いざ、常世の世界へ
護り袋を握りしめる、日に焼けた母親の手を、白魚のような手がそえた。
その主は黒い法衣を着こみ、白い尼頭巾をかぶった、慈愛あふれる十八、九歳ほどの尼僧であった。
左の目尻にホクロがあり、背が高く細身だが、胸部と臀部は豊満である。
「「「秋芳尼さまっ!!」」」
見れば、駕籠をもった松影伴内と金剛がうしろに控えていた。
「いったい、どうしてここに……」
「うたた寝をしていたら、不吉な夢を見ました……よく覚えていませんが、竜胆たちが困っている姿です……そこで、あなた達の持ち物を拝借して、浄天眼の術で両国をさがしてみました……すると、強大な妖気を持った妖怪の影が見えました。そして、お昼頃、竜胆たちや妖怪の気配が唐突に消えました……慌てて探してみると、雑司ヶ谷の映像が映り、困っているようなので、駆けつけたのです。あとはわたくしに任せてください」
松田半九郎は、不吉な夢をみて心配した秋芳尼が、母親のように心配性であるなと思った。
(まあ……じっさい、正夢となったがな……)
頭目の言葉をうけて、小頭の伴内が、
「両国にあった天空斎の葭簀小屋は蛻の殻じゃったが、危ない武器を持った芸人たちが倒れていたのでな、さては……と、催眠術で事情を聞き出したわい……ついでにかかっとった術も解いておいたんじゃい」
「おおっ……催眠術も使えるとは……さすがは小頭なのですっ!!」
「おっとろしゅなこつ(すごいなあ)……いつもは奥さんに頭が上がらないのに、小頭は多彩な術を習得していますね!」
「まあな……ふはははは……って、ひとこと余計じゃい、紅羽!!」
半九郎が金剛と伴内の傍らに近づいて、こっそりと耳打ちした。
「金剛殿……伴内殿……秋芳尼殿は任せてと安請け合いされたが、さきほど竜胆たちが探しても見つからなかったのだ……」
「大丈夫ですよ、松田殿……秋芳尼さまは生まれつき霊力がたかく、日本三大霊場といわれる臼杵磨崖仏で厳しい修行を成し遂げられ、鳳空院の前庵主にして、退魔師として高名な天芳尼さまに認められた御方です!」
磨崖仏とは、自然の岩壁や露石などを素材に造立された仏像であり、平安から鎌倉にかけて多く造られた。
臼杵磨崖仏とは、豊後国臼杵(大分県臼杵市)にある磨崖仏で、古園石仏群・山王山石仏群・ホキ石仏第一群、ホキ石仏第二群の四ヶ所にわかれ全国でも数が多い。
日本三大霊場は青森県の恐山、香川讃岐の弥谷山、そして大分県の臼杵磨崖仏、といわれているが諸説ある。
「さよう……秋芳尼さまの霊力を甘く見てはいけませんぞ! ……きっと、常世への扉を見つけてくれるはずですわい」
「ほう……退魔師のことはよく知りませなんだが、その世界では有名な方だったのですな……」
ともかく、竜胆たちが飛ばされてきたと思しき狐ヶ原の一角に移動し、秋芳尼が神気を高め、目に見えない“常世への端境”を探すことになった。
「鬼子母神は鬼神王・般闍迦の妻で、恐ろしい鬼女でした……五百人の子供を持つ母親でありながら、その子供達を育てるために人間の子供をさらい、食べていました。その悪行を知ったお釈迦様は鬼子母神の末子を隠しました。嘆き悲しむ鬼子母神に、我が子を失う悲哀と命の大切さを説教しました。鬼子母神は改心し、すべての子供達を守る神様になることを誓いました……人喰いの鬼女は反省して、安産・子安の善神に生まれ変わったのです……鬼子母神様、どうか子供達を救うため、御力を授けて下さいませ……」
尼僧は数珠をにぎりしめ、「オン ドドマリ ギャキテイ ソワカ……」と、秋芳尼は鬼子母神の真言を唱えた。
「さあ、おろくさん……いつも文助くんを寝かしつける時に唄う子守唄を唄ってください」
「えっ……子守唄を?」
「そうです……母の子を思う心は奇跡を起こすものです……オン ドドマリ ギャキテイ ソワカ……」
おろくが決意した表情で、両手を胸前で合掌し、静かに唄いはじめた。
〽ねんねんころりよ おころりよ ぼうやは良い子だ ねんねしな……
坊やのお守りは どこいった あの山こえて 里へ行った……
里のみやげに 何もろうた でんでん太鼓に 笙の笛……
消えた子供の安否を気づかうおろくの子守歌と、秋芳尼の慈愛にみちた鬼子母神の読経が、不思議な安らぎを覚える二重奏となって原っぱに響きわたった。
竜胆たちはその合唱をきいて、切なくなり、母の幻影を心に浮かべ、郷愁に駆られた。
すると、尼僧を中心に光の波紋が発生し、あっという間に消えた。
そして、雑草の生えた大地の少し上、何もないはずの空間に光り輝く筋のようなものが薄らと見えた。
「見つけましたよ……常世への端境を……オン ドドマリ ギャキテイ ソワカ……」
尼僧の読経によって、光の筋が正方形に広がっていく。
その向こうの景色は、桃林が広がり、鳥が舞い飛ぶ不思議な光景に一同が驚嘆の声をあげる。
「……おろくさんの母の愛が奇跡を呼び起こしました……何時の世も母の愛は偉大なのです……」
「さすがは秋芳尼さま、そして、おろくさん……妖怪野ぶすま仙人が見つけて利用している“常世”への出入口……我らでは見つけることができませんでした……」
「秋芳尼さまは凄いのですぅ!!!」
「よっしゃ、さっそく神隠し妖怪の隠れ処に乗り込んでやろうじゃないの!!」
「俺も当然ながら行くぞ……なんせ後見役だからな……」
意気盛んな天摩忍群くノ一三人娘。半九郎も太刀の柄を握って身構えた。
「金剛さん……あれを……」
「はっ……こんな事もあろうかと、作っておきました」
作務衣を着た大柄な男が尼僧にかしずき、鉄の首輪を渡した。
「竜胆……もしかしたら、この『妖秤輪』を使うかもしれませんので、預けておきます」
「はっ……」
「この出入口を開けていられるのは半刻(一時間)ほどでしょう……それまでに子供たちを助け出してくださいね……」
「時間制限つきですか……なんとかしてみますのじゃ、秋芳尼様!」
そこへおろくが進み出た。
「あっ……この向こうの世界に文助が……私も……私も行きたいです……」
「いや、この向こうには危険な妖怪がいて、何が起こるかわからぬ……おろくさんはここで待っていてくだされ……」
「ですが……」
「大丈夫です……この子たちはきっと、文助くんや神隠しにあった子供達を救い出してくれるでしょう……信じてください」
おろくをなだめ、四人の妖怪退治人は謎の異界へ足を踏み込んだ。
やはり、なにか眩暈を感じたが、二度目なので耐性が少しついたようだ。
背後を振り返ると、正方形の現世への出入口が見え、秋芳尼が手を振っているのが見えた。
正方形の入り口の向こうの空は不思議な石竹色で、鮮やかな桃のなる林があり、きれいな花畑に赤い蝶が舞い、木の枝を瑠璃色の鳥が飛び交っていた。
七色の花からはかぐわしい香りが漂い、まさしく仙人仙女が住まう仙境であった。
「うわあぁ……これは凄いのですぅ……」
「だけど、常世の世界って、常に夜が続く世界じゃなかったっけ……でも、ここは明るいなあ……」
「野ぶすま仙人が妖術で昼間にしておるのかもしれぬのう……」
「綺麗な花が咲いて、良い匂いがするのです。桃がいっぱいなって、美味しそうなのですぅ……これが噂にきく桃源郷ではないですか?」
「そうかもしれないなあ……おっ、あそこには華麗な鳥がいるぞ……ああいうのが極楽鳥というのかもしれないなあ……」
大きな樹の枝に、青地に赤や黄色、緑色の差し色がある絢爛な羽根を持つ鳥が背中を向けて、翼を休めていた。
竜胆たちに気が付いて、首をこちらに向けた。
それは、美しい女人の顔であった。上半身が女人で、両腕が翼、下半身が鳥という幻獣である。
「うわああぁぁ!! びっくりした……人面鳥だぁぁ……」
「ぬう……あれはもしかして、天竺の山奥や極楽浄土に棲むといわれる“迦陵頻伽”かもしれぬのう……」
迦陵頻伽は声が美しく、仏の声を例えるのに使われる。
“好声鳥”、“妙音鳥”とも呼ばれ、日本では美しい声の芸妓や美貌の花魁芸者を例える代名詞にもつかった。
絵画や石像などの仏教芸術の題材でも好まれる。
「ええ……なんで日本の常世の世界に、仏教の妖怪がいるんだよぉ!!」
「さあて……そういえば、その昔、行脚中の僧侶がで、どこかで老松の枝に休む“迦陵頻伽”を見たという……浄土と常世はどこかでつながっており、ときおり異界の端境から現世に姿を現すのかもしれぬ……」
「それは平泉の千厩だ……俺は陸奥での兵法修行の旅で、奥州仙台藩のある一関千厩を通ったが、“迦陵頻伽の丘”というのがあった」
「へえええ……地名になっていたのねえ……」
「でも、あの迦陵頻伽ちゃん、なんだか可愛い顔なのです。お友達になれそうですよ」
黄蝶が口笛を吹いて呼ぶ真似をした。
すると、女面鳥は翼を羽ばたかせ、宙に舞い、こちらへ飛んできた。風を巻き起こし、みるみる近づいてくる。
「あれ……意外と大きいような…………ぴえええええええええっ!!!」
迦陵頻伽の体長は四丈(およそ12メートル)以上もある大怪鳥であった……巨大な爪で竜胆たちをつかみ取ろうと飛来してきた。
遠近法でわからなかったが、巨鳥が止まっていた巨樹も山のように大きいことになる。
クエエエエエエエエエエッ!!
「逃げろぉぉぉ!!」
大地に舞い降りた女面鳥がドスドスと追いかける。
四人は近くの茂みに走るが、動転した黄蝶が小石に躓いてしまった。
「ぴえ~~ん……こけちゃったのですぅ……」
黄蝶の背中に女怪巨鳥の巨大な口が迫る!




