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新谷の拳  作者: Kei.ThaWest
第1部 拳雄割拠編
9/140

第9話 漢たちの決着

「避殺っ!?」

鬼怒川羅刹が目を剥いた。

「見たら使いたくなるタイプなんでね!」

立脇は、にぃと笑った。


「これで!」

立脇が動いた。

タックルだった。

避殺の一段目、低い体勢で突っ込むアマレス風タックルだった。


鬼怒川羅刹が一気に、後方へ退いた。

立脇はそれを追い、更に深く突撃する。


「しぃ!」

鬼怒川羅刹は左の拳を打ち下ろした。

立脇の頭部へ向けて。

だが、当たらない!


立脇は頭をひねり鬼怒川羅刹の拳をかわした、と思った次の瞬間には、鬼怒川羅刹の懐に入っていた。

しかも、鬼怒川羅刹に背を向けて。


鬼怒川羅刹は下がろうとする。

ガシッ!

その左腕が、立脇に取られていた!

鬼怒川羅刹の左腕は立脇の左肩に乗っていた。

何が起ころうとしているか、鬼怒川羅刹には分かったはずだった。

だが時既に遅し。


「いやぁぁ!」

立脇が、咆えた。

鬼怒川羅刹の太い体が空中で、立脇の背中でぐるんと180度まわった。

あまりにも美しい一本背負いだった。


「いっ!」

鬼怒川羅刹は板間に強烈に叩き付けられた。


新谷は、立脇の明らかな変化に気が付いていた。

鬼怒川羅刹にぶちのめされ、倒れる前と倒れた後。

起き上がってからの立脇には、なくなったものがある。

迷いの感情だ。

それが、今の立脇からは感じられないのだ。


鬼怒川羅刹との戦いが始まった直後の試合運びは、終始鬼怒川羅刹有利で展開していた。

立脇は鬼怒川羅刹のなすがままだった。

それは多分、鬼怒川羅刹という男の狡猾な戦略のせいだったのだろう。

鬼怒川羅刹は避殺をキーワードに、言葉巧みに立脇を混乱へ追い込んだ。

鬼怒川羅刹のうまさは、そこにあるのだ。


立脇はおそらく、倒れている間に、それに気付いたのだ。

新谷が戦いを客観的に観察して気付いたように。

相手の口車に乗る必要はない。

自分のやり方でやればいいのだ、と。


動きが断然よくなった。

縛りから放たれたからだ。

状況は、変化した、立脇有利へと。


鬼怒川羅刹は転じて立脇から離れ、立ち上がる。

立脇の背負い投げを喰らいながら、その表情には余裕が見える。


「おいらが投げられちまうとはな。ちぃっと油断したぜぇ」

「油断だって?残念だな、俺ならあんたが油断してようがしてまいが投げれるよ」

「ほぅ…」


鬼怒川羅刹は遠巻きに、じりじりと立脇ににじり寄っていった。

迂濶に飛込めば返り撃ちにあう。

慎重に間合いを調節しているのだろう。


立脇もすぐには寄っていかない。

鬼怒川羅刹が一歩右に動けば立脇は一歩左に動く。

少しずつ、絶妙に間合いが狭まっていく。


「こういう勝負は長いことやってなかったなぁ…よぉ、おめぇはどうだよ?」

戦闘中だというのに、鬼怒川羅刹は間のびした声で尋ねた。

「俺は1年半ほど前に、こういう戦いをしたよ」

「羨ましいなぁ、で、勝ったのかい?」


新谷には、今の二人がどういう次元にいるのかが理解できる。

単純に格闘技術や肉体の頑強さでは互角だ。

だから、二人の男の戦いは、徐々に心理戦になりつつあるのだ。

ああして雑談のような会話を折り交ぜながら、相手が一瞬でも隙を見せるのを待っているのだ。


「負けたよ、俺は」

立脇は、がっくりと肩を落とす仕草をやった。

鬼怒川羅刹の体は前方にいきかけたが、止まった。

誘われていると考えたからだろう。


こういう戦いで先に仕掛けるのはかなりの危険を伴う。

特に手のうちを大方、出しきってしまった後では余計に下手な先攻はできない。

鬼怒川羅刹は拳鑽会秘奥義を既に出してしまっている。

もう次は必ずかわされてしまうはず。

立脇にしても、鬼怒川羅刹の前で甘い攻撃は避けたいはず。


まさに、膠着状態であった。


「ほぅ、おめぇより強いやつだったのか、その相手ってのは」

「さぁな、顔は見ちゃいないからな。ただ…」

「ただ?」

「俺が負けたやつに、勝った男がいる」

「興味深ぇな。その男とは?」

「鳥取県警の、同僚さ」


立脇剛、鳥取県警捜査一課3係の現職刑事。

そして類稀なる格闘センスを持つ男。


鬼怒川羅刹、拳鑽会師範。

そこに存在しているだけで、世界が彼を中心に回ってしまうほどの太く大きい男。


二人の死闘はもう15分は続いていた。

普通なら言葉の一つを発するのすら億劫なほど疲労しているはずだ。

だがどちらも、まだ表情に疲れは出ていない。

むしろ愉悦の表情をしている。

どう差し込むか、どう捌くか、どう欺くか、どう闘るか。


極限のテンションの渦中で二つの魂がぶつかりあっている。

まだ、どちらも動かない。

会話が、じっくりとどっしりと、流れている。


「同僚かよぉ。おめぇんとこのオマワリはみんなおめぇみたいな桁違いの集まりなんかぃ?」

鬼怒川羅刹は羨ましそうに、訊いた。

「残念ながら、俺とあいつだけだ、ここまで闘れるのは」


立脇の言う、あいつとは一体誰なのか。

新谷は知らない。

立脇とはそれほど頻繁に連絡を取っているわけではないし、職場の話もほとんどしない。

以前、同僚の誰かが強いなどと言っていた気もするが記憶が曖昧だ。

新谷は立脇の“あの男”に興味を覚えた。

立脇すら敵わない男、か。


「かははっ、楽しくなってきやがった!

 おめぇを倒した後に、そいつとも闘ってみたい」

新谷は、鬼怒川羅刹が、かははっと肩を揺らして笑いながら、わずかに間合いを詰めているのに気付いた。

半歩にも満たない、数センチあるかないかの距離、ほんのそれだけ、縮まった。

立脇は気付いただろうか。

鬼怒川羅刹は、攻めのための位置取りを進めている。


立脇は、「無理だな」と言った。

「おいらがおめぇに敗けるって言いたいのかい?」

「いいや…あいつは音信不通なんだよ。

 今頃どこでなにをしているのかわからん。

 突然、休職願いを出してトンズラしちまったのさ」

立脇は胸の前で構えていた右腕を若干、下げた。

左は顎の前で高めに残してある。


ずっ…と、素足が板間と擦れる音。

鬼怒川羅刹の、体勢が下がった。

上半身が前傾する。

タックル!?

新谷はそう予測した。

またしても避殺か、そんな愚かな選択肢を、鬼怒川羅刹ほどの男が選ぶだろうか。


きゅっ!

鬼怒川羅刹の左足が浮いた。

そのムチのようにしなる一撃が、真横から立脇の右足腿を打った。

ローか!


「つっ!」

立脇の下半身が%%1痺れでわずかに硬直した。

ずい、と鬼怒川羅刹は右足で飛翔した。

回し蹴りによる頭部への攻撃のようだった。

立脇は頭を後ろへ反らせようとした。


しかし、滞空中に、鬼怒川羅刹の足先の軌道が、変わった。

爪先が45度角で下を向いた。

斜めに急降下する鶻のように、鬼怒川羅刹の右足は、新谷の左足の上に落ちた。

とん、と。


空中へ持ち上げる力を無理矢理に修整して落としたため、立脇の足を踏み砕くことはできなかった。

だが、踏みつけることは、できた。

立脇は退がれない!

鬼怒川羅刹が、まるで唇が触れ合うほど至近距離に、いる!


「よぉ」

鬼怒川羅刹が、笑んだ。

太い蛇のような、力のある笑みであった。

そして、立脇の腹に、太く貫くような膝蹴りがめりこんだ!


「こおうっ!」

立脇が、体を折ってむせた。

鬼怒川羅刹の膝はみぞおちに狙いすましてヒットしていたのだ。

いくら立脇といえど、人体の急所にモロに喰らえば効く。

体を折ったまま、立脇は後退した。


鬼怒川羅刹はそっと、その首に背後から腕をからめた。

「こういうのはどうだい?」

ぎちゅううう!

鬼怒川羅刹は立脇の頭を挟み込んだ腕を一気に絞りあげた。

プロレスのヘッドロックである。

万力で押し潰されるような衝撃が、立脇を襲った!


「く…くぶ…」

声にならない悲鳴が細く漏れた。

立脇のいつもの太い声ではない。

細い哭き声だった。


鬼怒川羅刹は力を緩めない。

ぎち、ぎち、と立脇の頭蓋骨が圧迫されていく。

脳に酸素が供給されない。

みる間に立脇の顔色が真っ赤になっていく。


立脇は苦し紛れに、拳を打ち込んだ。

鬼怒川羅刹の全身、どこでも良かった。

当たる、当たる、無数に当たる。

だが…全く効かない。

踏み込みや溜めのない、こんな体勢からのパンチなど、鬼怒川羅刹に堪えるわけがないのだ。

徒労だった。


「ぐ…ぐっ…」

立脇は鬼怒川羅刹の腕を掴みなんとか引き剥がそうとする。

だが力が思うように入らない。

ぎち、ぎち、締め上げられる。

その苦痛が、堪らない。


「ほぅら!」

鬼怒川羅刹は一段ときつく絞ってきた。

立脇の頭が割れてしまうのではないかと思わせるほどの腕力だった。


新谷は声もなかった。

あのヘッドロックが極まった時点で、立脇に勝ちはない、そう直感していた。

抜けられない、鬼怒川羅刹のロックからは。


「…っ… …」

立脇の拳に込める力が見る見る弱まっていく。

ばしっと入っていた音が、今ではぽんと聞こえる。

頭を捕まえられた立脇がもがく様は、まるで駄駄をこねる子どもが親に押さえ付けられているようであった。

立脇は無様にも抵抗する。

鬼怒川羅刹に抗がう。

けれども状況はそのままだ。

外れない。

外せない。

ダメか…。


新谷が諦観したのと、鬼怒川羅刹に頭を圧迫されていた立脇の体がびくりと痙攣したのはほぼ同時だった。

立脇が…落ちた…。

鬼怒川羅刹はようやくロックを外した。


解放された立脇の体が、鬼怒川羅刹にしなだれかかるようにずるずると崩れた。

立脇のだらりとした手が鬼怒川羅刹の股関節のあたりを滑り落ちていく。

「くわっ!」

その時だった。

鬼怒川羅刹は戦慄に声を上げた。

そして一気に、飛び退いた。


立脇は両膝をがっくりと板間につけた。

しかし倒れはしなかった。

鬼怒川羅刹の額から、一際太い汗が滴り落ちる。

「なっ…」

太い慄然がそこにあった。


立脇が、細く呼吸していた。

こうべを垂らしたまま、両の膝がついたまま、浅い呼吸をしている。

薄目が開いている。

その視線の先に何を見ているのか、何が見えているのか。

立脇は、落ちてはいなかった。


新谷はしっかりと見ていた。

立脇が鬼怒川羅刹のヘッドロックを受けて倒れこみつつ、その睾丸をわしづかみにしようとしたところを。

鬼怒川羅刹の反応がわずかでも遅れていたら、一生不能になっていたことだろう。


「けっ…なんつぅ野郎だよ」

鬼怒川羅刹が吐き捨てるように言った。

立脇が、膝を立てた。

まだ、立ち上がれるというのか。


「わざと、落ちたフリをしやがったな!

 おめぇ、はなっからおいらのキンタマ潰すつもりだったんだろうよ」

「そうさ」

立脇が、応えた。

「そうさ」

もう一度、言った。

そして完全に立ち上がった。

その野獣の目はまだ生きている。

爛々と輝き、獲物を見据えていた。


決着は、まだついていないのだ!

なんて濃密!

なんて壮絶な戦いなのか!

いつまで続くとも知れない死闘は、いまや見るもの全てに畏怖の感情すら喚起させていた。

高い、これほどまでに高いレベルの戦いがあるのか。


「いい眺めだよなぁ…ここは」

鬼怒川羅刹は言う。

「ああ、いい眺めだ」

立脇が言う。


「ずっと、こういう場所に立っていたいよなぁ、おい?」

「だがもうすぐどちらかが倒れるぜ」

「おいらか、それともおめぇかい?」

「もう、どっちでもよくなってきたな」

「わかるよ、おいらもさ」

「終ってほしくないな、こんな楽しい時間がさ」

「おぅよ」

「さあ、行くぜ」


立脇は鬼怒川羅刹に向かっていく。

足取りが乱れている。

効いているのだ、さっきのヘッドロックが。

だが立脇は、実に愉快そうに笑っていた。

そして笑いながら、哭いた。


「けぇい!」

立脇が踏み込み様、ハイを繰り出した。

左のハイである。

鬼怒川羅刹はふん、と頭を反らして難無くかわした。

そして立脇の引き際の左足を左手で掴んだ。


「甘すぎだぜぇ!」

鬼怒川羅刹の右拳が真下から跳ね上がってきた。

狙いは、膝関節だ。

あれが当たれば、立脇の左足は、本来曲がるのと逆方向に折り曲げられることになろう。


疲労のあまり、立脇が判断を誤ったのか?

新谷には今の立脇の蹴りが単調過ぎるように映った。

あんな緩慢なハイなど素人にも避けられるだろう。

やはり、これまでに蓄積されてきたダメージが効いているのだ。


だが…新谷の読みは間違っていた。

立脇は、決して甘い攻撃など出していなかったのだ。

それは、次の一瞬に、あまりにも鮮やかに紐解かれた。


立脇の右足が、宙に舞った。

鬼怒川羅刹がしっかりと左足を掴んでいたために、逆に蹴りの軌道が正確になっていた。

立脇の右足がやや顎寄りに、鬼怒川羅刹の左頬を叩いた。

鬼怒川羅刹の首が、むちっと右方向に回った。


入った!

新谷が心の中で喝采をあげた。

あそこに入れば平衡感覚が失われる。

見事な逆転の一撃だった。

立脇は初めから、この一撃のためにゆるい蹴りを打ったのか。


鬼怒川羅刹は立脇の足から手を放して、よろめいた。

くらぁ、くらぁ、と太い体が揺らいでいる。


立脇はさっと立ち上がると、一気に近付いた。

ラッシュをかけるなら、まさに今だ。


「ふむっ!」

立脇のストレートが空を切り裂く勢いを伴って放たれた。

鬼怒川羅刹は顔面を両腕で防いだ。

その上から強引な破壊力がぶつけられる。


鬼怒川羅刹の上半身が大きく、後ろへ傾ぐ。

ぐらりと傾ぐ。

だん!

鬼怒川羅刹は、耐えた。

踏みとどまった。


「まだだぜぇ!」

振り絞るような、鬼怒川羅刹の声は熱を帯ていた。

目は、ギラギラとこわい光を湛えたままだ。

まだ、いくらでもやれそうな眼差しだった。


立脇が二発めを打ち出そうとした時、鬼怒川羅刹がずい、と前に出た。

まだ、前に出るだけの気合いを残しているのか。

立脇の懐まで入りこむ。


「むっ」

立脇はガードに移ろうとした。

だが間に合わなかった。

鬼怒川羅刹の裏拳が立脇の額にごちぃ、とぶちあたる。

額が裂け、細い血のしぶきが飛んだ。


立脇は構わず、鬼怒川羅刹の胸部6%A殴った。

鬼怒川羅刹も強引に蹴りを当ててきた。

そこからは、もはや乱打戦であった。

技ではない、戦略ではない、そこにあるのはどちらかが倒れどちらかが勝つまで続く精神力の削りあいだけだった。


己が持つ全ての技術を互いに出しきった後に残るのは、気力という領域である。

殴り殴られ蹴り蹴られ、痛みの上に痛みを積み重ね、血で血を洗い、

拳で、足で、相手にも無数の痛みを与えていく。


一歩も退かない攻防が新谷の目の前で展開している。

血を流し顔を腫らし、それでも止まらない死闘だった。

目突き、金的、なんでもありだった。

ルールは二人の中にしかない。

立脇と鬼怒川羅刹が暗黙のうちに、よしとしている。

隙あらば相手の目に指を突っ込んでほじくり出してやるつもりなのだ。


新谷にはさきほどからしきりに立脇がそういう手を狙いにいっているように見えていた。

鬼怒川羅刹は手数の多さで圧倒したい腹積もりだ。

立脇のほうが、やはり体力の消耗は激しいようだ。

自身のスタミナの大部分を犠牲に鬼怒川羅刹のヘッドロックを受けたのが効いている。


鬼怒川羅刹の拳がまた一発、立脇の鼻頭に当たる。

顔をひくのがあとわずかでも遅かったら、

鼻骨が砕き折れて奥の肉まで突き刺さり口腔内までズタズタに破られるところであった。

幸いにも立脇が直撃を避けたためごきっと鼻先を折っただけで済んだ。

痛いことには痛いが、致命傷ではない。


逆に立脇は鬼怒川羅刹の腹にアッパーをねじこんだ。

血が、また吹き出た。

立脇の鼻からと、鬼怒川羅刹の口から、ごぼっと赤々した液体が沸きだしていた。


くぅ、と顔をしかめたのもほんの一秒に満たない時間だけだ。

また拳が、蹴りが、交わる。

それは濃厚な交わりだった。

二つの餓狼の顔に宿ったにたりとした獣の気が、なによりなまめかしく新谷の本能を刺激した。


新谷は、高ぶりをぐっと腹にこらえた。

下腹部に血が滞流していくのがわかる。

熱い、体のそこかしこが震えながら沸騰しているのだ。


おそらく、立脇も鬼怒川羅刹も同じく感じているだろう。

いや、むしろ実際にやりあっている彼らのほうが新谷よりはっきりとそれを感じているのかもしれない。

えもいわれぬ快楽だ、獣がおもうざま放つ剥き出しの獣性だ。


新谷は、勃起していた。

射精感にも近い、肉の高鳴りが制御できず、気を抜いた瞬間にも達してしまいそうだった。

立脇と鬼怒川羅刹の打ち合いの音が原初的快感情となって、その場に吹き荒れていた。

暴風域、そう呼んでもさしつかえない。

男と男、肉と肉の摩擦で生じる、熱波の重層なのであった。



立脇は、歓喜していた。

うねるような悦びが身体中に感じられた。

たとえば鼻、とろりと流れる血。

たとえばあばら、もう4本は折れているのではないか。

たとえば足、ローを喰らいすぎたために皮膚が裂けていた。


痛々しい姿だ。

顔もどれだけ原型を留めているか。

視界がせばまったのは、恐らく殴られた瞼の上が腫れあがっているからだ。


だが、気持ちがよかった。

こんなに痛いおもいをしながら、同時に気持いいのだから俺はどMなのか。

いや、SだMだなどという低い次元の感情ではない。

これは…生の快感なのだ。

命のやりとりの中にしか存在しない、生きているという快感である。

その絶頂はもしかしたら、この手で相手の命を奪った瞬間にこそあるのかもしれなかった。


俺は、殺す気はない。

だが戦いの中で結果的にそうなってしまったら、それはそれで肯定する。

刑事であるから、そもそもいつも死と隣り合わせの日常があるのだ。


ではこの男はどうか。

鬼怒川羅刹は、そういう勝負をするのか。

恐らく、するだろう。

俺が油断したら、首をへし折ってのけるような相手だ。


楽しいな。

命という燃料を燃やしてやる戦いは楽しいな。

俺はなんのためにここにやってきたのだったか。

誰とここにやってきたのだったか。

忘れちまった。


もう、ここには俺と鬼怒川羅刹しかいない。

他はいない。

二つの炎だけがともっている。

喰うてやる、そういう気を発しながら。


俺はわかる。鬼怒川羅刹がどれほどこの俺を求めているか。

その目だ、その目は惚れてる目だ。

欲情してる目だ。

俺と鬼怒川羅刹は、痴情に狂う男と女よりも激しく求めあっている。

痴語を囁きあう代わりに、拳を打ち込んでいるのだ。

一発二発ではいけない。

一千発、一万発ならばいけるか。


そうして、俺は殴った。

愛しい女を撫でるより優しく、渾身の拳で殴った。

すると鬼怒川羅刹が応えてくれる。

嬉しそうに、倍の愛情を込めて殴ってくる。


俺は勝ちたい。

勝ちたいが、この戦いを終らせたくなかった。

ずっと続いてくれればよかった。

だが体が重くって堪らない。

ちょっとそこまで散歩にでかけるのも億劫なほど、疲れていた。


鬼怒川羅刹が止まった。

「よぉ…」

唇の端から赤いものを垂らしながら、俺に話しかけてきた。

古い友人に声をかけられたようだった。


「あぁ…」

「もう20分は戦ってるぜ」

「ほんとか?そりゃ長いな」

なんだか、俺と鬼怒川羅刹が本当に会話しているのかわからなくなってきた。

夢みたいに、思えた。


「おいらは疲れてきたぜ、ヘトヘトさ」

「奇遇だな、俺もなんだよ」

「勝ちてぇし、かといっておめぇには倒れて欲しくねぇけどよ、そろそろ決めなきゃな」

「そうだな、俺もちょうど考えていたところだ」


鬼怒川羅刹がずい、と太い拳を突きだした。

「この拳で真正面からおめぇの顔面をぶち抜く、それで終わりさ」

「いいな、俺ものっかるぜ」

俺と鬼怒川羅刹の握り拳が軽く触れ合った。

それだけで鬼怒川羅刹の全てを理解した。

フェイントなどではなかった。

腰をぐっと落とし、拳をひき、溜めを作る。


鬼怒川羅刹が、実に楽しそうな鬼の顔になっていた。

俺は、応える。

真正面、一発だ。

残ったもの全てを拳に放り込んで打つ、最後の一撃だ。

鬼怒川羅刹も俺も、右だ。


「じゃっ!」

鬼怒川羅刹が打った。

「ぬん!」

俺も打った。


始め、ふんわりとした太く温かい気を頬に感じた。

それは俺の頬に当たった鬼怒川羅刹の拳の温かさであった。

俺の拳も、鬼怒川羅刹に同じように当たっていた。


音が消失した。

あ…


顔が天井を向いた。

あ…そうか


真っ暗になった。


その一瞬前に、拳を突きだしたままで、その場に立っている鬼怒川羅刹の顔が見えた。


俺…倒れるのか…


俺は…敗け……



立脇が、崩れ落ちた。

「立脇ぃぃぃぃ!」

新谷が叫んだ。

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