第五章 例のもの
第五章 例のもの
思わぬ形で、僕は例のものを僕らの交渉の前面に持ち出す事となった。僕としては、こうした展開すらも全く予期していなかった訳ではなかったのだが、しかし、ジュリエットが無闇に例のものに近づく事、いや、それよりも、僕自身が例のものにあまりにも接近し過ぎる事を、僕は望んではいなかった。ひょっとすると、そうした安易で過剰な接近は、一瞬のうちに全てを破綻させかねないと考えていたからだ。僕が望んでいるのは、例のものを解き明かす事ではなく、あくまでも例のものを手放す事、それも、できるだけ何事も無いままで、つまり、まるで僕の目の前ををただ通り過ぎるように、一刻も早く例のものを彼らに引き渡す事だった。
しかし、ジュリエットは、一見極めて無邪気に、気軽に話を続けた。まるで、彼女にとっては例のものなど何ら重要ではなく、ほとんど関心も無いかのようだった。
「なるほど。・・・それじゃ、ロミオ様は、どこまでご存知なんです?」
「どこまで、というのは?」
「その、例のものについて」
僕には、ジュリエットがどこまで本心で語っているのか、つまり正直に話しているのかわからなかった。しかし、彼女の言葉にはもう芝居がかったところはなかったし、僕を欺こうという意図も感じられなかった。本当ならば、このままの状態で交渉を続けるのは危険な事かもしれなかった。しかし、ここで突然会話を打ち切るわけにもいかなかった。
「その点に関しては、多分ジュリエットさんの方でも聞いていると思うんですけど、僕には、知らされてないんです。その、例のものが、それこそ『本当』は何であるか、という事については。僕には知る権利も無いですし、それは、不可能なんです。それに第一、別に知りたくもないですしね」
僕は少しわざとらしくファイルを指差し、
「それに書いてなかったですか?」
と訊いた。
ジュリエットは頷いた。
「書いてありました。そういった事も、ちゃんと書いてありました。・・・じゃ、知らないんですね?何も。『本当』に」
「そう、ですね。多分、知らないんだと、思います。もしかしたら、『本当』に知らない、という事自体、よく知らないのかもしれないし」
非常に忌々しい事に、僕はこの言葉を自嘲気味に言わざるを得なかった。そして、ジュリエットは僕のこの言葉を聞くと、僕を馬鹿にしているような、それとも憐れんでいるような、何とも言いようの無い表情をして見せた。
「きっと、そうなんでしょうね・・・」
僕は、思わず叫び声を上げて逃げ出したくなった。彼女の言葉には、恐ろしい無関心が響いていた。それは、普段あまりにも何気なく言われ、何気なく聞き流される、幾千万の言葉の底で響いている、あの恐ろしい無関心だった。僕は、海の底にいるような気分だった。
最も恐ろしい刑罰は、死刑ではない。追放だ。言葉を殺される事、沈黙に追いやられる事、窒息させられる事、これらも勿論恐ろしい事に変わりは無い。しかし、それが仮に死であるならば、それは人間の死だ。追放は、違う。それは死ですらなく、死に移行するよりももっと自然な経過を辿り、人間である事を放棄するよう迫られる。人間として生きる事、死ぬ事を許されないまま、生きる事を強いられる。しかし、それはもはや生ではない。いや、「生ではない」のではなく、「その時『彼』は、『人間』ではない」のだ。それが追放なのだ。人間に、「非」人間に成る事が可能であるという、この矛盾。まさしく人間は、追放によって境界の外にはじかれるのだ。光の届かない海の底で、「彼」は何を見る事も、何を語る事も無く、呼吸する事も無い。ただどこまでも、石のように。まるで、世界の始まりから、石であったかのように・・・。
無論、僕は石ではない。僕は、逆に彼女に尋ねた。
「ジュリエットさんは、何かご存知なんですか?」
「はい?」
「例のものについてです。何か、ご存知なんですか?」
ジュリエットは首を横に振った。
「いえ、何も。ウチも何にも知らないんです。本当に必要な事以外は、何も聞かされてないんです」
「必要な事?」
「はい。その、このコーディネーターの仕事をしていく上で必要と思われる情報以外は、何も教えてもらえないんです」
「例のものに関する情報は、何一つ必要無い、という事ですか?僕との交渉を進める上で?」
「そう、なんだと思います」
「あのファイルにも何も書いてなかったんですか?」
「はい」
ジュリエットは、相変わらずどこかぼんやりした、話に興味の無い様子をしていた。恐らくそんな事は無いはずだが、彼女は実際に例のものについて何も知らないように見えた。
「僕には、すごく奇妙な話に思われますね。ジュリエットさんは、僕との交渉を引き受けたわけです。コーディネーターとして。僕がロミオであるという事に、例のものがどの程度関係あるか、という事はさておき、少なくとも僕との交渉において、例のものが極めて重要であるという事、いや、僕との交渉はほとんど、例のものをどう扱うか、というその一点に尽きるという事は、この仕事を引き受けた時点である程度予測できたんじゃないですか?それなのに、その例のものに関する詳しい事は全く知る必要が無いという彼らの言い分に、素直に従ったわけだ。例のものについて何も知らないままで、交渉がうまく進むと思ってたんですか?」
ジュリエットは困ったような顔をした。
「いえ、そういう訳でもないですけど・・・。でも、教えてもらえないんじゃ仕方無いし。知ってる事だけで、仕事するしかないですから」
「知ろうという努力は必要だと思いますけど。それで、仕事がうまくいくんなら」
彼女は何かずるそうに微笑んだ。
「それなら大丈夫です」
「大丈夫?何が?」
「例のものについて何も知らなくても、仕事はちゃんとできます。ロミオ様と、色んなお話ができますから」
「色んなお話」。ジュリエットが自分の仕事を、謂わば「ロミオと話をする事」と理解しているのは、ほぼ間違いない。しかし、それがただの他愛の無い話に終始してしまうと、僕の方では困ってしまう。ともかく、彼女が「自分はロミオと話をせねばならない」と考えてくれているうちは、僕にもチャンスがある。僕が心掛けねばならないのは、そこから何かを引き出す事だ。たとえ彼女が何も知らないと白を切っても。
「あの、すいません」
「はい?」
「ウチ、さっきからずっと考えてたんですけど・・・。聞いてもいいですか?」
「ええ、勿論」
「ロミオ様は、その、例のものを手放したいと思ってらっしゃるんですよね?」
「そうです。一刻も早く」
「そうすると、さっきロミオ様が言ってたみたいに、例のものを所有しているから、ロミオ様がロミオ様で在らざるを得ない、とすると、例のものを手放しちゃうと、ロミオ様はどうなっちゃうんですか?」
「僕は・・・、ロミオではなくなるでしょうね。とりあえず」
「ロミオ様でなくなる?」
「ええ」
ジュリエットはまじまじと僕を見つめ、そして、ふふっ、と吹き出した。
「でも、ロミオ様はロミオ様じゃないですか?」
「うん。まあ、今のところはね。でも、例のものを彼らに引き渡せば、僕がロミオである必要は無いからね」
「それじゃ、ロミオ様はどうなるんです?」
僕は少し考え、
「僕は、僕に戻るんじゃないかな」
と答えた。僕にとっては、それは何でもない、当然の事と思われた。
しかし、ジュリエットは驚いていた。そして、そんな事はとても信じられない、と言った様子で、少し愚かしげな笑みを浮かべ僕を眺めていたが、やがて、僕が自分の言った事を本当に信じているとわかると、目に見えてうろたえ出した。
「そんな・・・、そんな事って・・・。あり得ないですよ」
「あり得ない?どうして?」
「だって・・・。あり得ない・・・」
「あり得ない事なんか無いでしょう。普通に考えれば、そうなると思いますけど」
「だって、ロミオ様はロミオ様なんですよ?」
「君が、ジュリエットであるように?」
ジュリエットは胸を突かれたようにハッとなった。そして短く何回か頷き、
「そう、そうです」
と言った。
沈黙のうちに、しばし僕らは見つめ合った。というよりも、ほとんど睨み合っていた。この時、例えば、僕は永久に、いつまでもロミオだ、と言っていたならば、彼女を安心させる事ができたかもしれない。しかし、僕はそうは言わずに、できるだけ何気なさを装って、次のように質問した。
「ジュリエットは、どうしてジュリエットなの?」
彼女は微動だにしなかった。
「僕が例のもののためにロミオだとしたら、君は一体どうしてジュリエットなんだろう?答えられる?」
勿論、嘘でも出鱈目でも、何でも構わないけど、と付け足す事を、僕は忘れなかった。
ジュリエットはしかし、全く動じなかった。彼女はむしろ、僕がこんな質問をした事自体が信じられない、といった様子だった。そして、彼女はか細く震える声で、
「ウチがジュリエットなのは・・・、ロミオ様がロミオ様だからです。ロミオ様がロミオ様だから、ウチはジュリエットなんです。そんな、そんな事、わかりきった事じゃないですか・・・」
と言った。
「だとしたら、僕がロミオでなくなった場合、君はどうなるんだろう?ジュリエットは?」
ジュリエットは首を振った。
「あり得ません。そんな事、ありっこありませんもん」
「つまり・・・、僕は、永久に、例のものを彼らに引き渡す事ができないという事?」
「いえ、そんな事は・・・。いつかは勿論例のものについても引き渡しが行われるかと思います・・・。ウチはそのために派遣されてきた訳ですし・・・」
「じゃ、例のものを引き渡しても、僕はロミオのままという訳だ」
彼女は何も答えなかった。
「やっぱり僕は、結果として、自分でも気付かないうちに嘘を吐く事になってしまったのかな。あるいは・・・」
僕は少し声を落とした。
「君が嘘を吐いているのか」
ジュリエットは視線を傾け、何事か思案するような素振りを見せた。
「多分、ウチもロミオ様も、嘘は吐いてないと思います」
「そんな事があり得るだろうか?それこそあり得ないんじゃ?」
「あり得ます。ウチらは二人とも、何にも知らないんです」
僕らが二人とも、「何も知らない」?そんな事があり得るだろうか?「本当」に?しかし、僕にはそれとは別に気に掛かる事があった。
「その、引き渡しの時期なんですけど、いつ頃になりそうですか?」
「え?」
「例のものの、引き渡しの時期です。さっき、いつかは彼らの手に渡る、と言いましたけど。具体的には、いつ頃になりそうなんです?」
「ああ、それはですね、えっと・・・」
ジュリエットは、必死に何か思い出そうと眉間に皺を寄せた。
「確か・・・、壁が、完成してからだと思います。そう、ウチは、確かそう聞いてますけど」