶さんといったねえ、この間は悪かった……この通りだ……」
鶴吉は地べたに土下座してあやまった。だが、狐娘はそっぽをむく。
「へ~~んだ、ゆるしてやんないよ!」
「コ~~ンコンコンコン……あたくしは叔父の判官狐という」
「そうか、叔父さんか……可愛い姪っ子さんにすまない事をした……」
「殊勝な態度よのう……鶴吉とやら……だが、ゆるさぬっ!!」
「俺も男だ……焼くなり、煮るなり、好きなようにしろい!」
若者は腕をくみ、大地に胡座をかいて座り込んだ。
「コ~~ンコンコンコン……神妙な態度はほめてあげる。でも、これから狐御殿に連れていって、裁きをつけてあげるわ……これっ!」
判官狐が笏をふって合図すると、左右から捕吏の着物の狐が現れた。
その先には縄で縛られたおしのと惣太がいた。
「鶴吉さん……」
「鶴吉おじさんっ!!」
「おしのさんっ! 惣太坊っ!」
さきほど長屋に返したはずの母子。
これは鶴吉にとって、おそれていた、最悪の事態となった。
「たのむっ、判官狐、いや、判官狐さま! おしのさんと惣太坊は関係ない、放してくれ……」
「そうは問屋が卸さないよ……女房ならば罪を犯した本人だけでなく、その家族も刑罰に処すって、人間の法律でもあるでしょ。連座制でいう、縁座の刑よ!」
縁座とは、律令制における刑罰の一種であり、ほかにも犯罪者以外の関係者に罪がおよぶのを連座といった。
「それなら、違う……おしのさんは俺の女房じゃない。人別帳を調べてくれ、いや、大家でも近所の人にでも聞いてくれ!」
「嘘おっしゃい、さっきまで仲睦まじく話してたじゃないの」
思わず鶴吉とおしのは目を伏せ、頬を赤らめる。
「鶴吉さん……この妖怪はいったい、何をいっているの?」
「おしのさん……実は俺のイタズラ心で狐娘に怪我させてしまって、その叔父さんが怒って、仕返しにきたんだ……王子のお狐様を苛めた祟りなんだよこれは……」
鶴吉はおしのに昨日の狐娘を騙し返したことを話した。
「まあ……そうだったの……でも、でも……」
「鶴吉おじちゃん……」
「おしのさん、惣太……おいらのことは忘れてくれ……おいらは悪い男だ……おしのさんの亭主に、惣太のおっ父になれる器の男じゃなかったんだよ……」
「そんな……鶴吉さん…………」
「俺も男だ、江戸っ子だ。自分のシクジリは自分でなんとかする……だから、頼むよ、判官狐様……俺はどうなってもいいから、おしのさんと惣太は放してくれ!」
「そうは烏賊の金玉、蟹のフンドシよ。お涙ちょうだいなんて、いまどき流行ってないんだから、恥ずらかしい……縁座の刑でも、連座の刑でも一緒だしね……者ども、ひったてい!」
「そんなぁぁ……ご慈悲だよ……」
狐娘の阿茶がこの様子をみて、眉をよせ、しんみりした顔になる。
判官狐の袖をつかみ、
「なあ……叔父貴ぃ……あたいは鶴吉に恨みはあるけど、奥さんと子供まで捕まえなくても……」
「だまらっしゃい、阿茶! あんたももう変化のできる歳になったんだから、甘いこと言ってんじゃないのよ!」
阿茶の言葉をさえぎり、判官狐が釈を突きつけた。耳と尻尾をたれてうつむく阿茶狐。
捕吏狐たちが三人を抱えて、囚人用の唐丸駕籠にのせようとする。
そこへ、闇夜の中で風切り音が唸り、六方手裏剣が捕吏狐の足元を釘づけし、縛った縄を切断した。
「なっ、なにやつ!!」




