第四章 「ウチ」と「ワタクシ」
第四章 「ウチ」と「ワタクシ」
ジュリエットとの最初の面会の後、僕はすぐさま再び彼らと連絡を取った。しかし、僕が期待したような前進は何も無かった。僕は、そもそもコーディネーターなんぞが本当に必要なのかと改めて問い質したのだが、彼らはぜひともコーディネーターが必要であるという自説を崩さなかった。主な理由としては、彼らの多忙とコーディネーターの「豊富な実績」が挙げられていた。彼らによれば、過去に彼らがコーディネーターに委託した「数え切れないほど多数」の案件においては、全て滞りなく双方にとって「満足のいく」結果が得られたというのである。それならば、せめて僕を担当しているコーディネーターを変えてくれ、と僕は要求(というより嘆願)した。しかし、それも駄目だった。彼らによると、今回僕の元に派遣されたコーディネーターは、実績は乏しくとも「極めて優秀」な人物らしいのだ。
またしても僕は行き詰ってしまった。とにかく一応は「ジュリエット」という形で僕の取引相手はその代理人を派遣してきた訳だが、それは全く何の役にも立たない代物だという事がわかった。例のものを預かってくれる訳でもなければ、僕の知りたい諸々の事情について知っている訳でもない。もっとも、それについてはまだファイルがある。僕が適当な質問をぶつければ、何かしら有益な答えを聞き出せるかもしれない。しかし、結局、今のところはまだ、全て彼らの思い通りなのだ。要は、彼らはジュリエットという愚にも付かない身代わりを前に立たせ、そこで僕の足止めをし、時間稼ぎをしているのだ。こうしている間にも、壁はどんどん造られていく。僕があの娘の下らないおしゃべりに付き合っている間にも。
しかし、それでも僕はまだ落ち着いていた。というのも、僕はジュリエットの事を考えていたのだ。実際、今の僕にはほとんど打つ手が無かった。しかし、それでも唯一の手掛かりがあるとすれば、それは、ジュリエットだった。確かに今のところは、彼女は彼らの手先であり、およそ彼らの手先としても果たして役に立つのかどうかも怪しいような人間だ。しかし、現時点で僕の身の回りの人間の中で彼らと接点を持っているのは、とにかく彼女なのだ。彼女だけなのだ。もしも彼女を味方につける事ができれば、いや、それが無理だったとしても、せめてうまく彼女を欺き、彼女自身も気付かないような形でこちら側のために働くように仕向ける事ができれば・・・。しかし、それは容易な事ではなかった。何しろ、まずもって僕は彼女が苦手なのだ。
ここまで考えて、僕は彼らが彼女を「極めて優秀」であると言っていた訳が少しわかったような気がした。なるほど、もしかすると彼女は僕のような人間を相手にするにはうってつけの交渉相手かもしれない。か弱い、小動物のような、すぐに相手を信頼してしまう、少し頭の弱い女の子。彼女のような相手を、敵と考え実際に敵に回すことは難しい。しかし、紛れもなく彼女は敵なのだ。少なくとも彼らの側に立っているうちは、僕にとっては、敵なのだ。
敵?彼女は敵なのか?いや、違う。僕には敵などいない。取引相手がいるだけだ。彼女はその取引相手が派遣したコーディネーターだ。敵ではない・・・。
ともかく、僕は当面の自分の進むべき道筋見えてきたような気がした。僕は、ジュリエットに接近し、彼女と交渉しなければならない。うまく彼女をこちらに引き込めればいいが、とりあえずは、そう、ファイルだ。あのファイルに収められた情報を、直接的にであれ、間接的にであれ、知る必要がある。できれば実物を手に入れたいが、駄目なら彼女から聞き出すまでだ。
僕が再びジュリエットと相見えたのは、初対面から五日後の事だった。その日はたまたま仕事が休みになったため、僕は、色々と聞きたい事があると言って、午後から彼女を例のカフェに呼び出した。
カフェに着くと、ジュリエットはもう先に来て席に着いていた。彼女は僕を見つけると、立ち上がり深々とお辞儀した。
僕らは型通りの挨拶をし、二、三言葉を交わした。そして、何と無く黙ってしまった。すぐに僕は、彼女の様子が初対面の時とは違い、どことなく不自然な事に気付いた。彼女は大人しく、無理をして自分を押さえつけているように見えた。僕との接触の仕方について、彼らから何らかの指導が入ったのは明らかだった。
実を言うと、僕は、次にジュリエットと会った際にはどのように対処しようか、予め考えてきていたのだが、残念ながらそれは全く役に立たなくなってしまった。もっとも、それならそれで構わないのだが、しかし、僕は改めて自分の考えの浅はかさを思い知らされた恰好だった。彼女は、ジュリエットは、あくまで彼らの傀儡なのだ。僕との接触は逐一彼らに報告されている事だろうし、その接触の仕方についても、勿論常に彼らの思惑が働いている。僕が本当に相手にしているのは、相手にしなければならないのは、ジュリエットではない。彼らなのだ。にも拘らず、僕はジュリエットを観察し、彼女に対して適切な対応ができれば、事態を打開できると考えた。しかし、実際に彼女がどんな人間であるかという事は、まるでどうでもいい事なのだ。問題なのは、あくまで彼らなのだ。彼らがどんな連中なのか、彼らに対しどう向き合えばいいか、それを見極めなければならないのだ。この先いくらまともにジュリエットの相手をしていても、おそらくきりがないだろう。僕はまず、ジュリエットの背後に隠れている彼らを引っ張り出さなければならない。
「あの、お話といいますのは・・・」
とうとう痺れを切らしてジュリエットが僕に訊いた。彼女は目に見えて緊張していた。
「そう、色々あるんですけどね・・・。まあ、その前にちょっと質問なんですけど・・・、ジュリエットさんは、関西出身なんですか?」
「いえ、全然。どうしてですか?」
「自分の事、ウチ、とか言うじゃないですか」
「ああ、それはぁ」
パッと彼女の表情が明るくなり、僕の知っているあのジュリエットの顔になった。一口に言って、彼女は極めて素直で扱い易い。もし僕が彼女の父親だったら、娘が誰か悪い人間に騙されやしないかと心配で堪らないだろう。
「何か、高校の時とかに、自分の事を『ウチ』って呼ぶのが流行って、それが今でも抜けないんです。生まれは思いっきり川崎なんですけど」
「あ、川崎なんだ。ふーん。じゃ、『ワタクシ』とかは苦手なんだ?」
「苦手ですぅ。もう、超苦手ですよ。『ワタクシ』なんて柄じゃないですよ」
「あー、はは。そっかあ。ま、そんな感じはするけど。じゃ、『ワタクシ』っていうのは、派遣会社に言われて、仕方なく・・・?」
「ああ、そうですね。仕方なく、でもないですけど。一応社会人ですし。仕事ですから」
僕は納得したように頷いた。ジュリエットはそんな僕を見て微笑んだ。
「何ですか?」
「何って?何が?」
彼女は不思議そうに首を傾げた。
「何でそんな事聞いたんですか?」
「そんな事って?」
「『ウチ』とか『ワタクシ』とか。ウチが自分をどう呼ぶか、なんて・・・」
「・・・そんな事、どうでもいい?」
彼女は、何か得体の知れないものでも見るような眼で僕を眺めた。
「どうでもよくはないですけど・・・。何でそんな事聞いたのかな、って」
「そんなの僕の勝手じゃないですか」
「それはまあそうですけど」
ジュリエットは少しふてくされたような顔をし、そしてすぐに微笑んだ。僕は勿論戯れに、つまりちょっとした意地悪でそんな言い方をしたのだ。そして、当然彼女の方でも僕の言葉や態度のそういったニュアンスを感じ取ってくれていた。
「最初、ジュリエットさん、『ウチ、ジュリエットです』って言ったじゃないですか」
「はい」
だって、ジュリエットですもん、とまたしても彼女は繰り返した。
「うん。いや、僕は、ただ単にね、僕と会って話をする時は、自分の事『ウチ』って呼んでも構わないのになあ、って、そういう事が言いたかっただけなんです」
「ウチ、ですか」
「うん」
僕は意識的に、頬杖を突いたまま視線をテーブルに落としていた。僕には、自分が今の話の内容を全く他愛の無いものであると考えている事を示す必要があった。
「つまりね、なんか、変な話になっちゃいますけど。要は、『ウチ』が『ジュリエット』だって事はわかったんです。ただ、じゃあ、『ジュリエット』は、『ウチ』なのかな、それとも『ワタクシ』なのかな、っていう。そんな事を、ちょっと考えちゃったんです」
ジュリエットは僕を見つめていた。彼女の、僕を見る「見方」、それに変化が生じたのを、僕は見逃さなかった。
「初めて会った時、『これは仕事だけれど、自分は本当にジュリエットなんだから、ジュリエットで通したい』って、そんなような事を、言ったじゃないですか?でも、それなら、『ワタクシ』じゃなくて、『ウチ』でもいいし、他の事も、『本当』の事でいいののにな、って、そんな風に思ったんです」
彼女は唇を噛んでいた。彼女の心は、動いたのだ。少なくとも僕にはそう思われた。彼女はその動揺を隠そうと、いや、おそらくはそれ以上に、それを示そうとしているように見えた。
やがて、彼女は堪え切れない様子で僕に尋ねた。
「『本当』の事って、何ですか?」
「・・・それは・・・、僕にはわからないな。ジュリエットさんの『本当』の事はジュリエットさんにしかわからないんじゃない?」
ジュリエットは、僕の顔の中に答えを探すかのように、僕を見つめ続けていた。そして、今までの彼女の声の調子とは打って変わって、心の底から残念そうに、ほとんど痛切に、か細い声で独り言のように、
「ロミオ様は、どうしてロミオ様なんだろう?」
と言った。
彼女はこの言葉を、僕の聞く限り、とても芝居がかった調子で言った。にも拘らず、この言葉はとても真実らしく響いた。彼女は心の底から、僕が僕である、つまり、僕がロミオであるという事実に、震撼し、絶望し、恐れを、そして憐れみを感じているかのようだった。
僕は何も答えられず、ただ微笑み彼女を見つめ返すだけだった。しかし、僕も内心は動揺していた。
もし、今の彼女の言葉やそれに纏わる態度が芝居だった場合、その真実らしさを考えると、彼女のこの芝居は極めて恐ろしいもののように思われた。また、もしもそれら全てが、実際に、まさしく「本当」に、真実彼女の本心だったとすれば、それはとてつもなく恐ろしい事だった。彼女のこの疑問が真実のものだとすれば、つまり、彼女は、「ロミオ」を知っているのだ。僕よりもはるかに、「ロミオ」について、僕自身について知っているのだ。なぜなら、そうであればこそ、彼女はその事実に震撼し、絶望もできるはずだから。彼女は、恰もロミオの(つまりは僕の)運命を知っているかのように、「ロミオはどうしてロミオなのだろう?」と言ったのだ。
無論僕としては、僕の運命であれ何であれ、彼女が「何か」を知っているのであれば、ぜひともそれを聞き出さねばならなかった。僕がまず「ウチ」を引っ張り出そうとしたのもそのためだった。「ジュリエット」を蔽う為に彼らが用いていた「ワタクシ」を、追い詰め、窒息させる。もしそれがうまくいって、ジュリエットが「ジュリエット」を「ウチ」と定めるならば、それによって「ワタクシ」は追放される。そうなれば、たとえ僅かでも、僕は「本当」のジュリエットに会えるかもしれない。もっともそれも、「ウチ」がジュリエットの「本当」だったとしての話だが。
「答えて下さらないんですか?」
「え?」
いつの間にか、ジュリエットは不思議なほど落ち着きを取り戻していた。
「ああ。どうして・・・、僕がロミオなのかって、事?」
ジュリエットは頷いた。僕は必死になって考えを巡らしていた。そして、この時初めて、僕ははっきりとジュリエットを手強い相手だと認めた。
「それは、僕にもわからないな。というより、答えられない、と言った方が正確かな。僕の考えるところでは、世の中には、どんな風に答えても嘘になってしまう、そんな問い掛けがあるんだと思う。今の質問もそれに当たるのかな、と思うね。一応は、この僕でも、僕がなぜロミオであるのか、という事を『語る』事はできる。でも、それは、必ずしも『本当』とは限らないんだろう、と思う。僕は、できれば嘘を吐きたくない。君も、嘘の答えを聞かされても仕方ないだろうし」
「それじゃ、ロミオ様も、ロミオ様の『本当』をご存知無いんですね?ウチが自分の『本当』を知らないのと同じように?」
「そうだね。僕は・・・、僕の『本当』を知らない」
まさしく、これは敗北だった。しかし、ジュリエットは追及の手を緩めなかった。
「でも、『語る』事はできるんですよね?」
「え?」
「必ずしも『本当』とは限らない、が、『語る』事はできる。そうおっしゃいまいした。自分がなぜロミオであるのか」
「しかし・・・、僕は、嘘を好まない」
ジュリエットは、眼を弓形にして微笑んだ。
「嘘でも構いません。ワタ・・・、ウチは、ロミオ様の言う事なら、何だって信じます。ロミオ様が何を語っても、ウチが信じれば、嘘にはなりません。それに、ロミオ様が嘘を言うはずがありませんし」
「いや、僕にとっては、僕自身に関する事実が重要だ。僕が自分で気付かないまま嘘を吐くという事もあり得る。僕はそれを避けたいんだ」
「でも、それなら何も『語る』事なんてできないんじゃないでしょうか?」
「そんな事は無い。と、思う。それに、僕にだって、何がしか、信じてるものはあるんだし・・・」
ジュリエットはにっこりと笑った。僕は、その笑みを見てギクリとした。
「それですよ、それ。ロミオ様の信じてるものを聞きたいんです。それを話して下さい。駄目ですか?」
「駄目という訳では・・・」
「ウチ、ロミオ様の友達ですよ」
そう、彼女は僕の「トモダチ」だ。なにしろ、僕の方で友達になってくれとお願いしたのだから・・・。
「そうだね・・・。なぜ、僕がロミオなのか、その理由を強いて挙げるとするならば・・・」
「するならば?」
ジュリエットは楽しそうに繰り返した。その言葉を聞くと、明らかに彼女に追い詰められているにも拘わらず、どういう訳か僕も愉快な気持ちになってしまった。
「強いて挙げるとするならば、『例のもの』に尽きるだろうね。『例のもの』を所有しているから、僕はロミオなんだ。『例のもの』を所有している限り、ロミオはロミオで『在らざるを得ない』んだ」