葦の原怪談
三人のくノ一衆は谷中の鳳空院から日暮里、三ノ輪を駆けぬける。
彼女たちは提灯をつかわずとも夜目がつかえる。
屋根瓦を駆け抜け、森の木の枝を飛猿のごとく跳び、歩けば半刻(一時間)の距離を四分の一で走破できる天摩流忍び走りだ。
鐘ヶ淵は現在は整備され公園として市民のいこいの場となっているが、江戸時代は一面葦の原と森林が広がっていた。
この一帯が鐘ヶ淵というのは一説に石浜にあった普門院という寺が亀戸村に越すとき、梵鐘が落ちて沈んだという伝説がある。
しかし、作家の幸田露伴は「水の東京」でこの説を否定している。
川の形が曲尺のように90度に折れ曲がっているので「曲尺ヶ淵」というのが本当だ、と。
確かに江戸時代の地図を見れば隅田川は鐘ヶ淵で不自然に直角に曲がっている。
大工が材木などを測るときにつかう曲尺はL字型になっており、そっくりだ。
それが“鐘”に転じたのかもしれない。
三人は鐘ヶ淵の葦原につくと周囲を探査し、浄玻璃鏡にうつった妖怪の栖をさがした。
「あっ、洞窟があったのですぅ!」
「なにっ! 黄蝶、どこだ!」
紅羽と竜胆が黄蝶の声で集まった。
見れば、切り立った崖があり、岩に覆われて見えにくいが、頭蓋骨の眼窩のような洞穴がポッカリと開いていた。
「よくやったぞ、黄蝶!」
「えへへへへ……」
紅羽が黄蝶を抱きしめ、頭をなで回す。
「それにしても、なんだかゾクッとする場所だね……」
「ここは隅田川が直角に曲がっている、水死体がこの岸辺にひっかかり、よく漂着するというからな……成仏できない人の霊魂がさまよっているのかもしれん……」
竜胆は夜の月明かりに逆光となり、影をまっとている。
美人なだけにいっそう怖い。
「ひえええええええっ! それを先に言ってよ、竜胆ちゃん……怖いじゃない……」
「いや……我らは妖怪退治屋なのだが……」
ここに事故や身投げ、洪水などで亡くなった人の水死体が90度に曲がった鐘ヶ淵の葦の原に漂着し、成仏できない人々の怨念が集まったらしい。
それで、江戸の人々は昔の鐘ヶ淵といえば、おどろしいおどろしいイメージがあったようだ。
「妖怪はまだ気がついてないようだな……忍び込むか?」
「そうね、人質の命が最優先だから、中の様子をうかがわないと……あたしが探ってくるよ……」
紅羽が身を屈め洞窟に進もうとする。が、そのとき岸辺から音がした。
――ガサッ……ガサッ……ガサッ………
葦の葉をかきわけ、なにかがやってきた。生臭い匂いがむっと漂う。そして人とは思えない異様な気配が伝わっていた。
「散ッ!」
三人のくノ一が音もたてず葦原の茂みに隠れ、穏形の術で気配を消す。
(穏形・鶉隠れの術!)
三人はうつ伏せになり、首をひっこめ、手足を縮めて、石のように身動きせず、じっと動かずに気配を消して隠れた。
この術は鶉という丸っこい鳥の習性を真似て、追手から身を隠すために、近くの物に寄り、寒夜に霜の音を聞く如く息を殺して隠れる忍術だ。この時、摩利支天の印を結び、真言の呪文と唱えて心を落ち着かせる。
(オンアニチヤマ、リシエイソワカ………)
――ズルッ……ズルッ……ズルッ…………
なにか異様なものが水に濡れた雑巾をひきずるような音がすぐ側を通る。
黄蝶はゾクッと鳥肌が立ち、体が震えるが、一心不乱に真言をとなえて穏形の術をたもつ。
時間が長く感じられる。
悲鳴をあげそうになるのを必死にこらえているうちに、肩をポンと叩かれた。
「ひょえええええっ!」
「しっ! あたしだよ……」
紅羽が黄蝶の口を押さえて悲鳴をとめる。
「妖怪の奴め……また新しい犠牲者を連れてきたぞ……しかも、我々が見知った顔じゃ……」
「えっ? だれだれ、竜胆ちゃん?」
「あの女たらしの吉兵衛だ……」
「えっ、男? 妖怪は女の子ばかりさらっていたのに、なんでまた?」
「さてね……案外、そこに事件の核心がありそうじゃ……」
洞窟に忍び込む天摩忍群くノ一衆。奥から男の声がする。
紅羽がのぞくと、そこに誘拐事件の依頼者である湊屋の手代・吉兵衛がいてへたり込んでいた。
(なんで妖怪の栖に吉兵衛が?)
「おるい! おるいじゃないか! 探していたんだよ……無事だったかい?」
(えっ、おるい?)
紅羽がのぞけば、島田髷をおろして、ザンバラ髪という凄まじい姿の美しい娘がいた。
しかし、青白い肌で幽鬼のようだ。
「……違うよ……吉兵衛さん……あたしだよ……お勢だよ……」
「えええええええええっ!?」
「……この間、あなたが助けてくれた隅田川のお勢ですよ……」