◆異教徒
ゼストラル視点に戻ります
【神の寵愛】
それはダーシャル教徒においては、最も神聖な期間であり、儀式の期間であるとされているらしい。
その期間、熱心な信徒は、己が崇拝している神が祀られているいる神殿に籠り、昼夜関係なく祈りと禊を繰り返す事は、俺は知識としては知っていた。
だが、実際にそれを間近で見た事はなかった。
俺は元々、皇女が輿入れになる際の帝国側からの要求の中で、それらに関る建築物や、禊専用の泉の建設を反対していた。
帝国からダラスに嫁ぐと決めたのならば、身も心もダラスの民になればいいのだと論じた俺に、宰相位にあるあの男は、普段な温厚さからとはかけ離れた鋭い視線と口調で、俺の浅はかなその考えを即座に撤回する様に求めた。
あの時のあの男の言葉は、今でもはっきりと思い出す事が出来る。
「恐れながらゼストラル将軍閣下、此度閣下のご婚約者としてこちらに参られる姫君は、あくまで婚約者様と言う立場でございます。それをお忘れなきようお願い申し上げます。」
言外に正式な伴侶ではないのだと言い含められた俺は、ならば仕方がないと、王家から俺個人的に充てられる経費から、皇女専用の泉と神殿の建設費用を捻出し、普段は碌に関る事のない宗教建設技師を、俺の住む宮の一角に招き、急ぎ建築するように命じた。
その甲斐があり、急だったことにも関らず、皇女専用の神殿と禊専用の泉は、指向を凝らした立派なモノが造り上げられた。
その神殿の前に立った時の皇女の反応は、やはり無に近かった。
そればかりか感謝の「か」の文字もなかった。
俺は皇女が入信している宗教の在り方を知らなかった。――否、知ったかぶりをしていただけで、知ろうとする努力さえしなかった。
【神の寵愛】
それは嘗て俺達が住む不毛な土地・ダレアンにおいて、最も身近にあった教えだった。にも拘らず、それらは今の国が成り立った事で急速に衰退し、今では王族が神より偉いのだと信じられている。
その期間、真摯な信徒は、神に対し捧げる言葉である【聖句】と呼ばれる祈りの言語以外、一言も言葉にしてはならず、口に入れる事が赦されるのは、水のみと言うあり得ない考えだった。
だが、実際に監視と言う名目でその場に立ち会えば、そのあり得ない考え方も納得をせざるを得なかった。
今、聖句を唱えている皇女の側に、彼女の母親である女官の姿は見えない。
実はその女官は、今は主である皇女の命により、ダラスにほど近い帝国の領土にある、療養地と知られているホスター地方へ夫である侯爵に逢いに行っている。
――イルエラには常々申し訳ないと思うておるのじゃ。妾の我儘で、そなたは家族と離れて暮らさねばならなくなった。
なに、丁度明日から妾は祈りと禊の期間に入る故、世話は不要じゃ。逢いに行ってやれば良い。素直にならねばそなた、あの后妃様に夫君を奪われてしまうぞ?
ホスター地方までは、どんな通行手段を選んだとしても、往復で一月は掛る位置にあり、皇女はその期間は祈りと禊の繰り返しの日々を送る。
皇女はいわばその期間に、女官に強制的に休暇を与えた事になるのだ。
――パシャリ
時折皇女によって生み出される泉の波紋や、水音は、神を日頃意識しない俺にでさえ、神聖な心地にさせる。
皇女は今、禊の為に小さな身体を泉の水に浸かり、皇女の白銀の髪はその小さな身体にピッタリと張り付いている。
その光景は、何故か激しく俺の網膜に焼き付き、落ち着かない心地にさせた。
その時に感じ、生じた想いが【焦燥】と【情欲】であると気付いたのは、この日から少し経った日の事だった。