忍法瓦偶兵陣
あたたかい陽気の青空のあちこちで雲雀が飛び交い、青い苗穂がみえる田園地帯が広がっていた。
その向こうがわにはお椀を伏せたような道灌山がどっしりと佇んでおります。
道灌山ちかくに小高い山があり、こぢんまりとした尼寺が見える。
そう、ここはみなさんおなじみの谷中・瑞雲山鳳空院。
尼寺の裏にある暗い森の中、病葉の大地に初老の男が佇んでいた。
おもむろに左右の手を前で合わせ、中指を立ててあわせた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
男は裂帛の気合をこめて呪文を唱えた。
文字ごとに指が複雑に交差し、組み直される。
それは独占印・大金剛印・外獅子印・内獅子印・外縛印・内縛印・知券印・日輪印・穏形印という複雑なものだ。
最後に息を吹き入れ、結印を解き、右の中指と人差し指を立てて刀で切る仕草をした。
これは刀印という。左手は鞘にみたて、腰におく。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
ふたたび男は同じ呪文を唱えながら、指の刀で臨を横に切り、兵を縦に切り、闘・者・皆・陣・烈・在・前を五横四縦に切り払った。
これは九字結印法といって、いわゆる精神統一法である。もとは真言密教の護身法であり、山伏兵法を取り入れた各流派の忍者もおこなう。
初老の男は大地に片膝をつき、右の掌を当てた。掌が光り輝き、三方に光の筋が分かれた。
「大地に宿る形無き土塊どもよ……現世に出でて歩み従う影となれ……天摩流土術・『瓦偶兵陣』!」
男の足元を中点にして、暗い森のなかで、大地に燐光する丸い物が盛り上がってきた。
それは円筒状の人型をした粘土人形で、人間大の大きさがある。
棒状の右手を腰に、左手を顔の横に曲げていた。それが三体、地の底から這いあがってきたのだ。
現代人の我々が見れば、粘土人形は古墳時代につくられた土偶――埴輪だというだろう。
大地から埴輪兵士を生み出したのは天摩流忍群の小頭であり、忍術忍法師匠の松影伴内だ。
そして、その前に片膝ついて控えているのが、紫紺の忍者装束を身にまとった彼の弟子――紅羽、竜胆、黄蝶である。
伴内は弟子たちの戦闘訓練の一環として、土塊に己の“神気”を放出し、仮初めの命を与え武術訓練用の粘土人形を生み出したのだ。
「おおっ! なんかすごいっ! 小頭はいつもズッコケてばかりじゃないんですねえ……」
「まあな……ふははは……って、おい……ひとこと余計じゃい、紅羽!!」
「あはっ、ごめんちゃ……」
紅羽が舌を出し、その横で竜胆が感服していた。
「さすがは小頭……いや、師匠じゃ……一度に三体の瓦偶人を出すとは……」
「ふふふ……まあな。もっと出せるが今回はこれで充分」
江戸時代ではまだ“埴輪”という言葉はなく、人型の埴輪を“瓦偶人”という名前で呼んでいた。人間大の土偶といえば、古代中国の墓に収めた兵馬俑が有名だが、日本の古墳時代の埴輪は兵馬俑ほど写実的ではない。両者とも死後の死者の生活を助け、守護するために埋められたものと考えられている。
「ぷぷぅ……でも、お顔がマヌケなのですぅ~~」
たしかに黄蝶の指摘するとおり、瓦偶人の顔はぽっかりと空いた丸い黒穴が三つ配列された簡単なものであり、顔だけ見ているとなごんでしまう。
「黄蝶よ、愛らしい顔にだまされてはいかんぞ。今回は武術訓練ゆえ、神気法をつかってはならん。武芸のみで相手せい。額と心臓部を突けば瓦解するようにしておる……では、組手練習をはじめるんじゃいっ!」
樫の棒を渡された瓦偶兵埴輪が、円筒上の体から、短甲の武人姿に変化していった。
「はにゃあぁぁ~~~!」
武人人形が不思議な声を発し、くノ一三人娘に襲いかかる。
長剣は風を切る速さで、しかも重い。
斬撃で近くの木の枝が伐り飛ばされた。
三者ともバク転して、その一撃を避けた。
「だあぁぁぁぁ……なんとも気の抜けた掛け声なのに……」
「なんともえげつない攻撃ですよぉ……この瓦偶人ちゃんたち……」
紅羽と黄蝶が不平面で嘆く。
「ふはははは……気を抜くと負けてしまうぞい、お前たち」
「この師匠もえげつないぃぃ~~…」
「二人とも泣き言をいっていないで、反撃にでるのじゃ!」
巫女剣士でもある竜胆が薙刀を八双にかまえ、樫の棒をもった瓦偶人兵の急所めがけて薙刀の刃を突いた。
が、樫の棒ではね返される。
空気が一瞬にして冷たく冴えわたる。
「むむっ……竜胆に先陣をとられるとは……あたしだって……」
「黄蝶もがんばるのですぅ!!」
紅羽と黄蝶が本気をだせば、呼応したように土偶兵士も掛け声をだして樫の棍棒をくりだす。
「ふにゃあぁぁぁ~~~!」
「ほにゃあぁぁぁ~~~!!」
娘剣士でもある紅羽が好敵手心むき出しにして、太刀を青眼に構えてから迎え撃つ。
黄蝶も得意の円月輪を両手に構え、瓦偶人に飛びかかった。
瓦偶兵の棍棒による五段突きを軽やかなステップで避け、紅羽が隙をみて土偶兵士の額に突きを送る。
が、瓦偶兵は左足を後ろに送り、半身になって避けた。泥人形の思わぬ反射神経に紅羽が舌をまく。
竜胆が得意の薙刀で下から切り上げ、相手の土偶兵士が棍棒で迎撃する。
が、刃は棍棒にかみ合わず、手元にもどって突き出しで心臓部を狙った。
しかし、そのフェイクも御見通しのようで、樫の棒で防御された。
暗い森の木の幹を蹴り上げ、小柄な黄蝶が木々を三段跳びで宙に舞い、瓦偶人兵を翻弄。
隙をみて土偶兵士の肩に飛び乗り、飛輪を額に送った。
しかし、土偶は身をかがめて、黄蝶のバランスを崩し、たまらず黄蝶は木の枝に飛躍して避難。
およそ四半刻(30分)後、紅羽と竜胆は、ほぼ同時に武人埴輪の心臓部をついて土塊に戻した――
少し遅れて黄蝶も泥人形兵士の額を突くのに成功。
「よし、これまで……庫裡にて、茶で一服するか……」
松影伴内が尼寺鳳空院へ歩み去っていく。
汗まみれの黄蝶が紅羽に寄りかかる。
「へとへとなのですぅ~~…紅羽ちゃん、オンブして……」
「だぁぁ……黄蝶、汗だらけで抱きつくなよ……」
「じゃれあうな二人も……しゃきっとするのじゃ」
急に忍術師匠が鋭い目つきとなった。
「むむっ、山門に誰かきたようじゃい……」
小頭の松影伴内が大地にしゃがみこみ、耳を地面につけた。
彼の忍者耳は、数里先の足音をも聞き分けるのだ。
「えっ、誰だ……もしかして刺客……」
「しっ……」
だれていた紅羽と黄蝶が、一瞬にして精神を張りつめた。
竜胆も薙刀を構えて臨戦態勢となる。
「この足音は……成人男性が二人……」
紅羽・竜胆・黄蝶が生唾をのんで見守る。
「……いつもの寺社役同心殿たちじゃな……」
「なんだぁ……三白眼の旦那と扇子の旦那かぁ……」
「軽く行水してから、着替えて行くのじゃ……」
気が抜けた三人娘が忍者師匠の松影伴内と別れて庫裡へ向かい、普段着に替えてから尼寺の石段の下にある茶屋“松葉屋”へ向かった。
茶屋には白い尼頭巾をかぶった尼僧と小太りの中年女が、二人の同心に茶をふるまっていた。
「秋芳尼殿! これは江戸幕府開闢以来の大事件ですぞっ!!」
年かさの寺社役同心の叫びに、田園沿いの林で囀っていた雲雀たちが、いっせいに枝から飛び去った。
いまは、天明元年五月下旬、西暦でいえば1781年。
徳川家の将軍も十代目家治のころ――




