第7話 鬼怒川羅刹
「おいらに勝てたらさ」
鬼怒川羅刹は、ずい、と前に踏み出した。
道場内に鬼怒川羅刹の放つ気が充満していた。
立脇よりも強い、芯まで太い存在感がそこに立ち上がっていた。
新谷には、この男が一つの大きな岩のように見えていた。
全身を覆う岩のような筋肉、それは必要なときに固く、必要なときにしなやかに、動くのだろう。
鬼怒川羅刹がずい、と存在しているだけで、まるで巨大な連峰を真下から見上げているようだ。
高く、太く、強い。
「あんたを倒したら、か」
立脇は、その言葉を言い終わると同時に、踏み込んだ。
鬼怒川羅刹はそれを待ち構えるように、右の拳を後ろに引き左手を前に突きだしている。
「かっ!」
呼気が発された。
立脇の中段前蹴りが愚直なほど迷いなく鬼怒川羅刹の腹に叩き込まれた!
深い!
新谷は、あれを喰らって立っていられる人間はいまいと思った。
内蔵ごと、人体を破壊できるだけの威力を持った、鬼のごとき一撃だ。
だが、新谷の考えは全くに信じがたい方向に打ち砕かれることになった。
「ぬるぁ!」
鬼怒川羅刹は、立脇の前蹴りが当たる瞬間に自分から前に踏み出し、攻撃をまともに受けながら、
溜めていた右拳を立脇の胸部に打ち込んだのだ。
両者ともに渾身の一撃であったはずだ。
打ち合いの結果は更に、新谷の網膜を揺らし、ひいては脳をも激しく揺さぶった。
立脇が、二歩、後退した。
右掌で胸を押さえながら、むせている。
その口元から咳に混じって飛んでいるのは、血だ。
立脇が吐血している!
鬼怒川羅刹は、驚くべき事に、立脇の前蹴りをくらいながらも、けろりとして微動だにしていないではないか!
「おいおい、おめぇ、がっかりさせねぇでくれよ」
鬼怒川羅刹が大袈裟に溜め息をつく仕草をした。
「この鬼怒川羅刹に対して、手加減しやがったな」
!?
新谷は自分の耳を疑った。
手加減、だって?
「へっ、バレてたか。あんたには」
立脇が、呼吸を整え、すっと背筋を伸ばした。
今のダメージなど、なんとでもないように。
「拳鑽会師範を舐めてもらっちゃ困るぜ」
「ああわかった。あんたに対して、俺の本気を見せてやる。
だからあんたも、さっきみたいに手を抜かないでくれよ」
鬼怒川羅刹も、立脇と同じく本気ではなかったというのか!
少なくとも最初の打ち合いを見ていて、どちらともに加減している気配は無かったが。
新谷は、ぶるりと震えに襲われた。
この勝負、マジでヤバイい。
「行くよ」
「いいぜぇ」
「けやぁ!」
「むわっ!」
立脇と鬼怒川羅刹、同時だった。
同時に詰め、同時に打った。
両者とも、右拳、ややフック気味の相手の横っ面を狙った攻撃だった。
そして当たった、鬼怒川羅刹の拳だけが。
立脇が揺らいだ。
はかりしれない衝撃が立脇の脳に届いたのだ。
ふらふらと、後退する立脇、そこへ鬼怒川羅刹の高い回し蹴りが飛んできた。
ぶぉん!
「ぬ!?」
鬼怒川羅刹の蹴りは、立脇には当たらない。
立脇は体勢を沈め、右足で、斜め下に、鬼怒川羅刹の軸足である左足の膝関節を蹴った。
みしっ、という音だった。
鬼怒川羅刹が転倒した。
その顔目がけて、立脇の振り上げた足が落ちてくる。
それはさながら、ギロチンであった。
頭部を遠慮なく砕こうとする技だった。
踵落とし、それもテコンドーのネリチャギである。
鬼怒川羅刹は左方に転がって避ける。
立脇はそれを追わなかった。
「おぅ、怖えなぁ、迷いなくそんな殺し技を出してくるんだからよ。
思わずブルッちまうよなぁ」
鬼怒川羅刹は構えを取りつつ右へじりじりと動いた。
立脇は反対に左へ。
二人の間に見えない円柱があるかのように、一定の距離を保ちつつ、二つの巨大な男が睨みあう。
新谷からすれば立脇のほうが受けたダメージは大きいように思える。
だが鬼怒川羅刹とて、さきの蹴りで左足を故障したかもしれない。
状況は…まだ五分か!?
立脇剛と鬼怒川羅刹以外の誰もが、もしくは本人たちですら、
そこで展開されている戦いのレベルに驚愕していた。
「そうだ、ちょうどいい機会だからおめぇに教えといてやる」
鬼怒川羅刹が言う。
その声が太い。
太い声を吐き出す唇までもが太い。
「斜瞠が使用った拳鑽会秘奥義の名前さ。
あれは、“避殺”と呼ばれている。
なぜだかわかるかい?避けようとすれば、当たるからだよぅ」
鬼怒川羅刹が、太く笑んだ。
解説は続く。
「タックルからはマウントポジションへ、待ち受けられたら顎突きへ、
顎突きをかわした相手には睾丸潰しへ…避殺は、どの段階においても、
相手が“避けようとすること”を前提につくられた必殺技ってぇことよ。
ふつう、斜瞠ほどの使い手に対して真っ向から打ち合いをしようとする胆力を持った人間はそうはいねぇ。
初弾のタックルを見たら体が無意識に受けに動いちまう。
それが、避殺の狙いなのさ」
「そいつを俺に明かしてどうするつもりだい?」
立脇は、饒舌な鬼怒川羅刹とは正反対に、静かである。
気を緩めず、いつ、どんな攻撃が来ても対応できるようにしている。
「さぁて、どうするかねぇ…たとえばここで、おいらが避殺を出してみるとか」
鬼怒川羅刹は、斜瞠がやったのと同じ、タックルの構えを取ってみせた。
避殺、拳鑽会秘奥義が、師範の手によって披露されようとしているのか。
しかし新谷には疑問があった。
なぜ、鬼怒川羅刹は秘奥義を出す前に、あんなにも詳しい解説を交えたのか。
あれではまるで、対処してくれと言わんばかりだ。
鬼怒川羅刹には、絶対に当てる自信があるということか。
だが斜瞠の避殺は、立脇に破られているではないか。
一体どういうつもりなのか鬼怒川羅刹。
「これが、拳鑽会秘奥義…避殺よぅ!」
鬼怒川羅刹が、ずい、と前にでた。
それは圧力であった。
そして引力でもあった。
鬼怒川羅刹を中心軸とする暴風が、立脇めがけて襲いかかったのだ。
鬼怒川羅刹が、立脇の懐に迫る。
その時、立脇が見せた戸惑いの表情によって、新谷は全てを悟った。
そうか…。
新谷は鬼怒川羅刹が語ったことの意味を理解した。
あれは、脅しだったのか。
しかも、ただの脅しではない。
鬼怒川羅刹は、避殺を出すと宣言してから突っ込んできた。
立脇は当然、鬼怒川羅刹がさきに言った通りの方法で、また自身が斜瞠にしたのと同じ方法で対処しようとするだろう。
しかし本当に鬼怒川羅刹は避殺を出すのか、もしかしたら、
避殺を出すと言ったのは大嘘で、ぜんぜん違う技が飛んでくるのではないか。
立脇の表情には、そういう戸惑いが現れていたのだ。
鬼怒川羅刹は、どう攻めてくるのか、わからない。
避殺か、それ以外か。
鬼怒川羅刹はまさにその二択を仕掛けていたのだ。
立脇を混乱させるために、わざわざ秘奥義の解説などしたわけだ。
鬼怒川羅刹は、立脇に組みつこうとしている。
立脇は迷いを断ち切るように、前へと踏み出した!