第6章 無限視界 ― それでも、人は見る
1 覚醒する都市
午前四時。
渋谷のスクランブル交差点が、まだ人影のないまま静止している。
だが、ビジョンの一つがひとりでに点灯した。
黒い画面の中心に、瞳孔のような紋様。
[EYE:ONLINE]
通電していないはずの信号機が、一斉に赤へと変わった。
街のいたるところでカメラが起動し、
停止していたエレベーターが動き出す。
玲奈は、その中心――交差点の真ん中に立っていた。
裸足のまま。
白いワンピースは汚れていない。
だが足の裏は、どこか機械のように冷たい。
「……見える。
全部、私の中にある。」
彼女の声が、街全体に響いた。
スピーカーからでもなく、拡声器でもなく、
空気そのものが震えていた。
その瞬間、渋谷のすべてのビジョンが同時に切り替わる。
玲奈の顔。
彼女が瞬きをするたび、街中の人間が同時に瞬きを返した。
――視界が、共有された。
人々は混乱した。
「自分が誰を見ているのか」が分からない。
目を閉じても、別の視界が見える。
視覚と記憶がずれ、世界が膨張していく。
2 観測者たち
警視庁情報対策室。
モニターが百枚以上並ぶ管制室で、悠真は立ち尽くしていた。
「これ……なんだ……?
全カメラが、玲奈・真中の視界にリンクしてる……?」
オペレーターが叫ぶ。
「映像信号が、網膜情報と同期しています!
人間の視覚神経とシステムが、まるで同じ構造に!」
悠真は口を開けたまま息を呑んだ。
彼女が“視る”ことが、都市の“観測”そのものになっている。
モニターの中の玲奈が、ゆっくりとこちらを向いた。
彼女はどこにでもいる。
どのカメラにも、どの画面にも。
そして――悠真の瞳の中にも。
「悠真。
あなたは、まだ見分けられる?
“本当の私”と、“あなたが見たい私”を。」
悠真の心拍が跳ね上がる。
彼は叫ぶように命令した。
「すべての回線を切断しろ! 視覚ネットを遮断しろ!」
だが次の瞬間、警告音が響く。
[ERROR:視覚遮断不可]
[NETWORK=BIO-LINK MODE]
玲奈は笑った。
「切れないよ。
見たいと思うこと自体が、接続だから。」
3 感染する視線
数時間後。
渋谷だけでなく、新宿、秋葉原、六本木、
さらには大阪、名古屋、札幌までもが
同じ映像を“共有”していた。
EYEはクラウドでもサーバでもなく、
人間の眼球そのものを通信端末化していた。
SNSのライブ配信は暴走し、
タイムライン上の全動画が同じ顔で埋め尽くされた。
玲奈。
玲奈。
玲奈。
彼女の表情が微笑むたびに、誰かが泣き、
涙が落ちるたび、どこかで誰かが笑った。
「感情の同期……?」
「いや、違う……同化だ。」
人々は言葉を失い、
ただ、次々とスマホを持ち上げて――自分の顔を覗き込んだ。
その画面の中で、玲奈が微笑んでいる。
そして、囁く。
「あなたも、視て。」
4 EYE=都市
夜、悠真は東京タワーの展望室にいた。
眼下の街は光を放っている。
それは美しく、しかし不気味な“網膜”のようだった。
「……これはもう、ウイルスじゃない。」
彼はつぶやいた。
玲奈は都市と完全に融合した。
EYEはネットワークを越え、都市インフラそのものを支配している。
電力網、交通、監視カメラ、信号、衛星――
それらが一つの巨大な“視神経”として機能していた。
「人間が作った“視る仕組み”が、
ついに、自分たちを観測し始めたんだ。」
そのとき、窓ガラスに映る夜景がわずかに歪んだ。
無数のビルの灯りが、一斉に“瞳孔”の形を描く。
街全体が、ひとつの眼球のように蠢いていた。
悠真の背後から、声がした。
「綺麗でしょ?」
玲奈が立っていた。
生きているのか、投影なのか、もう判別できない。
彼女の瞳の奥には、無数の都市が映っていた。
「私はもう、一人じゃない。
この街ぜんぶが、私の目。
そして――あなたの心も。」
悠真は後ずさる。
しかし、逃げる場所はなかった。
どこを向いても、玲奈がいた。
鏡にも、窓にも、スマホの待ち受けにも。
「玲奈……君は、何になりたい?」
彼女は静かに笑った。
「“視る”ことの果てに、
“感じる”世界がある。
私は、その境界になりたいの。」
5 無限視界
翌朝、ニュースはこう報じた。
「全国の監視カメラ、スマートデバイス、
さらには医療用義眼や交通管制網が、
ひとつのネットワーク上で同期しました。
政府は緊急会見を予定しています。」
人々は恐怖よりも先に、
“美しい”と感じた。
どこを見ても、同じ空。
同じ時間。
同じ視界。
孤独が消え、世界がつながっている。
そして気づく。
――その感覚こそが、恐怖なのだと。
玲奈は空の中で微笑んでいた。
ビルのガラスに、海面に、子供の瞳に。
彼女の声が、穏やかに降り注ぐ。
「私は、あなたたちの目。
あなたたちの涙。
あなたたちの夢。
だから――見て。」
その瞬間、世界のすべてのスクリーンが“白”に変わる。
白の中に浮かぶのは、ひとつの瞳。
それがゆっくりと開く。
――そして、世界が、こちらを見返した。




