表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

第一章 壁

   第一章 壁


 一口に言ってしまえば、僕は待ちくたびれてしまったのだ。辛抱が足りない、と人は言うだろうか?確かにそうかもしれない。しかし、何の応答も無い中でひたすらに待つというのは辛いものだ。待つ者は、信じなければならない。信じる事ができなければ、誰も、この先の見えない保留の期間を、平然と耐える事はできないだろう。僕は彼らを信じていないのだろうか?そう、疑っている、というほどではないが、おそらく、信じ切るというところまでは至っていないのだろう。僕は信じなければならないのだろうか?その通りだ。僕は信じなければならないし、信じなければならないという事を、僕も重々承知していた。しかし、僕は些か待ちくたびれてしまったのだ。この応答の無い保留の期間が、どうにも耐え難くなってしまったのだ。

 そんな訳で、僕は初めて彼らと連絡を取った。僕の要求は、僕が預かっている例のものを、早々に引き取って欲しい、つまり、一刻も早く自分をこの任から解いて欲しいという事だった。半日後に届いた返答は、実に素っ気無い、いや、そればかりか、言外に苛立ちを滲ませた、少なくとも僕にとっては少々不愉快なものだった。彼らは自分たちの準備が遅々として進まない事、しかもそれは彼らのせいばかりではなくて、色々と予想外の出来事が次々と起こった結果そうなってしまった事、そして、事態の復旧にはまだしばらく時間がかかりそうであるという事を伝えてきた。返事のニュアンスからは、全体として、彼らが事態をかなり悪い状況であると認識している事が感じられた。要するに彼らとしては、今は僕なんかには構っていられない、という事らしかった。

 この返事を受け、僕は、一旦大人しく引き下がった。なるほど、彼らには彼らの事情が、僕にはいまいちよく理解できなくとも、当然様々な事情があるだろうし、僕が自分の都合だけを押し通す訳にもいかないだろうと考えたのだ。しかし、間も無く僕は、ぜひとも今すぐあの例のものを手放さなくては、と考え、再び彼らと連絡を取った。僕がそのように考えを変えた理由、それは、壁だった。

 そう、壁、壁なのだ。壁が、できつつあった。壁が、造られているのだ。僕は気付かなかったのだ。いや、何かを建造中であるという事、駅に向かう通りの脇や、僕が部屋を借りているアパートの裏の丘を切り崩した土地に、以前から何かを建設中であるという事はわかっていた。確かに、あちこちで、いや、ほとんどいたるところで工事中だった。しかし、僕はそうした状況を、大規模な再開発計画か何かだろうといった程度に考えていたのだ。ところが、僕が「彼ら」から(つまり、いつか例のものを渡すはずのあの人々から)冷淡な返事を受け取った日から三日後に、僕はとある工事現場で不思議な事に気付いたのだ。

 その日、僕は仕事に行くため、いつも通り駅に向かって歩いていた。駅へ向かうその通りは、丁度拡張工事が終わったばかりで、舗装は真新しく、街路樹も植え替えられていた。そして、通りの片側、駅に向かって左側の、僕がいつも通勤に使う側には、どこの工事現場でも見かける、通行者の安全のために設置される、あのクリーム色の壁が立てられていた。クリーム色の壁の内側には日当たりのよいなだらかな丘が続いており、広範囲に亘って住宅が建設中だった。その一帯は大規模な分譲住宅地になる予定だった。

 僕は歩きながら、いつの間にか、しかし確実に姿を変えていくこの街の風景を、不思議な気持ちで眺めていた。僕には、こんなにも大きな、とても人間の仕事とも思えないような巨大な仕事が、一体誰の手によるものなのか見当も付かなかったからだ。しかし、これは確かに人間の仕事なのだ。これは人間がやっているのだ。そして、あの住宅、外見はほとんどどれも変わらないあの沢山の箱の全てに、人間が住むのだ。僕にはこれも不思議な事に思われた。なぜなら、僕はあまり裕福ではない、いや、ざっくばらんに言ってしまえば、要するに僕は貧乏人なので、こんなにも沢山の金持ち、つまり、大金を払い自分の家を持つ事のできる人間がいるという事が、何と無く信じ難いのだ。しかし、僕の全く与り知らないところに、こんなにも多くの富があり、そして、その富によってこんなにも巨大な仕事が成されているのだ。そして、僕はそこからは疎外されている。この豊かな、不思議な富に溢れている世界に通じる扉は、僕には閉ざされているのだ。歩きながら、僕はそんな事を考えていた。

 その通りの途中、丁度高台に向かって登っていく坂道に通じるT字路のあるところに、僕は差し掛かった。そこにはいつも工事車両の交通整理をする警備員が一人立っていた。大抵は二十代前半と思しき青年か、五十歳位ののおじさんのどちらかだった。二人とも礼儀正しい優しそうな人で、朝僕が通り掛かるといつも丁寧に挨拶してくれた。

 その日はおじさんが立っていた。

「お早うございます」

 お早うございます、と僕の方でも挨拶を返し、そのおじさんの脇を通り過ぎた。

 その時、僕は見たのだ。クリーム色の壁の、その内側に、さらにもう一つ、壁があるのを。それは、まだ土台の一部分が出来上がっただけの、背の低いものだったが、確かに壁だった。灰色の、分厚い、丁度刑務所や軍事施設を囲っているような、ああいった壁の一部分に、僕には思われた。しかし、その時は、僕はさして気にも留めずに先を急いだ。仕事があったためだ。僕がその壁にさらに注意を向けたのは、それからさらに二日後のことだった。

 その日は仕事が休みで、僕はお昼近くなってから、駅前のショピングセンターに買物に出かけた。いつものように例のT字路の前を通り過ぎ、交通整理のおじさんに挨拶し、クリーム色の壁に沿って歩道を歩いていた。そして、ふと、何気なく、クリーム色の壁に掛かっている、工事の概要などを知らせる看板に目を留めたのだ。僕は、驚いて立ち止まった。そして、近寄って、さらにもう一度その看板を見つめた。僕の見間違いではなかった。そこには、確かに彼らの名前が書いてあった。工事の事業主の欄に、彼らの名前が書いてあった。この建設事業は、彼らがやっているのだ。これは、彼らの仕事なのだ。 

 僕は一瞬何が何だかわからなった。しかし、冷静になって考えれば、何もおかしな事は無いと思い直した。実際、僕は彼らについて何も詳しい事は知らないのだ。彼らが不動産事業にまで手を出しているというのは、確かに少なからず意外な事ではあったが、しかし、彼らには彼らの目的があり、そこに向かう上での方法がある訳だ。そこに不動産事業が含まれていたとしても、何も不思議な事は無いではないか?

 とは言うものの、今まで僕に対して自分たちからはそれらしい応答を何もしてこなかった彼らが、このような間接的な仕方でとはいえ、突然に身近に現われたのは、僕としてはやはり何と無く面白くない事ではあった。直接の取引相手であるはずの僕の事は全く相手にもせずに、僕のアパートのすぐ近所で、こんなにもあからさまに巨大な事業を手掛けているのだ。しかし、僕は自分の感じている腹立たしさを、不当なものと判断し、自分の気持ちを落ち着かせた。おそらくは、むしろこんなにまで彼らの事業、仕事、活動が、広範で巨大であるが故に、僕のようなたった一人の人間に対しては、十分な対応ができないのだろうと。ただ単に僕の方が、彼らについてあまりにも知らな過ぎたのだ。僕が相手にしているのは、このような相手なのだ。

 僕は、こうした事を思いながら、漠然とした不安に捉われた。ひょっとして、自分の取引相手は、あまりにも巨大過ぎるのではないだろうか?彼らはとても自分の手に負えるような相手ではないのではないだろうか?そうした考えが、僕の頭を過ぎっていた。

 改めて、自分が預かっている例のものの重大さを感じながら、僕は、この彼らの進めている事業に、もう少し接近してみようと考えた。そこには単純な好奇心もあったが、何よりも不安が、漠とした不安があった。

 僕は道を少し引き返し、警備員のおじさんに話しかけた。

「すいません。ご苦労様です。ちょっとお伺いしたいんですけれども・・・」

「はい?」

「この坂は、このまま上っていきますと、どこに通じるんですかね?えっと、その、例えば、児童館の辺りとか?」

「ああ。うーん、児童館か。いや、どうだろうねー」

 こんな風に何かを尋ねられる事など無いためだろう、おじさんは急にあたふたしてしまった。明らかにこの辺りの地理にも詳しくないようだった。

「僕、住んでるのこの近くなんですけど、こっちから回れたら近道かな、と思いまして」

「ああ、そっかそっか。いや、この上はねぇ、悪いけどそっちには回れないかな。まあ、工事が全部終わればね、開通するんだけど」

 話しながらも僕は、こんな交通整理のおじさんと話してもどうせ何もわかりはしないな、と内心自分で自分の考えの幼稚さを笑っていた。このおじさんも彼らの仲間などではなく、警備会社から派遣された、ただの一警備員に過ぎないのだ。一日中この工事現場に突っ立ってはいても、彼らの事業や仕事や彼ら自身について、何かを知っている訳ではないのだ。

「工事はいつごろ完了するんですか?」

「いつ頃だっけかなあ。多分来年の春ぐらいまでには目処が立つと思うけどな」

 ふと、クリーム色の壁の背後に、僕ら通行人から隠すようにして(僕には確かにそう思われた)造られつつある、あの灰色の分厚い壁が僕の視界に入ってきた。その瞬間、突然にして、しかし極めて明瞭に、僕には彼らの意図が、思惑が、はっきりとわかったような気がした。僕はそれを、自分自身に対してすら、言葉で表現する事はできなかった。しかし、不安が、僕の内心の不安が、まさしく灰色の分厚い壁の持つ圧倒的な説得力と同じような説得力でもって、僕にそれを告げたのだった。

「ああ、春までに・・・。すいません。これは、この壁は、どういう・・・?」

「これかい?これは、壁だね」

「ええ。それはわかりますけれども・・・。何と言うか、すごく、厳重なんですね」

「そうだね。まあ、最近は、この辺りでも何かと物騒だからね」

 僕は、いかにもごもっとも、というように頷いた。

「この壁は、どこまで続いてるんですか?」

「どこまでって、どこまでも続いてるよ。いや、今はまだ造ってる途中だけどね。ずっと、この街を全部囲む予定らしいね」

「はぁ。全部ですか。全部、というと・・・?」

「全部って、全部さ。駅前からこの丘の周りぐるっと全部、この壁で囲うんだよ」

「でも、そうなると、壁の中に住んでる人は大変ですね。というか、その、一体何のために?何のための壁なんです?防犯のためですか?こんなにも大掛かりに?大体、住民の許可は・・・」

 しかし、おじさんは手を振り、申し訳無さそうに笑うと、俺に訊かれてもなあ、と話を打ち切った。

 僕は混乱していた。あまりにも混乱していたため、買い物をせずにそのままアパートに帰ってしまい、アパートに着いてからその事に気付き、改めて買い物に出掛けたほどだった。しかし、著しく混乱しながらも、はっきりとわかったことがあった。つまり、もう始まっているのだ。始まってしまったのだ。何が、なぜ、いつ、始まったのか、はっきりとした事は僕にも全くわかってはいなかったが、しかし、確かにもう始まっているのだ。壁が、造られつつあるのだ。そしておそらくは、そう、僕は、包囲されつつあるのだ。彼らによって。あの灰色の壁で。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ