89話 高嶺の花
土曜日は、結城さんとあんな別れ方をしてしまって
後悔と不安で胸が押しつぶされそうだった。
その後どう過ごしたのか全く思い出せない。
ただ、泣き疲れて気付いたら日曜日になっていた。
日曜日も一日中…何もする気が起きず
洗濯も
掃除も
何も出来なかった。
食事すら喉を通らない。
結城さんの言葉が、顔がぐるぐると頭を巡り続けて
その度に泣いた
スマホの画面は真っ黒なままベッドに置いてあった。
通知が来ても来なくてもあの2文字のバナーじゃないかと確認しては期待と落胆を繰り返す自分が情けなくて
電源を落とした。
シンと静まり返った部屋で
見慣れているはずのたった一人の部屋で
また涙を流す
子供の頃以来だった。
こんなに泣いたのは
生まれて初めてだった。
こんなに後悔したのは。
貴方の事は、大切な人だとは思ってた。
だけど気付くのが遅すぎた
これが恋だって
これが愛だって。
もっと早ければ
深入りする前に
ここまで好きになる前に
離れられたのに。
思い出なんか要らない。
声なんか思い出したくない。
君の優しさや笑顔なんか忘れてしまいたい
だって、一人で生きて行けなくなるじゃないか
何も知らなかった
出会う前の
あの頃に戻れたら。
……せめて絵を描く前に戻れたら。
あのままずっと君と友達でいられたのかな。
……もしかしたら本当に用事で、急いで帰っただけって可能性も───
フッと嗤う
自分がどこまでも情けなくて憐れで滑稽に思えた
……まだ未練が消えない。
どうやら私はよっぽど君を失いたくないらしい。
鏡を見た
酷い顔だ。
今日はハーフアップでメイクを濃いめにしよう。
山本さんや沙也加ちゃんは目敏い。
言動にも注意しよう。
大丈夫
大丈夫
そう、自分に言い聞かせた。
全ての準備を終わらせ
ため息をつきながら
結城が来た時にいつも座らせていた座椅子に腰をかけた
元々は……澪桜の澪桜だけの座椅子。
人なんか家に入れたことがないから
入れるつもりもなかったから
一脚しかない……ふわふわのお気に入りのグレーの座椅子。
指で……触れる
結城の香りが微かに残っていた
また泣きそうになる。
いずれ消えてしまう優しくて大好きなこの残り香
この香りだけでも閉じ込めることができたなら……
滲み始める視界
どうして……
何でこんなことになったんだろう。
私はなぜ……人を傷付けるんだろう。
涙を我慢して上を向いた
メイクが崩れてしまわないように。
時計を見た……
出勤1時間前
本来なら結城が迎えに来てる時間。
ポコン
スマホが鳴る
『すみません、渋滞で少し遅れます。あと15分ほどで到着します』
それを見て……フッと笑った
私の家までの道のりは下り、朝は渋滞なと皆無だ
「嘘……ばっかり。結城さんは嘘が本当に下手だね」
悲しくなった
私から少しずつ離れていく気なのだろう。
気付かれないようそっと。
それがきっと彼の最後の優しさなのだろう。
それで私が地獄を見る事を知らずに。
加害者の私は、甘んじて気付かないふりのまま受け入れるべきなんだろうか。
わかってる、わかってるけど……辛い
お願いだよ、結城さん。
切るなら早く縁を切ってよ。
軽蔑の眼差しで冷たく罵って私がダメだった理由を教えてよ。
そしてしっかりと
「君には失望した。もう、友達は終わりにしよう」
そう言ってよ。
そしたら私は自分のしたことを理解して、反省して、後悔して……
貴方を想いながら生きていけるのに。
どうして、優しくするの。
どうして、迎えに来るの。
どうして……はっきり言ってくれないの。
君の優しさが
微笑みが
なにもかもが好きだった
君は残酷だね。
皆が君を好きになる理由が今やっと分かったよ。
君はきっと、決して手にしてはいけない
手に入らない高嶺の花。
手にしようとするだけで命を落とす幻の存在。
君に選ばれたものだけが近づくことを許させる、そんな花。
私は君の咲く場所の麓にすら行けない凡人
だからだね。
親友すら許されないのは。
君に恋をしたせいで、こんなに辛いのは。
私はこれからどうやって生きていくんだろう。
今までどうやって生きてきていたのか分からなくなったんだ。
そうだ、山本さんを恨もう。
なんで結城さんなんか紹介したんだって。
いつか笑って話せるようになったら
悪態をついてやろう。
沙也加ちゃんとまた3人で一緒に飲みに行こう。
何度も結城との別れと、もしかしたら気のせいかもという思考をループし続ける澪桜
もう一度時計を見る
15分になった。
泣かないように
ゆっくり深呼吸し、
ドアを開けた。
いつもの公園、いつもの場所にハザードを炊いて外で待つ男性がいた。
柔らかそうな少し癖毛の髪
優しい風に吹かれてふわっと揺れる
あの……優しい香りがした。
「おはようございます。遅れてすみません……安達さん」
少し眉を下げて申し訳なさそうに
微笑んでくれた。
朝の光に照らされた君は儚くて眩しい
決して手には入らない
世界で一番美しい花。
……君は本当に綺麗だね。
知らなければ良かった
恋なんて
そうしたら近付く事すらなかったのに。
詰まる喉をこじ開け
小さな声で応えた
「とんでもないよ。……いつもわざわざ迎えに来てくれて本当にありがとう」
当たり前のようなエスコート
変わらぬ仕草
変わったのはこの関係と
彼の語尾
そして私の心
言おうとしたけど、君と目が合った瞬間躊躇した
───もう、迎えに来なくていいよ。結城さん、今までありがとう、さようなら───
無様な私はこの期に及んで期待する
君のその優しい微笑みに包まれて
あわよくば仲直りできるんじゃないかって
離れていこうとしてるなんて
気のせいなんじゃないかって
必死にしがみつこうとしているよ。
バカみたいだ、そう思うのに。
震える手で
お弁当を渡す
昨日の夜愛をたくさん込めて作った
彼の好きなおかずだけを詰めたお弁当。
結城は優しく微笑む
「いつも本当にありがとうございます。美味しく頂きますね」
甘く低い声が
辛い。
それなのに私は今、君にときめいてる。
お礼を言われただけで喜んでしまう。
───なんて惨めなんだろう、なんて愚かなんだろう。
「……昼はしっかり食べた方がいいからね。ついでだよ」
俯いたまま彼の顔を見ないで独り言のように呟いた




