90話 中田ハザード
案の定、車の中での会話は無かった。
彼は移動中私を見ようともしなかった。
フワッと胃が浮くような感覚。
どこかに堕ちていくようなそんな不安が私を包む
まだ大丈夫。
チャンスはある。
帰り……また話しかけよう
謝って仲直りできるかもしれないじゃないか。
この期に及んでまだ期待している自分がいた
諦めきれなくて
普段なら何にも執着しないのに。
落とした財布も
スマホも
まーいっか! そう思えるほどだったのに。
普通の人より執着なんて無かったのに。
もう少しだけ足掻こう。
諦めがつくまで。
やるだけやって、それでもダメならきっと前を向ける。
そう思い直して澪桜は挨拶をする
「いつも本当にありがとう。───それじゃあ」
深々と頭を下げた後、車を降りようとした
結城は焦って声をかける
「あのっ……帰りも迎えに来ますから、待っててくださいね! 行ってらっしゃい」
優しく包み込むような声
また期待してしまう。
まだ間に合う気がして。
振り返って澪桜は悲しそうに微笑んだ
君の優しさが辛いよ。苦しい。
そう言うように
「結城さんも、頑張って。……行ってらっしゃい」
結城が止まる
不安そうな顔をした
でも多分気のせいだろう。
私は人の感情が分からない。
大体ハズレるから。
それ以上振り返る事なくエントランスに入って行った。
***
(……なんだ? ……今のは……)
結城は不安に駆られていた
図らずも澪桜の読み通りに。
自分の選択は間違えていないはず。
俺は君をちゃんと守れているはず。
チラッと目線に入る先程渡されたお弁当。
変わらない君の優しさ。
だけどどこか……違った。
さっきの安達さんの表情が霞む
やはり土曜のあれはまずかったのか。
あの後連絡するべきだった?
それともさっき……会話しなかったのが不自然だった?
でも普段から会話が無いこともあるよな。
それに今は何を話したらいいのか分からない。
仕事の都合でしばらく送り迎えしか出来ないって伝えるべきか? いや、このタイミングだと返って不自然じゃないか?
結城は自問自答を繰り返す
もう澪桜のいないユリシスのエントランス前で
本当は……
距離を置くなら送り迎えだってしたら駄目なんだろう。
それくらい頭では分かってる。
でも我慢出来なかった。
送り迎えすら出来ないなんて、俺が耐えられないから。
これは俺に唯一許される免罪符。
安達さん、ごめん。
でも毎日君の顔を見ないと不安なんだよ
君を失いそうで怖いんだ。
だからこれだけは許して。
ハンドルに頭をもたれかけて目を閉じた
***
「澪桜せんぱぁい! これどうやって入力するべきですかぁ?」
甘えた声で松井が近寄って来る。
「ああ、これね。この日付と数字は無視していいよ。ここを入力しないといけないね。この場合」
的確に指示をした。
「ああ、なるほど! わかり易っ」
ニコニコしながら松井は言った。
それを見て安心する。
大丈夫、普通にやれてる。
またパソコンに目を戻した。
視線を感じチラッと目線を上げる。
するとパソコン越しに佐野と目が合った。
だが直ぐに視線を逸らされる。
最近よくある事なのだが……悩みでもあるのだろうか。
(なんだ?……またミスかなぁ)
そう思いながら左側のデスクを見る……。
いつもは騒がしいのにやけに今日は静かで、違和感があるし、あの鼻につく匂いもない。
今更気付いたのだが、今日はなぜか中田がいなかった。
すると感のいい松井がコソコソと話しかける。
「気付きました? 中田さん……ぶふっ」
意味深に笑う。
澪桜は手元を動かしながら松井に聞いた。
「? ……中田さん、感染症か何か?」
肩を揺らしながら口に手を当て松井は首を振る。
「違うんですよ、それがね……あの人歓迎会の時、新人の田中くんに……噛み付いたらしいんですよ」
「かっ……噛み付いた!?」
咄嗟に手で口を覆い、澪桜は小声で聞き返した。
なおも笑い続ける松井。
「ぶふふ……そうなんですよー。最初は、田中くんの飲み物勝手に飲んだり、自分の食べかけの唐揚げ食べさせようとしたり程度だったんですが……」
「いやいやいやいや! 十分様子がおかしい! その時点でコンプラ違反がすぎるだろう!? まわりは止めなかったのかい!?」
「田中くんが笑ってたから大丈夫と判断したらしいですよ?」
「鬼か! まわりは!!」
「しかも課長の席の付近だったらしくてですね」
「……ああ、歩くセクハラの」
課長のあだ名。
「多分田中くん、一生懸命空気読んだんでしょうね。課長の機嫌は損ねられない。お局様の機嫌も損ねられない……地獄ですね」
「で? その後の噛み付き? 指とかかい?」
「ちーがーいーますよー! そんな甘いとこじゃありません。しかも、『あっちの方も田中くんとは相性よさそう♥』とか言ってたらしいですよ」
ぶっと吹き出した。
慌ててまわりを見る。
大丈夫、うるさくはなかったらしい。
もう一度、パソコンに向き直り、澪桜は冷静に仕事へと戻る。だが余りの出来事に言葉は止まらなかった。
「すごいな……中田さん」
色んな意味で。
「それで本題。どこに噛み付いたかといいますと……嫌がる田中くんのワイシャツを捲り上げて、腹筋すごいとかいいながら……お腹に噛み付たそうですよ」
「腹ぁぁぁぁ」
衝撃の内容。
田中くんが不憫でならない。
首を振りながら
思わずエンターに力が入った。
そして間違えて無駄な字を入力したので消した。
仕事中にこんな話、不謹慎だし良くないのは分かってるけど気になる。
まだまだ話し足りない松井はプリントアウトしながら続けた。
「しかもね、……その後二の腕にも噛み付いたらしいです。シャツの上から。だから真っ白なワイシャツが口紅べったりだったらしいですよ。最悪ぅ」
「最悪なのはまわりもだよ。なんで助けないんだ。山本さんどうしてたんだよ」
「……私たちと結城さんと話してたじゃないですか」
ドキッとした
彼の名前が出ただけで思わず肩が反応してしまう。
「……っ……そうだったのか」
その動揺に気付かなかった松井はファイルに纏めながらケタケタと続けた。
「その後しつこくラブホに誘われてたらしくて、流石に辛くなった田中くんが、先日篠山部長に相談したらしいです。あの人仕事もしてなかったし、因果応報ですよね。そしたら立て続けに他社からのクレームもあったみたいで。……なんか大手かららしいですよ?
それが決め手で、謹慎処分。多分懲戒免職は免れないだろうってはなしですよ。しかも田中くんにもセクハラで訴えられるかもしれないそうですし。怖っ」
「……他社? ……大手企業?」
ふーんと思いながら中田さんの友達だった人たちを見た。
皆気にも止めてないようだった。
あんなに毎日一緒に居たのに。
友達とは一体何なんだろう。
にしても……
「……人を噛みたくなるって、よく映画やゲームで見るフラグだよね……痒……美味ぁ」
澪桜は心からそう言った。
物凄い変な顔をして。
「っっ! やめて! その変な顔やめてくださいっ」
松井が声を殺して爆笑した。
澪桜は彼女の様子にほっとする。
大丈夫、結城さんともまた前みたいにこうやって話せるさ。
そう信じて今日も残りの業務に集中した。




