第三章 ジュリエット
第三章 ジュリエット
僕の心を捕えていた疑問はただ一つだけだった。つまり、なぜこうまでして頑なに彼女は嘘を吐き通そうとするのか、という事だ。そして、奇妙な事には(というより、僕はこの点彼女に感心していたのだが)、彼女は全く嘘を吐いているようには見えなかった。勿論、ただ単に、彼女がいかにも女性らしく、嘘を吐くのが巧みであるだけだ、という事もあり得る。しかし、僕にはそうは思われなかった。むしろ僕には、彼女は嘘を吐く事が出来ない人間、それが言い過ぎであれば、嘘を吐く事が極端に苦手な人間に見えた。もっとざっくばらんに言ってしまえば、要するに彼女は、あまり賢くないようだった。つまり、少なくとも彼女は、悪意をもって、あるいは何か企みがあって嘘を吐く、という事は得意ではないようだった。なぜなら、本当の悪意を持つためにはある程度賢くなければならないからだ。おそらく彼女も、時には女性一流の本能から、つまりどこまで意識的になのかそれとも無意識的になのか、自分でもわからないままに嘘を吐く、というような事もあるかもしれない。しかし、先ほど彼女は、はっきりと意識的に、まるで自分が本当にジュリエットであるかのように、「ウチ、ジュリエットです」と言ったのだ。つまり、彼女は間違いなく嘘を吐いている。しかし、そこには悪意は感じられないし、彼女が何かある目的のために実際的に嘘を利用できるような人間だとも思えない。それでは、彼女は『意識的に何の理由も無く』嘘を吐いているのだろうか?もしそうであるならば、勿論そんな人間をまともに相手にする事などできはしない。
もっとも、こうした僕の見解も全て誤りで、実際にこのジュリエットはとんでもない大嘘吐きなのかもしれない。この小動物のような眼に、僕は欺かれているのかもしれない。畢竟、僕ら男にとっては、女の嘘というものは永遠の謎なのだから。
ともかく、僕は少しでも彼女の真意に近づこうと思い、尋ねた。
「要するに、そのファイルと同じようなものなんですかね?」
「ファイル?・・・え?何ですか?」
「そのファイルの中身を僕に見せてしまうと、クビになっちゃうんですよね?会社を」
「はあ」
「つまりですね、僕と面会している間、僕と接触している間は、ジュリエットという名前で通さなければならない。決して本名が僕にばれたり、別の名前、つまりジュリエット以外の、謂わばコードネームを名乗ったり、その名前で僕と接触したり活動してはならない。もしそういう事をした場合には」
「クビ」
僕は頷いた。
「そうです」
ジュリエットはじっと僕を見つめていた。僕も彼女を見つめ返した。眼を逸らす訳にはいかなかった。彼女に少しでも近づくためには、もし彼女が嘘を吐いているならば、その嘘を見破るためには、眼を逸らしてはならなかった。眼を逸らしてしまえば、そこで僕の負けだった。
見る見るうちに彼女の眼には涙が溜まっていった。しかし、その涙が今にも零れ落ちそうになるその寸前に、彼女は涙が一杯に溜まったその眼を猫のように弓形に細め、僕に笑いかけた。
「ロミオ様は、ワタクシを疑ってらっしゃるんですね」
もしここで、彼女の涙を堪えながらの笑顔にうろたえてしまえば、そこで僕の負けが決まってしまっただろう。しかし、僕はいくらか表情を優しく緩ませながらも、あくまで冷静に彼女を観察し続けた。
「いや、決してそんな事はないですよ。・・・ただ、その、何というか・・・。(僕は思わず少し笑ってしまった)やっぱり、信じ難い事ですよね。あなたが、ジュリエットだ、というのは」
ジュリエットは、恰も聞き分けのない子供を眺める母親のような眼で僕を眺めた。
「もっとも、僕としましては、あなたの名前が本当にジュリエットだろうが、それともナターシャだろうが、何だって構わないんですけど。ただ、そんな事に、何の意味が、あるのかな、と。どうしてもジュリエットと呼んで欲しいという事であれば、勿論僕の方でもそうお呼びしますけど」
僕としてはできる限り自制したつもりだったが、おそらく僕の口調には、かなり皮肉な響きがあった事だろう。しかし、彼女は微笑んでいた。それは、女性が男性の無理解や無神経に耐え、尚且つそれでも男性を許そうとする時に見せるところの、男を沈黙させ、男に少しばかりの後悔と、不愉快と、そして多大な敗北感を味わわせる、あの微笑だった。
ジュリエットはしおらしい様子で頭を下げた。
「ぜひそのようにお願いいたします。これからもワタクシの事はジュリエットとお呼び下さい」
僕は油断せずに彼女を観察し続けた。
「ごめんなさい。あの、もしも気を悪くされたのであれば・・・」
「いえいえ、とんでもございません。その、ロミオ様の疑問は・・・、もっともな事でございます」
そして、少し間を置いて、もっともでございます、と彼女は繰り返した。
短い沈黙、が、あった。しかし、それは、短いながらも緊張感に満ちた、様々な駆け引きのある沈黙だった。一瞬、彼女は何か言いたそうな素振りを見せた。僕はその瞬間を見逃さなかった。しかし、僕は迷いを感じた。この素振り、彼女の「何かを言いたい」というサインを取り上げ、彼女の発言を素直に促すべきだろうか?もしかすると、彼女は誘っているのかもしれない、と僕は考えた。つまり、彼女は、僕が自ら彼女の発言を呼び込むのを狙っているのだ。「僕が彼女の話を聞きたがった」という了解を得たいのだ。もしそうだとすれば、この場合、彼女のサインを見逃した振りをして、流してしまった方がいいかもしれない。そうすれば、もし彼女の言おうとしている事が、是非とも今言っておかなくてはならないものであった場合、彼女はそれを自分から話さざるを得ない。そして、彼女が自ら進んで話をすれば、その事によって、その話を僕が「聞いてあげた」という構図が成立する。そうなれば、僕は彼女との会話において彼女より有利な立場に立てるだろう。会話というものは、時として、互いの立場が微妙に揺れ動くそのニュアンスによって、決定的に支配される事がある。特に女性を相手にする場合は、このニュアンスうまくリードしないと、いくら話をしても、こちらが望むものを引き出す事は出来ない。
この駆け引きは非常に短い一瞬間の間に行われたのだが、結果としては、僕は彼女の発言を取り上げたのだった。つまり、僕はリスクを考慮したのだ。僕がいま彼女の言葉を封じ込めてしまうと、彼女は、僕の事を話しずらい相手、好きなように話をさせてくれない相手、と認識し、そう決めつけてしまうかもしれない。最悪の場合、黙り込んでしまう可能性もある。今まで観察した結果からすると、これ以上会話で不愉快な思いをすると、彼女が臍を曲げて僕との間に壁を築いてしまうという事は、大いにあり得るように思われた。
「ん?何ですか?」
「え?」
「今、何か、言おうとしませんでした?」
「あ、いえ。何も」
彼女は顔の前で大袈裟に手を振った。
「そうですか」
僕は頷き、素知らぬ顔でコーヒーを一口啜った。しかし、すぐに、彼女もカップを持ったそのタイミングを狙い、
「え、絶対、何か、今言おうとしましたよね?」
と言葉を挟み込んだ。そのタイミングが絶妙だったため、彼女は思わずコーヒーを吹きそうになった。そして、口を手で覆った。彼女は笑っていた。これで、新しい話をする準備は整ったのだ。僕は彼女の発言に注目した。
「いえ、ほんとに、何でもないんです」
「何でもない事無いでしょう。言って下さいよ。気になりますし」
彼女はまだ少し勿体ぶって、俯き指を弄っていた。
「ほんとに、何でもないんですけど・・・」
「はい」
「実は、マニュアルにも書いてあったんです」
「マニュアル?」
「あのファイルに入ってるんです。今回の業務に関するマニュアル」
つまり、どうやら僕との交渉はマニュアルに沿って行われる予定だったらしい。しかし、ともかく彼女は話し続けた。
「そのマニュアルに、名前の事も書いてあったんです。『もしも顧客があなたに対して特定の呼称、例えば秘密のコードネームのようなものを用いて交渉をするよう要求してきた場合には、原則として顧客の意見に従う事。また、その場合にはその呼称が外部に漏れないように配慮する事。呼称は必ず上司に伝え、変更があった場合もその都度速やかに伝える事。』って」
彼女は僕の反応を見るためか、僕をじっと見つめた。しかし、勿論僕は微動だにしなかった。
「ですから、もしマニュアル通りにするんであれば、ワタクシは、ロミオ様のお好きな名前を名乗る事もできるんです。というか、本当はそうしなければならないんです。でも、ウチ、そんな事したくなくて・・・」
「うん」
「それで、ジュリエットだ、って、言い張ったんです」
またしても短い沈黙があった。しかし、今度の沈黙は僕が考えを整理するために必要な沈黙だった。
「という事はつまり・・・、あなたは、ジュリエットという名前で、仕事がしたい、という事?」
「だって、ウチ、ジュリエットですもん」
僕としては黙って頷く他無かった。結局僕は何も探り出す事が出来なかった。彼女の話は、驚くべき内容だった。つまり、言い張っているのだ。この娘は、自分はジュリエットだと、あくまで言い張っているのだ。『仕事をする上では本当は別の名前でも構わないらしいんだけどぉ、でも、本当にジュリエットなんだし、その名前で通したいじゃないですかぁ』要するに、そう言っているのだ。
僕は事態を整理した。ひょっとすると今回は、彼女に敗北するという事は避けられたのかもしれなかった。しかし、これから先も僕らの交渉が続くと考えるならば、僕はやはり多少不利な立場に立たされたのかもしれなかった。なぜなら、僕は彼女の正体を全く知らず、それでも彼女をジュリエットと認め、そのジュリエットと交渉を続けなければならないからだ。目の前にいて、実際に言葉を交わしながらも、僕はその相手が何者なのか全く知らないのだ。これでは彼らを相手に連絡を取っていた時と何ら変わりは無いではないか?
「わかりました、ジュリエットさん。僕の方でも、それならそれで全く構いません。・・・それで、これからの事ですけれども、一体、どういう事になるんでしょうか?僕のお話を聞いて頂けるんですか?まあ、それはそれでありがたい事かもしれませんし、もしジュリエットさんが友達になってくれると言うんであれば、僕の方でもぜひお願いしたいくらいなんですけど」
ジュリエットはいかにも愉快そうに声を上げて笑った。そして何やらはにかんで、
「じゃあ、お友達から、という事で・・・」
と言った。
僕は軽く眩暈を覚えた。この娘は何を言っているのだろう?この娘の言葉は何なのだろう?どこまでが本気で、どこまでが冗談で、どこまでが仕事で、どこまでが彼女の個人的な事柄なのだろう?彼女は何か一つでも、自分を律する基準を持っているのだろうか?ひょっとして僕は、もっと警戒しなければならないんじゃないだろうか?ひょっとしてこのジュリエットは、恐ろしい危険人物なのではないだろうか?それとも全てが、彼女の名前も、言葉も、存在も、一切合切全てが、他愛の無い冗談なのだろうか?