夫が知らない女の名前を出した
お読みいただきありがとうございます。
貞淑、この言葉は本来女性を指すものだとは私も心得ている。
操が固く、おしとやかでお上品な女性。つまり夫ただ一人に尽くす、時に陽となり時に陰となる器を持った人。
「コレット」
針を刺していた手を止める。顔を上げれば夫――セルシュ様は私の座っていた椅子に体を預け柔らかな眼差しを向けていた。
「すみません、すっかり集中してしまいました」
「ふふ、コレットはのめり込むと中々こっちの世界に帰ってこないからね。侍女たちに何度声をかけても気づいてくれないと泣きつかれてしまったよ」
窓の外はすっかり暗かった。どうやら晩御飯の時間らしい。
慌てて針や布をしまう。
「それにしても、コレットは僕が呼べばすぐ気づいてくれるよね」
「……夫の声には即時対応する機能が妻には備わっているものなのですよ」
「そうなの?」
くす、と空気を含ませて笑う。彼は私の言葉を冗談として流したようだった。
あながち間違いでもないのですけれどね。心の中でだけ吐露する。
学生時代から私は彼をこっそり慕っていた。優しく微笑み誰にでも平等に接し、人々を扇動するタイプではないけれど後ろを遅れて歩いてくる子を支えるような彼を。
でも私は意気地なしで声がかけられなくて。代わりに本を読むフリをしてセルシュ様の声を盗み聞いていた。
どんなに小さな声でも聞き逃したくなくて。卒業して他の人と結婚した後でもそれを胸に生きていけるように。
だから今もそのクセが残っているのだ。
「…………」
彼の後ろを歩く。
結婚して半年経っても高鳴る心臓を悟られないように。
彼はこの半年間一度も私に手を出してくれないのだから。
セルシュ様は随分と貞淑な人だった。
◇◇◇
私とセルシュ様が結婚する運びになったのは、なにも私が想いを伝えた訳でも、彼が私を見初めたからでもない。
魔力の相性が良かった、それに尽きるのだ。
この世界では皆大なり小なり魔力を持ち、才能があればそれを魔法に変換することができる。
残念ながら私は魔法を使えないが、セルシュ様は違う。魔力量に富み、水・火・風・土の自然を構成する四大属性全てに適性があるとても凄い方なのだ。
このような方は稀であり、彼は次期侯爵家当主と筆頭魔法使い候補という二足の草鞋を履いている。
茶髪に青い目を持つ端正なお顔。性格も良く、将来も安泰。
優良物件として数多のご令嬢から秋波を送られている彼から個人的なお茶会――つまり婚約を結びたいという手紙が送られた時、我が家はこっそりパニックになっていた。
父は子爵家当主としての威厳をかなぐり捨てたように手をひよこみたいにバタバタさせ、お母様は腰を抜かしていた。
お兄様は妹である私の顔を何度も首をひねりながら確認し、当の私と言えば逆に冷静になっていた。
「きっと、なにか考えがあってのことなのでしょう」
「コ、コレット……」
私は自室まで小走りで行き、クローゼットからお気に入りのドレスと少しの小物を持って帰ってくる。
どれがこのドレスに合うだろうか……真面目フェイスを保ちながらお父様たちを見据える。
「ですので、決して騒がず冷静に行きましょう」
「コ、コレット……!」
「いやコレットが一番冷静じゃないでしょ」
お兄様が眉根を寄せた。
我が家は子爵家で一端の貴族ではあるが、あまり裕福ではない。だがせっかく好きな人に会えるのだ。ほんの少しでも、心の底から綺麗だと言って欲しいではないか。
「いえ、着飾ることは武器であり礼儀ですよ」
「……そうか」
家族にセルシュ様への恋心を打ち明けたことがない私は、少しわざとらしいくらい冷静に告げながら、髪に結ぶリボンを選ぶ。
だから当日。デビュタントを迎えた令嬢のようにめかしこんでしまったのはしょうがないことかもしれない。
◇
セルシュ様のフェーミラ侯爵家から迎えの馬車が来て、着飾りすぎくらいピカピカの私と両親が乗った。
所々にフリルがあしらわれた空色のドレス。黄色い髪は緩く巻かれていて、大きなリボンが後ろについている。
「……コレット、可愛いけど少しばかり着飾りすぎではないかな?」
馬車の中でお父様がコソッと耳打ちした。
「そうね。変ではないけど……」
お母様は言葉を濁した。
貴族社会というのは怖い。簡素だと貧乏くさいと馬鹿にされるが、着飾りすぎも冷笑の種なのだ。
それを知っているが、あえて何でもないことのように流す。
「そうでしょうか?」
「まぁ、着飾って困ることはないか……」
ほどなくして屋敷に着く。大きなお城のような屋敷に圧倒されていると、玄関に人が立っていた。
セルシュ様と、そのご両親だった。彼が前に出る。
「コレット嬢」
「はじめまして。ラセン子爵家のコレットと申します」
「そう固くならなくて良い。学園での君も凛としていて綺麗だけど、今日は一段と綺麗だね。僕のため、と思っても良いのかな?」
輝かんばかりの微笑みに軽く目眩がした。
「そうですね。せっかくお会いするのですから」
駄目だ。いつも遠くから見てるだけだったのにこんな至近距離では私が溶けてしまう。
震える唇を押さえつけた。
「では行こうか」
「はい」
さらりとエスコートされながら、私たちは応接間へと向かった。
◇
お父様たちは隣の部屋へと行った。なんらかの説明を受けるのだろう。
私はセルシュ様の向かい側に座り、侯爵家の使用人が淹れてくれた美味しい紅茶を飲み気分を落ち着かせる。
話を切り出したのはセルシュ様の方だった。
「急に婚約なんて話、驚いてしまったよね。僕たちはそんなに話したこともなかったのに」
「そうですね」
ずっと目で追ってたりしてましたけどね! 下手に言葉を紡げばボロが出そうで曖昧に頷いた。
「でも、どうして私なのでしょうか?」
「あまり一般的ではないんだが、魔力にも相性というのがあってね。相性が良い者同士が結婚すると、魔力量の多い子どもが生まれるとされているんだ」
ふと、フェーミラ侯爵家は代々優秀な魔法使いを輩出していることを思い出した。きっと私が知らないだけで、このような方法は色んな家で行われているのかもしれない。
「なるほど。それで私が選ばれたというわけなのですね」
「うん。勿論君には断る権利がある。けれど前向きに検討してもらえると嬉しいよ」
前向きに検討どころか食いついて離さない勢いでいく所存。
うふ、品よく微笑む。
「これもなにかの御縁です。私といたしましては、ぜひ夫婦になれたらと思いますわ」
「……っありがとう」
そこで両親たちも入室してきて、早速契約書を交わすこととなった。
署名してから、セルシュ様に庭を見に行かないかと誘われる。
「素敵な庭ですね」
爽やかな風が吹き花々を揺らしていた。目を取られていると、隣にいた彼が真剣な面持ちで私を窺っていた。
「あの、なにか?」
「……コレット、と呼んでも良いかな?」
「はい、嬉しいです」
手を取られる。
騎士が誓いを立てるときのような神聖さが漂う。
「この婚約は魔術が理由の婚約だけど、君と愛し合っていけたら幸せだと思う。慈しみ、大切にすることを誓うよ。……なんて、ちょっと虫がいい話だったね。心の片隅にでも置いてもらえたら嬉しいよ」
「……知ってます」
「え?」
空いている方の手を胸に当てる。
「セルシュ様がとても素敵な方だって、私をちゃんと尊重してくれる方だって、知ってます」
無意識の内にほわと笑みが漏れた。
「だから私は今日。こんなにもめかしこんでしまったのです」
セルシュ様のまん丸に見開かれた青い目に私が映る。
「――……可愛いっ!」
「え、あの?」
「あ、いやごめん急に」
――それから三年後。二十一歳の時に私たちは結婚式を挙げた。
◇◇◇
結婚式が終わって、初夜。私は侍女たちの手によって丹念に磨き上げられていた。
黄色の髪は艶を放ち、肌はもちもちふわふわになっている。
ガウンを着込み行けば、セルシュ様は既にベッドの上に座っていた。
……だがその顔色が信じられないくらい青い。
堪らず声をかければ、私が来ていることにすら今気づいたようだった。
「コレット……」
「どうかしたのですか?」
そういえば、彼は結婚式の最中から様子がおかしくなった気がする。具合でも悪いのだろうか?
そっと隣に座れば強い力で抱きすくめられる。
「……あったかい」
「先ほどまでお湯に浸かっていたので」
「うん、うん……」
泣いてる? 顔を窺おうとすればそのままベッドに倒れ込んだ。
ドッドッドッ。うるさいくらいに心臓が鳴る。
つ、遂に始まる――!
「コレット、僕は本当に君を愛しているんだ」
「そ、そうなのですか?」
「君に懸想する男を許せないくらいには狭量だよ」
「まぁ」
ドッドッドッ。
「それで、その……私はセルシュ様に全てを委ねるというか……」
ドッドッドッ。
「そのことだけど、少し僕に時間をくれないか」
「――え」
冷水をかけられたように心臓の音がピタリと止まった。
「どういう、ことですか?」
「今は駄目なんだ。だけどできるだけ急ぐから。僕を待っていてほしい」
「理由はお訊ねしてはいけませんか?」
「……そうだね。全てが終わったら、話したいと思うよ」
つまり現在はなにも話すことはないということことだろう。
この婚約は身も蓋もなく言えば、魔力量の多い子を成すため。それは彼も理解しているだろう。
それでも譲れない理由がきっとある。
私はほんの少しの不安を覆い隠し、セルシュ様の頬に鳥のついばみのようなきすをした。
「お待ちしておりますね」
「ありがとう。愛してるよ、コレット」
「私もです」
何度も愛してるという言葉と共に頭を頬ですりすりされる。
私は、まさかこれから半年間一回も手を出してもらえないとは想像もしていなかった。
◇
貞淑な夫、もといセルシュ様は良き夫であった。私をいつも慮ってくれ、愛の言葉も惜しみなくくれる。夜会ではにこやかに会話に応じながらも、まるで私を引き立たせるように一歩引きエスコートする。そんな日常は穏やかでとても心地が良い。
けれど私はたまに、自分の平坦なお腹を撫でてしまう。
「そう心配することはないわ。気を詰めすぎても毒よ」
お義母様にお茶会でお菓子を勧められながら慰められる。彼女はまさか、毎晩本当の意味で一緒に寝てるだけとは思わないはずだ。
「そうですね」
「そうよぉ。あの子ったら貴女が可愛くてしょうがないみたいだし。勿論わたくしもよ? 子ができなくてもこの世には色々な方法があるの。二人がずっと仲良しでいる方がよっぽど大事よ」
セルシュ様はお義母様似だと思う。こうして言葉を尽くしてくれるところがそっくりだ。
当のセルシュ様は最近は暇さえあれば自室に籠もっている。
出てくる度難しそうな顔をしていて、私の顔を見てはぎゅぅぎゅぅと抱きついてくる。
耳元で零れるため息。
私は彼を信じている。
けれど段々心が擦り減っていくのも感じている。
なにも問題なんてないように思うから、都合の良い言い訳が見つからない。
それがすごく、苦しい。
変わらず夜は訪れる。もぞりと体を起こし、隣で健やかな寝息を立てる夫を見つめる。
つんと頬をつつけばふにゃと唇が緩んだ。
「……シャロン……」
瞬間、夫の口から知らない女性の名前。
「……シャロン?」
思わず繰り返してしまった。
「シャロン……」
「……んふふ……」
囁やけば大層幸せそうに笑っている。
……私は、彼が手を出してくれないのにはなんらかの準備でもしてるのかと思っていた。それこそ、魔法に秀でた一家ならではの習わしでもあるのかと。
それでもやっぱり寂しくて。貞淑なんて言葉で揶揄し自分の心を誤魔化してきた。
違ったのかもしれない。彼は本当に貞淑だったのかもしれない。
私と結婚してから、いやあの結婚式の日に参列者の中にシャロンという名前の女性がいて、恋に落ちたのかもしれない。
叶わぬ恋。せめてもと操を立てていたのだろうか。
「私、浮かれてたみたい」
ずっと好きだったセルシュ様と夫婦になって、本当に愛してもらえるかもと妄想して。
彼にとっては魔力の相性が良いから決まっただけで、他の人に心を奪われる可能性は十二分にあったのに。
ほとりほとり。大粒の涙がとめどなく握り締めた拳を打つ。
心臓を握りしめられたように苦しい。消えてしまいたい。
静かにベッドから降りた私は、月の明かりだけを頼りに筆を執った。
『どうか好きな方と添い遂げてください。貴方の幸せを心から祈っております』
一文字紡ぐごとに体がバラバラに砕け散りそうになる。
その手紙を机の上に重しを載せ固定する。
自室に帰り、夫婦共同のベッドより小さいベッドに体を沈める。
今日はもうなにも考えたくない。明日。明日になったら荷物を抱え家へ帰ろう。
格上の侯爵家との結婚なんて結局上手く行かないのだ。社交界ではそんな噂が流れるだろうが、身分相応な奴になったと新たな縁談が来るかもしれない。
涙の泥濘に沈む。意識が薄れていった。
◇◇◇
朝目が覚めたのは、ピチチという鳥の鳴き声と共に差し込む朝日――そんな穏やかな景色を掻き消すくらいのノック音だった。
「コレット! ここにいるのかコレット!?」
「コレット、この子に嫌気が差してしまったの? それならセルシュを追い出せば良い話よー!」
「そうだぞ、コレットさんももう私たちの大事な娘だ。セルシュがなにかしたなら遠慮なく言ってくれ」
セルシュ様にお義母様とお義父様。それから侍女たちの若奥様ー! という呼び声が聞こえてくる。
眠気はすっかり飛散しカーディガンを羽織ってからそぉっとドアを開けた。
「あ、あの〜」
「コレット!」
飛びつかんばかりの勢いでセルシュ様の腕の中に閉じ込められる。
「朝君がいなくて、この手紙だけあって……やめてくれ。僕の前からいなくなろうとしないでくれ……」
悲痛な声音に、きゅ、と胸が痛んだ。
そうだ。彼はたとえ他の人に心を寄せていても、私を蔑ろにはしなかった。恐らく、永遠に真実を打ち明けないくらいには。
そんな人が、急にいなくなるなんて言われて心配しない訳ないじゃないか。
「ごめんなさい」
「うん……」
弱々しい声。
私はお義母様とお義父様を見つめる。
「セルシュ様と二人でお話してもよろしいですか?」
「貴女が良いならそれで良いけど……。無理は駄目よ」
「なにかされそうになったら大声で呼びなさい。皆で駆けつける」
苦笑してしまった。この温かい人たちは私を実の息子であるセルシュ様と同じくらい大切にしてくれる。
侍女たちも普段は無の表情を保っているのに剥げてしまっている。
ようやく二人きりになると、私から体を離した彼に椅子に座らされた。隣に椅子を引き腰掛けたセルシュ様に逃さないと言わんばかりに手を握られる。
「それで……どうしてこんな手紙を?」
「……貴方のためです。シャロンという名前の方が、好きなんですよね? 昨日寝言で呟いているのを聞いてしまいました」
「……っ」
息を呑む音がした。
「もう良いのです。十分です。だから離婚して、本当に愛する方と結ばれてください。私に悪評が立っても特別困ることはありませんし」
「コレット、僕は……」
唇に触れるか否かの位置に人差し指を当て、話を制止する。
「私、実はずっと前から貴方のことが好きでした。でも勇気が出なくて……だからこれはきっと夢だったんです。覚める時がきたんです。私の身に有り余る幸せな夢を見せていただき、ありがとうございました」
「――っ違うんだ! 僕が愛しているのはコレットだよ。……この話は、できればしたくなかったのに」
首を傾げてしまう。
彼の隠していた話とシャロン様にどのような関係があるのだろう。
すっと真面目な表情になったセルシュ様が、慎重に話を切り出す。
なぜか、まだ二十一歳の彼が苦難を抱え年老いた人のように見えた。
「僕はこの人生を二度繰り返している。時を戻す前、コレットと、――そしてシャロンは僕のせいで亡くなった」
◇◇◇
時を巻き戻す前も、セルシュとコレットは同じ理由で婚約を結び三年後に結婚した。
違ったのは、半年後にコレットの妊娠が分かったことだった。
毎日が幸せで、セルシュは二人を一生守ろうと何度も何度も強く誓った。
だが、コレットが吐血してから平穏な日々は終わりを告げた。
「……コレット!」
「ゲホッ、だい、じょうぶです……」
使用人や医者を大急ぎで呼ぶ。
老齢な魔法使いを呼べば、彼はコレットの背中を擦りながら目尻を下げた。
「……こりゃ、わしも四十年ぶりに見た。赤子の魔力が強すぎるんだな。魔力を正常に回すための回路がまだ形成されていないから、体に負荷がかかっておるんだろう」
「それは……」
「このままでは、母子共々亡くなってしまう」
セルシュは目の前が真っ暗になり、立っていることすらできず倒れ込んだ。
「なにか、なにか方法は……っ!」
「症例が少なくてな。治療法はまだ確立されていないんだよ。体が保てば無事生まれてくる可能性もあるがのう……」
皆が部屋を出て行った。セルシュを気遣うように。
セルシュはコレットの膨らみ始めたお腹に額を当てる。
堪えきれず、涙がボロと頬を伝った。
「……すまない。僕の、僕のせいだ……っ。コレット、すまない……」
「謝らないでください」
コレットはセルシュの頭を撫でる。
「未来のまだ決まってもない暗い話をするより、今楽しい話をしましょう? うふふ、お腹の中にいるのにもう魔力が強いなら、きっと凄い魔法使いになるでしょうね。そうだ、名前は女の子ならシャロン、男の子ならシャルルにしましょう?」
「……うん、そうだね」
妻が一番怖くて不安なのに、それなのに自分に気を遣っている。
それが申し訳なくて慌てて涙を拭い、必死に笑顔を取り繕った。
それから必死にどうにかする方法を探した。
そのせいでコレットと会う時間が減れば、彼女に抱きしめられた。
「お願い。せめて夜寝る時だけは、側にいてください。寂しくて、怖くて、上手く眠れないんです」
「うん」
抱きしめ返す。どこにも連れて行かせないようにと力強く。
そして出産当日を迎えた。真夜中だった。
こういう時、男は無力だ。部屋の前でうろうろし、妻の苦しみを代わってやることもできない。
……何時間経ったのか。
星が爆発したような産声が屋敷を轟かせた。
お互いの両親と一緒に部屋の扉を開ける。
「コレット、コレットは……!」
「…………」
彼女は眠っていた。ぐったりと身を沈めている。
「……若奥様は……」
「……い、嫌だ。僕を置いて行かないでくれ。コレット、起きてくれ、コレット……っ!!」
物言わぬ人形のように彼女はぴくりとも動かない。顔は青白く、瞼は固く閉じきっている。
「コレット……」
ずっと、セルシュは空虚な人生を過ごしていた。誰のこともどうでも良いから誰のことも蔑ろにしない。優しい人と呼ばれる所以はそれだった。
妻となる人にも、そんな風に関わっていくのだと思っていた。
けれど婚約が結ばれた日。自分のためにめかしこんだと言う彼女のはにかみに恋に落ちた。生まれて初めて誰かを可愛いと思った。
呆然と手を握りしめていると、肩を叩かれる。産婆が産声を上げる赤子を目の前に差し出した。
「……女の子です」
「そう、か。この子は、シャロンなのか」
顔を真っ赤にして泣くシャロンを見つめる。だが段々、産声は小さくなっていった。
「シャロン?」
顔がコレットのように青白くなっていく。
産婆や医者が慌てて手を尽くしたが、産声はか細く頼りなく。星のきらめきが零れていくように命の灯火が消えていく。
「やめてくれ……僕からもうなにも奪わないでくれ……」
祈りは届かない。
セルシュは、コレットとシャロンと共に朝を迎えることはできなかった。
それからセルシュは研究を始めた。
一つは魔術回路ができる前の胎児が魔力制御をできるようにする方法。
二つ目は時を巻き戻す方法。
屋敷に引きこもって、親しい人はその間にこの世を去った。
――研究を始めてから半世紀が経過した。
遂に完成したセルシュは、すぐに時を巻き戻す魔法を展開した。
光に包まれながら、白い長髪が巻き上がる。
目を閉じれば瞼の裏に浮かぶ景色は一つだけ。
膨らんだお腹に愛おしそうに目を細めるコレットの姿。
「ようやく……また君に会える……」
時が遡る。
それを思い出したのは、結婚式の最中だった。
◇
言われた言葉が上手く咀嚼できず目を瞬かせる。
私は一度死んでいて、セルシュ様が時を巻き戻した?
「ずっと黙って、君を不安にさせてすまなかった」
「いいえ……」
セルシュ様が胸ポケットから赤い石を取り出した。
「時が巻き戻って、僕は自分の記憶を頼りにしてシャロンを助けるための石を作ってたんだ」
「それは……」
「疑似魔術回路だよ。コレットが身に着けておけば、もうシャロンは大丈夫だと思う」
セルシュ様は力なく笑った。
「中々時間が作れなくて、こんなにも時間がかかってしまった。本当にすまない」
「……セルシュ様は、酷いです」
赤い石を両手で握りしめる。
「なんで秘密にするのですか? 私は、なんでも話して欲しかったです。もっと早くに。――貴方がとても、大切だから。思い詰める貴方を、もっと早く抱きしめてあげたかった」
腕を伸ばす。
セルシュ様の目が見開かれ、泣きたそうに歪んだ。
「ごめん、コレット」
温かな日が差し込む中。私たちの影が一つになった。
◇◇◇
「う、うあぁ……っ!」
「若奥様っ、そのまま力を入れてください!」
出産の日。扉の奥にセルシュ様と両親たちを残して私は今頑張っている。
痛みで何度も意識が遠ざかりそうになるが、その度に赤い石を握る力を強めた。
「あぁ――!」
「――出ました、若奥様! お生まれになられました!」
おぎゃあ、と赤子の声が耳を劈く。薄く開いた目を向ければ、産婆が赤子の体を軽く洗い、タオルで包んだ。
私の隣にそっと置かれる。汗と涙が無数に落ちていった。
「可愛い女の子ですよ」
「私の、赤ちゃん……。シャロン……」
顔を真っ赤にして泣くシャロン。
扉が凄い勢いで開かれ、セルシュ様たちが入室した。許可が下りたのだろう。
皆一様に顔を期待と不安で強張らせていて、へにゃりと笑って見せれば安心したように顔が綻んだ。
お父様とお母様が私の頭を撫でる。
「お疲れ様、コレット」
「よく頑張ったな」
お義母様とお義父様も涙を浮かべながら、労るように私の額の汗をハンカチで拭ってくれた。
「――コレット」
セルシュ様が背をかがめた。
「お疲れ様。ありがとう、生きていてくれてありがとう……」
次にシャロンをそっと抱きかかえた。
「生まれてきてくれて、ありがとう……っ」
ふと思った。
それは、本来もっと前に言うはずだった言葉だったのだろう。もう存在しない何十年も前に。
そして、シャロンに笑いかけるセルシュ様を見ることが、私がしたかったことだったのだろう。
私たちは夜を越えた。朝が来た。
ここからは、新しく紡がれていく未来。
意識が朦朧としていく中で、私は二人に微笑んだ。
「セルシュ様、シャロン。大好き……っ」
貞淑な夫なんてどこにもいなかった。
いたのは、少し不器用で、けどとっても愛情深くて私とシャロンを誰よりも愛してくれる人だった。
セルシュ様は涙でぐしゃぐしゃの顔を必死に拭い、この世で一番優しく笑った。
「知ってるよ」
ここまでお付き合いいただきありがとうございます
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