異界幽閉奇譚
読み切りホラーです。初めて小説を執筆しました。
くくりさまとは、眼を合わせてはいけない。
異界に送られれば、もう戻れないかもしれないから。
くくりさまとは、手をつないではいけない。
一度つながりを持つと、存在を断ち切ることができなくなるから。
くくりさまには、黒い輪で首を吊られてはいけない。
首と魂を土産にもっていかれてしまうから。
くくりさまには、赤い輪で首を吊られなければいけない。
そうすれば、永遠の命と共に還ることができるから。
***
2017年7月XX日13時20分。
気温が高くなりつつある日本では、フリルのついたふわふわのブラウスを纏う彼女──レインは少々疲弊していた。
「はあ……着替えてくるべきだったなあ」
つい先日、日本へと着陸したばかりの彼女。慣れない土地と高い湿度により、疲れは溜まってゆく一方だった。
更には、事前に調べていたスイーツ店へやっとの思いで辿り着いたというのに、隙間が見えないほどに閉じられたシャッターには”臨時休業”と大きく書かれた紙が貼られていた。その一枚の紙は、彼女の心に刺さるとどめの矢となった。
その店のマカロンはまろやかで美味しく、見た目も映えると評判で、彼女も時折鼻歌を奏でるほどには期待していた。普段表情を大きく変えない彼女でも、その紙を前にした時には小さく口を開いたまま固まってしまったものだ。
だからといって、休暇を無駄にする気はない。せっかく外に出たのに何もせず帰るのも…と、重い足取りで休憩できる店を探している。が、良さげな店舗は一向に見つからない。
トーキョーであれば、クーラーの効いたカフェなどいくらでも見つかるであろうが、あいにくここは地方都市の郊外であった。人が多すぎる場所では酔ってしまいそうだからゆっくり観光できる場所を、と選んだのは間違いだったかもしれない。
そう考えながら、もう諦めてホテルへ戻ろうかと考えていた頃。
角を曲がると、そこに小さな喫茶店が現れた。和を基調に落ち着いた、控えめな外見のその建物は、所々古くはあれどいい味を出している。扉には「営業中」の黒看板が。
思考を半分白で塗られた彼女は、吸い込まれるようにその喫茶店へと向かっていった。
「いらっしゃいませ」
がらがら、と音を立てざらついた引戸を引くと、すぐさま珈琲の香りが鼻腔をくすぐった。カウンターでは、小さく音楽を流すカセットの横で老店主がカップを磨いている。店内には四角いテーブルと2つの椅子のセットがいくつか並ぶ。店主以外には、険しい顔をした老人がひとり奥の席に座っていた。雰囲気からして、常連だろうか。
彼女は入口とカウンターに近い席へ腰を下ろし、ふう、とため息をひとつ。少し肌寒いほど冷房が効いていたが、今はそれがちょうど良かった。
「外国の方かな?珍しいね」
店主がどうぞ、とテーブルにお冷を置いた。彼女がありがとうございます、と礼を伝えると、店主はカウンターへと戻り再びカップを磨き始めた。
早速それを乾いた喉に通すと、たちまち全身の疲れが飛ぶような感覚に至った。ただの冷えた水であれど、乾いた器官には魔法のように染みる。
立てかけられたメニューを手に取り、指でなぞりながら好みの珈琲を探す。その店舗オリジナルのブレンド珈琲などもあったが、いつも母が淹れてくれる珈琲と同じ名前を見つけ、それを注文する事にした。
「すみません、この…」
カウンターへ聞こえるよういつもより若干声量を上げ、注文を伝えた。店主は「はい、はい、カプチーノね。」と確認を取り、磨いていたカップを置いてカウンターの奥へ。
少しして、ごりごりと豆を挽く音が聞こえてきた。彼女は聞き慣れた音に安心しながら、携帯をバッグから取り出す。時刻を確認すると、13時45分。思ったよりも時間は経っていなかったようだ。
その時ちょうど、通知音と共に一通のメールが送られてきた。
───彼からだ。
内容を要約すると、無事を確認するものと、早く帰って来てほしいという遠回しな要望であった。文章は業務メールのように淡々と続いているが、彼が子供のように寂しがる様子を想像し、少し顔が綻ぶ。
最初に「日本へ行ってみたい」と彼女が呟くと、彼も着いて来ようとした。けれどそれは遠慮した。
日本語の勉強を手伝ってくれたのは彼なわけだが、何せ日本旅行の目的は彼へのプレゼントを探すため。彼は昔日本へ留学していた影響で和菓子が好きだそうで、それなら現地で探したかったのだ。それに何より、つい先日までただの親友であった彼と、いきなり泊まりがけの旅行は恥ずかしかった。それを正直に伝えるのも気恥しくなんとか誤魔化したものの、「どうしても一人で行きたいと言うならいいよ」と少し拗ねさせてしまった。
最後に空港にて「土産待ってるから」と見送られた時にされた、少し不満そうな顔を思い出して心が痛む。
”ごめんなさい。次は一緒に行こうね”と返信を打っている間──店主が珈琲を机に置いた。
慌てて携帯を置き礼を伝えると、店主はゆっくり頷きカウンターの方へ戻って行った。
「いただきます。……いい香り」
湯気の立つカップを手に取り珈琲を味わうと、たちまち苦く香ばしい味が舌全体へと広がった。やはり同じ名前とはいえ、国が違うのだから香り、匂い、酸味やコクも別物であると実感する。それから時折メールの続きを打ちながら、珈琲を楽しんだ。
そうしていると、がらがらと入口から戸を引く音がした。それと同時に静かだった空間に子供の泣き声が響き渡り、ついギョッとしてしまう。
「うええん!じいちゃん、ひろくんが!」
慌てた店主が子供の方へ駆け寄ると、子供は店主へ勢いよく抱き着いた。
「おやまあ、大丈夫かね」
「おれは大丈夫だけど、ひろくんが!うう、いなくなっちゃってっ……」
宥める店主と、それでも泣き止まない子供。奥の席に座る老人も、気まずそうに珈琲を飲んでいる。
突然の事により、安心していた気は吹き飛んでしまった。なんだか只事ではなさそうだと、一旦珈琲を置く。
子供はまぶたを赤く腫らし、脚に小さく震えを残している。よほど悲惨な事が起きたのだろうか…
「あ…えっと…大丈夫?」
「…?」
彼女はつい、立ち上がって声をかけてしまった。内気でありながら優しく他人を放っておけない彼女だから、こうなることは必然。
「おねえちゃん、だれ?」
「わたしは、レイン。その…よければお話、聞かせてくれない?」
膝を曲げて、子供に目線を合わせる。
呆然としていた子供は、はっと思い出したように再び顔を青くした。それから、身振り手振りで必死に説明を始めた。
内容はこうだ。
森の近くで一緒に虫を探していたら、珍しい昆虫が飛んで行くのを見つけた。そしてそれをひろくんが走って追いかけて行った後、ひろくんが叫ぶ声が聞こえて、気が付けばひろくんは消えていたという。
なんとも不気味な内容に背筋が冷えた。確か日本では、こういった子供が消えてしまう事件を神隠しと言っただろうか。本当に神隠しだったら…と考えた彼女はぶるると身を震わせる。
けれど、子供の想像力は豊かだ。友達とはぐれたことでパニックになり、おかしな聞き間違いをしてしまったに違いない。彼女はそう、自分に言い聞かせた。
***
「うう、でもどうして、私が一緒に探す事に…」
「じいちゃんたちは腰が悪いから、長い階段を登れないんだよ」
「長い階段があるんだね。なにか建物に続いているの?」
「そうだよ。森の奥にボロボロの神社があって、そこによくカブトとかがいるんだ」
「………ボロボロの、神社…」
正直、そんないかにもという場所には行きたくないと彼女は震えるが、声をかけてしまった以上手伝わないという選択肢は無くこうして一緒に友達を探す事に。
彼女がついて行くといえば、その子供は先程まで大きく声を上げて泣いていたのが嘘のように普通に歩き出した。
もう家に帰っているんじゃないか、と店主が友達の家へ電話したが、まだ帰っていないという。
そもそもまだ昼なのだから、そんなに焦る必要はない。夜までに帰ってこなければ、きっとそのうちひろくんの家族も探しに来るはずだ…そう伝えても、子供はひろくんが消えたから探しに行く、と言って聞かない。
あのまま放置して子供1人で森へ探しに行かせるのも気が引けた。だから仕方なく、その友達が見つかるまでは大人として彼女が同行するだけ。
(大丈夫、きっとすぐに見つかる…)
しばらく二人で並んで歩いていると、その子供の言う長い階段の前へと到着した。
「おれは階段の下の方探すから、おねえちゃんは上の方ね。」
「わ、わたしが神社の方に行くの…?」
一番怖そうな場所にはなるべく近付きたくないと彼女は思うが、抗議する間もなく、子供は素早く走り去って行った。唖然とする彼女。
仕方なく覚悟を決め、曲がっていた腰をぴんと伸ばして姿勢を正した。
階段の一段目へと足を乗せる。
(…サスペンスとかオバケとか、苦手なのに。)
汗が首を伝う。先程よりは気温が下がっている事から、それは冷や汗であろう。
なんだか運が悪い日、と彼女は肩を落とす。今日履いているのがハイヒールではなくブーツであったことだけが幸いであった。
階段を上るにつれて、落ち葉や虫の声が増してゆく。時折、階段を挟んだ左右の森へひろくん、と呼びかけてみるが、帰ってくるのは鴉の鳴き声のみ。
ぐしゃ、ぐしゃ、と落ち葉を踏む音。踏み外して後ろへ転ばないよう、足元を見ながら上る。近くを羽虫がぶんぶんと飛び回るものだから、鬱陶しくて仕方がない。
一度珈琲で癒した心身は、あっという間に再び疲弊してゆく。
それでも、子供が泣いているのを見過ごす方が、彼女にとっては耐え難いことであった。
***
ぐしゃ、ぐしゃ、ぐしゃ、ぐしゃ。
それからしばらく、なるべく何も考えないようにしながら階段を上り続けた。上へと進む度に、落ちている葉の数が増してゆく。誰かが通った跡がない事から、この上はしばらく誰も出入りしていないのだろう。
時折葉に混じって落ちている木の枝やミミズの死骸を踏まないよう、慎重に。
──やがて、彼女の頭の中では、恐怖よりも疲労が大きくなっていった。階段を上るというのは単純なことであれど時間に比例して体力を消耗する。左右の足を順番に前へ出す、それだけの行為だが、疲れることに変わりはない。
そろそろ途中の階段で座り込んで休憩してしまおうかと彼女は考えたが、先週タグを切ったばかりの水色のスカートが茶色に汚れる様を想像し、断念した。
もういっそ残る力を振り絞って早く終わらせよう、とペースを上げて、また足を右、左、右、左────
「……?」
なんだか、階段が長すぎるような気がした。下から見たときは終わりが少し見えていたから、もうそろそろ登り終わるはず。
そう違和感を感じた彼女が顔を上げると、生暖かい風が前からふっと吹き全身を包んだ。なんとも言えない不快感に両肩を上げて耐える。
風に乱された前髪の隙間から見渡した空は、薄暗かった。まだ、14時くらいのはずなのに。
時刻を確認するために携帯を取り出そうとしたその時、彼女の顔の前を、ぶん、と重い音を立てて大きな虫が横切った。
「きゃっ」
後ろへ転びそうになり、慌てて姿勢を持ち直す。その間もその虫は彼女の周りを円を描くように飛び回り、彼女の心を荒らしていく。顔を腕で覆い守るが、虫が去る気配は一向にない。
そろそろ限界を感じ、鞄で追い払おうとその虫へ視線を向けた。
「もう、さっきからな───」
人の顔が付いた虫だった。
青白い能面のような人間の顔に、虫の胸部、腹部、足、羽が生えている。それが、飛び回っていた。それと、目が合ってしまった。
彼女は絶句し、足をつまずく。後ろへ転がる事は避けたものの、横へがくんと倒れた。腰と膝を打ったが、痛みを感じる暇もない。
心臓がバクバクと脈を打つ。
「い、嫌、いや、うそ」
顔面蒼白になり、尻餅をついたまま後退る。落とした鞄は無様にも、跳ねながら下の方へ転がっていった。
ぶん、ぶんと宙をそれが飛んでいる。踊るように、円を描いて舞っている。
彼女はその能面のような顔が、ずっとこちらを捉えていることに気が付いてしまった。彼女が虫の顔を認識する前から、その目で彼女を映していたのだと。
「ひっ────!!」
頬を涙が伝い、歯が震えでぶつかりながらカチカチと音を立てる。彼女の意思とは関係なく、視界が勝手にぼやけて埋まる。脳が警報を鳴らし、逃げなくてはいけないと全身が叫んでいる。
彼女は下へ降りようと必死に這った。元の場所に還りたくて、下へ下へと四足で降りていった。
下へ降りる途中、不意に右手を踏み外し、右半身からずるっと転落する。
頭を守ろうと両手で必死に押さえたまま、「ぎゃ」と声にならない悲鳴を出して、全身を打撲しながら転がり落ちて行った。
落ち続けていた体が、やがて階段まで横から伸びた太い木の枝によって止められた。
痛みで動けなくなった彼女は、震えながら必死に息を整えようとする。
気が付けば他の羽虫の音も、鴉の鳴き声も、風が吹き木が揺れる音もすべて消えていた。静寂に包まれながら、彼女の五感全てが研ぎ澄まされる。
その静寂の中、またあの羽音が聞こえてきた。大きく重い羽音が、まるでカウントダウンのように、ぶん、ぶん、ぶん、と上から近づいてくる。
血が滲み震える手脚を無理やり立たせ、下へ駆け下りて行く。
「はあっ!はあっ…!!」
自分の激しい息の音と背後から迫る重い羽音を聞きながら、彼女は無我夢中で下り続けた。時折足首があらぬ方向へ曲がり激しい痛みを感じたが、止まってはいけないとわかっていた。
降り続けていると、そこに突然現れたかのように階段の終わりが。
長い長い間、全身を傷付けながら必死に駆け下りて──────やっと底が見えた。
もう逃げられる、大丈夫。そう思い、勢いがついたまま最後の段を下りきる。
──どん
前方の何かにぶつかった感触がした。顔ごと何かに衝突したが、あまり痛くはなかった。それがなにか見上げようとしたけれど、膝がかくんと折れ、上半身を目の前のそれへ預けるように地面へ座り込んでしまった。
(……布………?)
硬い壁や木ではなく、柔らかい布の感触。
涙や汗でぐしゃぐしゃになった顔で寸前の意識を保ちながら目を開くと、目の前のそれは服。日本特有の着物のようなもの。
(ああ…人……人にぶつかったんだ…やっと元の場所に…)
安心して顔を確認しようと見上げた。
されど、それは人ではなかったのだ。人の顔と形をしているけれど、どう見たって人では無い。
頭に大きな赤い眼が1つ、付いている。ありえない場所に眼が。それがこちらを、確かに捉えている。
「!!!」
目を見開き、再び大量の冷や汗が全身から噴き出した。頭から爪先まで段々と冷たくなってゆく感覚がして、まるでその瞳に体温を奪われているみたいだった。
『…。』
見たくないのに、見てはいけないのに、目が離せない。それを見つめていると、たちまちそれ以外すべてが黒く染まり、意識が遠のくのを感じた。
彼女はそれと眼を合わせたまま、ジワジワと意識を手放してゆき、ゆっくりと倒れた。
***
「………ぅ、ん…」
身体が焼けるように熱い。体の内側から熱に侵食されているような感覚。
横たわる彼女がゆっくりと目を開くと、自分の腕が視界に入った。
手のひらをゆっくり握って、開いて。それはちゃんと彼女自身の手で、感触もあった。
ふと感じる違和感。服の袖は穴が空き、泥だらけなのに、腕はやけに綺麗だった。
彼女は傷だらけの服を見て、全てを思い出し、顔をさあっと青くする。
(ああ、わたし、人の顔が付いた虫に追いかけられて…!)
勢いよく体を起こし、周囲を見渡しながら耳を研ぎ澄ましたが、羽音は聞こえなかった。一安心する間もなく、今度は背後から声が。
『痛い?』
「っ!」
話しかけられるとは思っていなくて、ひゅ、と喉からおかしな音が零れた。
彼女が怯えながら後ろを振り向くとそこには、青みがかかった緑の長髪に空の色を写したような青い瞳、頭の中心には大きな赤い眼を持つ少女が佇んでいた。首には首吊り縄を2つ上下に繋げたようなものを掛けていて、異常な存在、つまり怪異の類である事を彼女は理解した。
息を飲み、逃げ道を探すためにもう一度辺りを見渡す。が、逃げ道などなさそうだった。
果てしなく続く地平線に、柘榴のような赤い空。周囲には四角い柱のようなものが疎らに立っている。いくつかは途中で折れて倒れていて、いくつかは空に向かってどこまでも高く伸びている。彼女の知っている世界では無いことは明らかだった。
怪異は彼女へ近づき手を差し出したが、彼女は意図を理解できず後退り、差し出された手は使わずにふらつきながら自分で立ち上がった。怪異は首を傾げながら、ゆっくり手を下ろした。
顔が幼いため少女だと思っていたが、いざ彼女も立ち上がるとその怪異の方が幾分か大きかった。何かしてくる気配はないが、何を考えているかわからない目をしている。
不意に、怪異が彼女へ人差し指を刺した。何かされるのかと身構えたが、何も起きない。
『それ』
「……?」
『壊れていたから、直しておいた』
「えっ…」
それ、と指をさされたのは、彼女の体だった。
「あ……怪我、治ってる…?」
右手のひらで、存在を確かめるように左腕をゆっくりと撫でた。
打撲による痣も、木の枝により裂けた傷も、流れた血も、全て綺麗に消えている。痛みもない。まるで、階段を転げ落ちた傷だらけの服はそのままに、体の部品を丸ごと交換されたよう。
「えっと…怪我を治してくれて、ありがとう。ついでになんだけれど、ここを出て元の場所へ戻る方法を教えてくれる…?」
まだ安心した訳では無いが、怪我を治してくれたのだから悪い者ではないだろうと、一縷の望みを持って訊ねてみる。
怪異は、頭の眼では彼女を捉えたまま、人間に形が近い方の二つの目でぱちくりと瞬きをし、口角だけ糸で吊ったような歪な笑顔で彼女を見つめて言った。
『君が言う”元の場所”は、今いるここでしょう?』
怪異は、この異様な空間が彼女の元いた場所と同じだと言う。
怪異が言う事を理解できず、彼女は顔を歪めた。やはり人間では無いから、そう簡単には話が通じないのだろうか。
『ここもあちらも、本質は同じだよ。そこの地面も、君が眠った場所とおなじ場所。今は見えなくても、そこではいつも通り人間たちは歩いてる』
「…ごめんなさい、何を言ってるかよく分からない。どう見たって、ここはわたしが知っている場所じゃない……」
彼女は異議を唱えたが、怪異はそちらこそ何を言っているかわからないというふうに目を細めて、再び首を傾げた。表情は拙く、声は幼く、動作はコンピュータのようにぎこちない。まるで、人間の真似をするアンドロイドのようである。
しばらく互いを見つめあった後、怪異は近くの地面へしゃがみ込み、落ちている枯葉を手に取った。その1枚の枯葉を片手に乗せながら、彼女の方へと歩いてゆく。
『ほうら、これ。君が持っていた筥迫。君が見ようとすれば、ちゃんと同じに見える』
「…はこ……?わたし枯葉なんて…」
怪異はその枯葉を手放し、上からぱっと落とした。彼女が宙に片手を置きその枯葉を受け取ると、ずっしりと重みを感じた。ただの枯葉のはずなのに、と掌を見ると、そこには先程階段を転がり落ちて行ったはずのモカ色のハンドバッグが。
「っこれ、わたしのバッグ………?」
恐る恐る中身を確認すれば、出かける際に入れた化粧品やら財布やらがすべて揃っている。確かにそれは彼女の私物。
困惑した彼女が怪異を見上げると、怪異は笑った。またあの歪な笑顔を向けてくる。
敵意はないと悟った彼女は、怪異の行動一つ一つに怯えることは無くなった。それでもザワザワと胸騒ぎはして、早く此処を出たいという一心。
『ねっ、ここは君の言う場所と同義でしょう?』
「いや…わたしが帰りたい場所は、やっぱりこんなじゃない。ふつうの空は赤くないし、こんなに何も音がしないのもおかしいでしょ……?」
『空……。…音?
ここは、同じであれどより本質を表した空間。普段遠くから見ているものをもっと間近で見た時、表面のカタチが異なって見えるのは、当たり前じゃないかな』
「うう、もう少しわかりやすく言ってくれない?」
『…』
それから怪異は腹部の前で両手の指を交互に組み、仕方ない、とでもいうような顔で解説を始めた。
『君が普段見ている空は、何色?』
「えっと…青?」
『そう。でも、宇宙は青色じゃあないよね。他にも電波、原子、分子……全部、外から見た姿と本当の姿がある。本当の姿は見ようとすれば見えるけど、見ようとしなければ見えない。ただ、それだけ。今君がちゃんと見えていないのは、見ようとしないから』
「見る…宇宙……」
なんとなくわかるような、わからないような。
困惑は深まるばかりだったが、これ以上話を続けても仕方ないと感じ、お願いの方向性を変えることにした。
まずは、怪異の話に合わせながら帰る方法について繋げる。
「その…ここが、わたしが知る場所と本質が同じだとしても、わたしは今まで見ていた世界へ戻りたい。赤色じゃなくて、青色の空が見える世界へ帰りたい。それだけなの」
『ふむ……』
怪異は手を顎に当てて考え込み、やがて全てを理解したと言わんばかりの笑顔を見せた。
『……色……。
…そっか、色だね!わかったよ。君は、本質ではなく、表面に見える色を重視しているんだね』
「そ、そうなの。色が違うと落ち着かないから、同じ色の場所へ戻してくれる?」
理由は分からないが、納得して貰えたことに一安心し、彼女が一歩前へ出ようとした。けれどそれも束の間の安心。
『色を分からなくすれば、ちゃんと見えるようになるという事だよね。だから、まずは君の表面のカタチを変えてあげるよ。本質は同じままに、私達と同じ場所をその瞳に映せるように』
怪異は突如壊れたテレビのような動きを見せ、それと同時に頭の大きな赤い眼の瞳孔がガッと開き、彼女のみの一点を捉える。辺りが少しずつ黒で染まり、怪異の輪郭が掠れたように黒へ溶け込む。
怪異は彼女の方へとゆっくり歩み寄った。そして、両手で彼女の顔を────
(あ、これ、逃げなきゃダメ)
彼女は顔に触れられそうになったギリギリで後ろへ避けて、振り向いてだっと走り出した。
「はあっ──!はあっ」
色を分からなくする、と怪異は言った。
失明させられる?それとも、精神を蝕まれて廃人にされる?あれが言う色とは、本当に自分が知る色の事か?
思考をぐるぐると巡らせながら、ひたすら柱を避け続け、つまずかないよう必死に走る。
ただ、恋人へのプレゼントを探しに来ただけなのに、幾度も危ない目に遭う理不尽に再び涙が込み上げて、それでも我慢してただ走り続けた。
走って、走って。そこでふと、彼女は足元が冷たいことに気がついた。ちらりと地面へ目をやると、そこには赤黒い液体が辺り一面に。鉄の匂いを含んだその液体が、潮が満ちるように高さを増し続けている。
異様さを増したその光景に足を止めそうになってもすぐさま力を振り絞り、無我夢中で走り続ける。
気がつけば、振り向いても怪異の姿は見当たらなくなっていた。
(ここまで逃げればっ───)
息を切らして減速する。
逃げ切ったかと思ったが、左からぴしゃ、ぴしゃ、と液体を踏む音が。
ばっとそちらへ身体を向けたが、誰もいない。
ぴしゃ、とまた音がして。その音は確かに彼女の方へと近づいているのに、怪異の姿は見当たらない。
(どこ…!?一体どこから……!)
前後左右を警戒していると、突如足首を掴まれた感覚。彼女は小さく叫び、驚いて後方へ転倒した。
足下へ目をやると、そこには肉塊のようなものが蠢いていて、歪な形の腕で彼女の足首を掴んでいる。掴むと言うより、縋り付いていると言った形が近いかもしれない。
「はっ!はあっ…!!なにこれっ、生きてるの…!?」
肉塊には人間の目や口と類似したものがついていて、全ての部位がそれぞれ違う意思を持つかのような、支離滅裂な動きをしている。位置も形も、人間の姿を保ってはいなかった。
肉塊は赤黒い液体の糸を引きながら、彼女の脚を登ろうと這いずる。
「やめてっ…!来ないで………!」
必死の抵抗は虚しくも意味をなさず、肉塊は倒れた彼女の体をずるずると這いずり、脚、腰、腹部と顔を目掛けて進み続け、やがて胸元へ。
「……!!!」
顔へ辿り着かれたかと思い、瞼をぎゅっと閉じて身構える。けれど、肉塊は彼女の喉の近くで動きを止めた。
倒れたまま動けなくなった彼女が恐る恐る肉塊と目を合わせると、ただこちらを見つめていた。攻撃する訳でも、あの怪異のように話しかけてくる訳でもない。
彼女と肉塊が少しの間見つめ合っていると、不思議と恐怖が薄れていった。見た目は異様な肉塊であるというのに、普通の人間と目を合わせているような気を持った。
すると、肉塊の体の横から溶け出すようにごぽ、とガラス瓶が1つ飛び出してきた。ガラス瓶は埃で曇り、引っ掻き傷のようなものが多数。蓋も焦げたように変形している。
「…………これを取ればいいの?」
肉体から瓶をずるる、と引き抜くと、肉塊は彼女の体から這い降りた。びちゃびちゃと音を立てて移動した。やがて移動が終わり、少し離れた場所で、何かを待つように彼女の様子をじっと伺っている。
彼女は顔に髪が張り付き、前はよく見えなく、思考は疲労でぼんやりと霞んでいた。
ぐっと震える上体を起こし、瓶を膝の上に置いてじっと見つめた。
得体の知れないものにはなるべく触れたくない。けれどこのまま何もしなくてはこの場所を出る手掛かりは掴めそうにない。
力の入りにくい手で瓶の蓋を捻り開くと、中には1枚の紙が丸まって収められていた。かつて均一な白であったであろうその紙はところどころ黄褐色に変色し、端は焦げたように縮れていて、永く経過した時間を物語っている。紙には歴史の教科書に出てくるような、古い字がずらりと。
”くくりさまとは、眼を合はすべからず。
異界にやられば、いまえ戻らぬやもしれねば。
くくりさまとは、手をむすぶべからず。
一度つながりを持つと、色を断ち切るべからずなれば。
くくりさまには、黒き輪に首を吊るべからず。
首と魂を土産にもちていかれぬれば。
くくりさまには、赤き輪に首を吊るべし。
させば、永劫の命と共に還るべければ。”
(すべからず…いかれぬれば?……独特な言葉遣い。日本語であることは分かるけど……)
紙に書かれた文章は所謂古文というもので、現代語のみを会得した彼女には正しい読解は難しかった。ただ、今はこの紙一枚だけがこの場所を出る手がかりである。組み合わされた漢字から何を意味するか考察する事はできなくもなさそうだと、頭をひねって考え始めた。
彼女はまず、眼という単語について考えた。眼というのは、即ちあの怪異の頭部にある大きな赤い目のことであろう。その次に続く異界についての一文。
(おそらく、目を見てしまったから私はこの場所にいるんだ。それなら…あの目をどうにかすれば、出られるかな?)
どうにかする、とは言っても、一応あれは人に近い外見をしている。眼を抉るだとか、何かで刺すだとか、そういうことは気が引けるのだ。危険な存在であることは明明白白であれど、話し合いを続ければどうにかなるかも知れない等と考えてしまうのが彼女で。
眼についての考察は一旦諦め、”手”について考える事にした。
手をむすぶべからず、から読み取った”手”と”おそらく否定形である”という部分から、手に触れたりしてはいけなそうだ、という事を判断し、気を付けようと肝に銘じた。
次に、”黒き輪”と”赤き輪”についての考察。
(輪というのは、あの首から下がった縄の事かな。よく思い出してみれば、あれは首吊りロープ…だよね?)
怪異が首にくくる縄は、かつて本などで目にした絞首刑に使う縄に良く似ていたことを彼女はうすらと
思い出した。しかし見た事のあるものと違う点は、上下に二本の縄が繋がっている様な形状であること。確か、その上下で色が違ったような。
(この縄にも触れない方がいいんじゃ…首吊りロープだなんて不謹慎なもの、絶対に危険だし。
───でも、最後に書かれた「還る」っていうこれ…)
還るという文字はかえると読んだだろうか、意味は帰ると似通っていたはず。そんな考えが浮かぶが、いずれも確信は得られない。
勉強のために読んだ日本の小説では、帰還だとか生還だとかそういった使い方をされていた事から、それは帰る手掛かりに繋がると推測した。
以上の文章を考察し、この紙一枚から彼女が読み取った情報は、
”怪異と目を合わせた故に自分は此処にいること。”
”怪異の手には触れない方が良いこと。”
”黒い輪は危険であること。”
そして、”赤い輪に帰る手掛かりがありそうなこと。”
この四つだった。
彼女は姿をもう一度確認する為また怪異のいる場所へ戻ろうかと考えたが、今度こそ命が危ないかもしれない。むしろ、見つからないよう逃げるべきである。
彼女は立ち上がり、うーんと唸りながら地面を歩いて考える。
あの怪異への干渉以外でのこの場所を出るアイデアを引き出そうと、しばらく考え込んだ。柱を登る、助けを求めて叫ぶ、地面を掘る……失敗に終わる事が容易く予想できるものばかり。
悩みに悩み、ひとつ、世界の端まで歩いてみることを思い付いた。誰も傷付けず、傷付けられない。彼女にとってこれ以上にないアイデアだった。
彼女はよし!と意を固めて自分の両頬をぺちん、と軽く叩いた。先程までは恐怖で震えが止まらなかったが、こう何度も危険から逃れた事で逆に吹っ切れてしまい、正常性バイアスのような心情になりつつある。
俯いていた顔を上げると、果てしなく広がる地平線に真っ赤な空が目に入った。気が滅入りそうになるが、ここで諦めてはいけない。
地平線の彼方へと歩み始める彼女を、肉塊はどこか寂しそうな、虚ろな瞳で黙って見つめていた。
***
(流石に、そう簡単にはいかないよね。)
携帯を取り出すと、時刻は14時32分。時刻やメモ、メールの履歴は確認できるが、案の定ネットには繋がらず、圏外と表示されていた。彼にメールを送信しようとしたが、返ってくるのはエラー表記のみ。わかってはいたものの少し落ち込み、先に送られたメールを何度か読み返して気を取り直した。
一方へずっと歩き続けていたが、同じような景色が続くばかりである。右を見れば空まで続く柱、左を見れば折れて二つに別れた柱、左斜め前を見れば根元のみ黒く焦げて残った柱であったもの。この空間がかなり広大であることは予想内であれど、いざ歩いても歩いても情景が変わらないとなるとストレスは溜まり続けるものだ。無論、諦めるつもりは無いのだけれど。
彼女は歩き続ける間、地面一面の赤黒い液体がどうなるのかを心配していた。やがて溺れてしまうほどに満ちてしまうのかも知れないと。しかし、歩き続ける間に段々と水面は下がってゆき、かつて足首まで飲み尽くしていたその液体は、気が付けばブーツの踵部分を少し越す程度になっていた。
実はその液体に実態はなく、彼女の恐怖の深さを反映したものであることを、彼女が知る由はない。
***
「…!」
15時9分。木製の箱のようなものを柱の陰に見つけた。
初めて、今までと全く同じではない風景を知覚することができた彼女は、一気に現実へと引き戻され目を見開く。
早歩きで箱へと近づきその前へしゃがみ込む。よく見ると、それは今まで見た古臭いものたちとは違い、新品のような綺麗な状態であった。
(古くはなさそう。誰かがつい最近、ここへ置いた?)
彼女が恐る恐る箱へと手を伸ばすと、カチャ、と鍵のようなものが勝手に開いた音がした。
蓋を開けば、そこには1本の小刀が鎮座している。それを手に取ると、持ち手に文字のようなものが彫られていたが、特殊な形状で読む事はできそうにない。
奥へ傾けると、きらりと先端が光った。
それの使い道を考える暇もなく、突如背後から声が響く。
『ねえ。そろそろ鬼ごっこは飽きたでしょう?今度は、君に贈り物を用意したよ』
「!」
いつの間にやら、怪異は音も立てず彼女の背後へと佇んでいた。彼女は反射的に振り返り構える。体力をかなり消耗していることから、この距離からまた逃げ続けることも難しそうだった。
怪異は先程のおかしな挙動を残したまま、少しずつ元の少女のような無垢な姿へと戻ってゆく。近づくとまた彼女が逃げてしまうと察した怪異は彼女を見つめるばかりで動かず、お互いが距離を保ったまま静止している。
「わたしに近づかないで!一体、なにをするつもりだったの…!?」
『うん、怖がらせてしまったかな。やっぱり、人間は儚く尊いね。簡単に壊れてしまう。もう少し、丁寧に扱うべきだった』
怪異は寄り添うような口調を使うが、言い方はまるで彼女をモノ扱いしているようで、彼女の警戒を増すばかり。彼女は横目で箱の方を見やったが、既に赤黒い液体の底へと沈んでいた。
『それで、逃げている最中になにか欲しいものは見つけたのかな?』
「…!そう、あなたのその、首にくくられた赤い輪に、ここを出るヒントがあるんじゃないの?」
『赤?』
彼女は震える声で問い詰めた。怪異は自身の首に掛けられた赤い輪と、その下に繋がってぶら下がった黒い輪を一瞥し、困ったようにぬるく笑う。
『これは君に、なんの成果も期待できないよ。私だって鬱陶しく思ってる。外したくても、外せない。これは既に私の身体の一部だしね。実は、これが私の本質だったりするのかも』
「でも…!あの紙には、それで、帰れるって…。何も意味が無いはずはないでしょ?」
『紙?君が何を見たのかはわからないけど、やめた方がいいんじゃないかな。これを使っても、君は色に囚われたまま永遠を過ごすことになる』
話は平行線。怪異はまた独自の見地へと話を逸らすばかりで、彼女が本当に知りたい情報は何も得られない。先と同じように話を続けても、最終的にはまた怪異が物理的な手段に出て終わるだろう。
そこで彼女はとうとう話し合いを諦め、自分から手を出す事にした。
ごくりと唾を飲む動作。既に喉は乾ききっていて、空気のみが肺へ落ちた。
小刀を両手でぎゅっと握りしめ、先端を怪異の方へ向ける。
「その赤い輪を、わたしに渡して。そ、そうしないと…!さっ……」
そうしないと刺す、そう脅す筈が、彼女は臆病である故。
まずは赤い輪を手に入れる事が優先。涙が浮かびそうになるのを堪えた目で怪異をきっと睨み続け、目線で意志を伝える。
怪異は特に驚きもせず、ただ佇んでいる。
『そっか。別に、そういう使い方も間違ってないよ。でもね、さっきも言ったけれど、これは私の身体の一部なんだ。奥深くに強く結びついていて、切り離すのは簡単ではないね』
そう告げられた彼女の顔は青ざめ、それでも尚諦めはしないと怪異を睨み続けた。
『どうしても欲しい?』
「……今使えそうなものは、それしかないの。お願い」
彼女の意思が揺るがないことを確認した怪異は、ふっと目を閉じてひとつ息を吐く。そして頭の大きな赤い眼を、瞼を閉じるように左右の髪が隠した。
怪異から異様な気配が減り、周囲の歪みも緩和する。邪気を抜くようにして、普通の少女のような空気を纏う。
こちらに攻撃の意思がない事を示すように、怪異はゆっくりと彼女へ歩み寄った。
彼女はぴくりと肩を跳ねさせたが、いきなり怪異が普通の人間のように見えたものだから、困惑したまま小刀を握りしめている。
やがて怪異は彼女の目の前へ。彼女が握る小刀の刃の部分へと右手を添えて、自身の身体の中心へ向け、上半身のみを傾け顔を近づける。そうして、淡々と囁いた。
『私の一部が欲しいなら、それで切り離せばいいよ。
”ここ”ごと、一緒にね』
「…!!」
怪異が”ここ”と指した場所は、怪異の首。切り離すなんてことをすれば、通常の人間は確実に死んでしまう部位。
おぞましく感じた彼女は半歩下がったが、それ以上は堪えた。尤も、自分からそれを突き付けて脅しを掛けたのだから、ここで逃げる訳にはいかない。
『私は、君がどう本質へ近付けるのか見てみたい。本質へ向かう道の途中で私の首がひとつ必要と言うなら、差し出すよ』
「ほ、本当に、切り離さないといけないの…?そんな事をしたら、あなたは……」
『赤い輪が欲しいんでしょう?黒い輪であれば、別に切り離さなくたって、繋げたまま使える。好きな方を選ぶといいよ』
怪異は、黒い輪であれば残酷な事をせずとも使えると言うが、彼女はそれを心の深くで強く拒んだ。何か、其方を使ってはいけないような気がした。ただの直感ではあるが、このような怪奇的現象が多い場では蔑ろにはしない方が良いのが直感というものだ。
「赤い輪がほしい…けれど、わたしは、人殺しはできない」
『私は人じゃないでしょう?』
「でも、生きてる」
『いいや、普通の生命の定義には当てはまっていないと思うな。それに、君は今、他者の心配をしている余裕があるの?そういう状態には見えないね』
怪異の指摘したとおり、現に彼女には余裕なんてものは影も形もなかった。ストレスと疲労に耐え続けた結果、心身共にズタボロになり、よれた衣服は使い古した雑巾のような無様な姿に。赤く腫れた目元が痛々しい。
怪異は”早く決断してごらん”とでもいう風に、目をすうっと細め、彼女の握る小刀を添えた手でさらに自身へと寄せた。純粋な青の瞳には、優しさを捨てきれない娘が映る。
『さあ』
囁きと、合わさる目線から、どくんどくんと高鳴っていた心臓が少しずつ静かな鼓動へと落ち着いてゆく。
その少しも揺れない余裕と無垢な表情から、目の前の怪異は殺しても死なないような気がした。
そして、直感を信じて、彼女は決断した。
小刀を握る両手へぐっと力を込め、ゆっくりと腕を上げる。怪異の中心である腹部から胸へと辿り、そして首へ。
怪異は表情を変えずに、前へ倒していた体を直して、小刀へ添えていた手をそっと離した。彼女より少し高い目線で彼女を見下ろし、全てを受け入れるように体の力を抜いたまま立つ。
彼女は頸動脈へと狙いを定め、斜めにした小刀をぴたりとくっつける。
そして、ようやく。
「──────ごめんなさい。」
ザシュ、と一直線に掻っ切って、鮮やかな朱が勢い良く辺りへ散らばった。
ぴちぴちと小さな丸が次々に地面を打って染み込んでゆく。
怪異は倒れながら、血の気の無い顔でにいっと笑って見せた。彼女にはそれがひどく不気味に思えて、怖くて仕方がなかった。
恐怖と同時に、彼女は大きな違和感を抱いた。
地面へと倒れた怪異は先程の笑みを失い、冷たい表情のままぴくりとも動かない。明らかに、死んでいるのだ。
そのはずが、手応えが全くない。
自分の手でたった今命を奪ったはずなのに、そこには最初から何も、命なんてものは存在しなかったかのよう。
横たわる怪異の体が、ただの容れ物にしか見えなかった。
(こんなこと、考えてしまうわたしが一番怖いのに)
少しの間、その容れ物を見つめていた彼女は、ふっと膝から折れて地面へ座り込む。全身の力が抜けたまま、少女を殺したという事実を握り締めるように、小刀を持つ手だけが緩まなかった。
***
「────ん──」
誰かの声が頭に響く。呼びかけられている気がする。
「──お嬢ちゃん、お嬢ちゃん。大丈夫かい?」
「…………え……」
ゆっくりと目を開けると、そこには心配そうな顔の老店主が。
「ああ、よかった。急にばっとテーブルに突っ伏すものだから、熱中症か、珈琲アレルギーじゃないかと心配したよ」
「……ん、あっ、ああ…すみません」
(寝ていたの、わたし…?)
目を覚ました彼女は、まだ夢と現実の堺にいるような顔で目を擦る。どうやら、テーブルに突っ伏したまま寝てしまっていたようだ。
「すみませんすみませんっ…寝てたみたいで……あ、珈琲冷めちゃいましたっ?」
「いやあ、特に何も無いならいいよ。それに、そんなに時間は経っていないよ。旅先で疲れていたのかね。今日は暑かったし、無理もないね」
「あわわ、ご心配をおかけしました…」
安心して胸を撫で下ろした店主が再びカウンターへと戻る。
それからジリリリ、と電話が鳴った。受話器を手に取り、楽しそうに話し始める老店主。自分のことをおじいちゃんと呼んでいることから、孫と話しているようだ。実に微笑ましい。
彼女は飲みかけのすっかり冷めてしまった珈琲を、急いで飲み干し……と思いきや、珈琲はまだ温かかった。携帯を見ると、時刻は13時46分。夢のようなものを長く見ていた気がしていたけれど、勘違いだったようだ。
ふと店内の後ろの方へ目を移せば、一瞬心配そうな顔をしていた老人と目が合ったが、すぐに目は逸らされて険しい顔へと戻ってしまった。
目も冴えて落ち着きを取り戻した彼女は、まだ暖かいカップへ再び口をつけた。
帰る前に買う和菓子は、あんこがたっぷりと詰まったものだといいだろうか。それとも、とろみのあるカスタードが入ったものがよいだろうか?和菓子はきっとどんな珈琲にも合うのだろう。
そんなことを考えながら、ほろ苦くも力強いコクのあるカプチーノを楽しむ。そうしているうち、やがてカップの底が見えた。
店主に礼を言い、奥の席の老人にも一礼してから店を出る。
クーラーのよく効いた涼しい店から出ると、わっと暑気が身体を包む。それでも珈琲のお陰か、どこか悪い気はしない。なんとなく身体中を生命力が巡って、これからはどんな場所でも元気に過ごせるような気を持った。
日本旅行は残り4日間。またの旅行を存分に楽しむため、お気に入りの喫茶店リストを書き足す。その日はコンビニで購入したジャパニーズスイーツをとことん堪能することができた。
彼女が夕暮れの景色を携帯へと収めてからホテルへ戻る時、その夕暮れの赤は、自国よりも幾分か濃いような気がした。
「本当、自慢の彼女だ。なあ、秘訣を教えてくれよ。どうして、こうもずっと綺麗なんだ?」




