真実の愛とひきかえに
旅立ちはせつなかった。
うら若き姫君リフィーナは、晴れやかに微笑む婚約者に次のような声をかけ送り出した。
「神のご加護と祝福が、あなた様にあらんことを。勇者クライド様、どうか、どうかご無事で」
――どうか無事に、わたしのもとへ帰ってきて。大好きなクライド。
最後の言葉は薄い胸にしまい込んで、リフィーナ姫は手を振った。
そして、姫の婚約者クライドは冒険へと旅立った。
勇者として。
魔王を打ち滅ぼし、世界を救うために。
***
岩の足場を踏みしめて、勇者は叫んだ。
「これで終わりだ、魔王よ! 次の一撃で、このクライドの聖剣が貴様を仕留める!」
ハッタリだった。
たしかにいま、勇者クライドは魔王を追い詰めてはいた。
ラストダンジョンと呼ばれる洞窟の最下層、深淵がアゴをポッカリと開けるこの断崖の端のはしまで。
あと一撃とはいくまいが、二撃、いやせめて三撃打ち込めれば敵の生命力を根絶やしにできる。
しかしそれは勇者クライドも同じであった。
つまり、肩口に雄々しく聖剣を構えその柄を両手で握り込む彼もまた、満身創痍であることに変わりはないのだ。
きつく歯をくいしばる口元からは、すでに多くの血が滴っている。
碧眼の視界はボヤけ、かすみはじめていた。
(クソッ、魔王がその気になれば、あと一撃で仕留められるのはむしろ俺の方だな……)
だがそれがなんだ……?
自分は勇者だ。
世界の命運を背負ってここまで来たんだ。
負けるわけにはいかない。
それにこの戦いが終われば、大好きな彼女が待ってくれているはず。
愛しいリフィーナ姫が。
『――恐れているな、勇者よ? あと三撃でこの魔王を討ち取れるというのに、お前にはその間に受ける我の一撃を耐える胆力がもはやない。世界を救えぬ……』
邪悪な魔王の言霊が、洞窟に響きわたった。
口を開いたのは、足を持たず巨大な黒炎のように身を揺らめかせる魔の王。
世界を恐怖と混乱に陥れようとする悪の化身。
その邪悪な三つ目が勇者クライドを試すように言った。
『どうだ、取り引きをせぬか? 真実の愛とひきかえに、この世界を救ってやろう』
「取り引き……だと……?」
『そうだ、勇者クライドよ。お前の真実の愛を差し出せ。真実の愛は我ら魔族には作れぬ。お前がそれを差し出すなら、我はそれを宝として抱きこの深淵に眠ろうぞ』
真実の愛とひきかえに、世界が滅亡から救われる。
それは究極の選択だ。
しかしけっきょくのところ、迷っている余裕などなかったのだ。
世界にも、勇者クライドにも。
***
魔王を眠らせ、勇者クライドは帰還した。
しかし彼は変わってしまった。
少なくとも、リフィーナ姫にとっては。
「――ごめんよ、ええと、君は誰だったかな」
そう言って優しく微笑む彼は、真実の愛を失っていた。
勇者クライドの記憶のどこにも、婚約者たるリフィーナ姫は存在しないようだった。
おまけに、あらたな関係を築こうにも彼の記憶はなぜか一日しか持たない。
そのことに誰より早く気付いたのは、もちろんリフィーナ姫自身だった。
「ありがとう、今日は楽しかったよ、リフィーナ姫。じゃあ、また明日ね」
嘘だ。
そんな明日はやって来ない。
夜が過ぎ朝になれば、彼はもう忘れてしまうのだから。
婚約者である自分のことも。
もちろん、かつて誓った真実の愛も。
さりとて、姫の婚約はそうたやすく解消されなかった。
周囲の者が事態を悟ってからも、リフィーナ姫は勇者クライドへの献身を止めなかったからだ。
長旅の傷を労わるのはむろんのこと、彼の記憶がもどるよう、できることはなんでもやった。
ゆかりの場所を一緒に歩いた。
彼が昔くれた手紙を、彼女が彼に捧げた詩を読み合った。
尽きることのない思い出を、もう一度パズルを組み上げるように語り続けた。
時には昼下がりの城のバルコニーで、時には宮廷庭園の傍のベンチに並び腰かけて。
そのどれもが、彼女にとっては真実の愛の証だった。
でも、もどれなかった。
もどらなかった。
彼の記憶も、失われた真実の愛も。
勇者クライドはいつも碧い目を細めてこちらに優しく微笑むだけだ。
初めて会った人みたいに。
はり裂けるような胸の内を、その苦しみをリフィーナ姫はどうやり過ごせばいいのか知らなかった。
そして苦しむ彼女のことを、勇者クライドもどう扱うべきかわからなかった。
だから二人は、ある者のもとを訪ねた。
城の外れの古めかしい教会。
そこに住まう老いた修道女、エリン婆様を。
エリン婆様は、修道女というよりは妖しげな魔法使いのような風貌の老女だ。
腰の曲がったよぼよぼの老体に、覆いかぶせるような厚手のローブをいつも纏っている。
もはや年齢すら誰も覚えぬほどの高齢。
生き字引の知恵者ではあっても、しわだらけの仏頂面をした彼女を慕うものはほとんどいない。
しかし、リフィーナ姫は彼女を好いていた。
何かの神事でこの教会の聖堂を初めて訪れたのはもうずっと幼い頃だったが、それ以来つらいことがあるとこっそりここへ来て泣くことがあった。
そんなリフィーナ姫に知恵ある言葉を授けてくれたのは、実はいつもこのエリン婆様だったのだ。
きっと今回も、しわがれ声でふさわしい助言をくれるに違いない。
そう思っていたのだが。
「お耐えなさい、姫よ。いまは試練の時なのですから。勇者殿も」
欲しい答えではなかった。
返ってきたその教えは、うら若き姫の苦悩を支えるには十分ではなかった。
真実の愛にさいなまれる二人を導き救うことはできなかった。
そう考えざるを得ない結末が、まもなくやって来た。
朝まだきの聖堂に身を横たえ、毒を飲んで心中した男女の遺体。
勇者クライドと、リフィーナ姫。
いまその亡骸に寄り添う静かな影は、果たして誰のものであったか。
その影が身を震わせて、真実の愛に生きた彼らを抱いた。
***
岩の足場に、老女の影が立った。
その気配に感づいて、さかしく邪悪な声が深淵の縁からあがる。
『――ほう、久しいな。老いた女の体で、わざわざこの魔王に会いに来てくれたらしい。あいかわらず美しいお前ではないか、のう?』
「ほざけ。わたしの美しさを奪って永く生きさらばえたこの外道が」
老女は冷たく言い放ち、フードを取り払ったしわだらけの顔で目を閉じている。
ラストダンジョンと呼ばれる洞窟の最下層、深淵がアゴをポッカリと開けるこの断崖の端のはしで。
片手に杖を、もう片方の手で印を結びながら老女が何事かを詠唱している。
その様を嘲笑おうと、地の底から魔王が姿を現した。
『クハハッ、いまさら何をしようというのだ。真実の愛を養分に、我はじきに復活するぞ。それにお前など、あの勇者クライドにも及ばん。なにしろお前には、真実の愛などなかったのだからな。その意味では、お前も我々魔族と同じではないか』
足を持たず巨大な黒炎のように身を揺らめかせる魔の王。
世界を恐怖と混乱に陥れようとする悪の化身。
その邪悪な三つ目。
耳障りな悪魔のささやきが、ギシャゲシャと洞窟にこだまする。
「いいから少し黙って待っていろ……」
『いや、黙らんよ。久方の再会をもっと味わおうではないか。いつだったかな? 愚かにもお前がその魔法で我に挑み、しかしあと一歩及ばず、世界を救うために情けなくも命乞いをしたのは、え?』
忘れるものか。
その屈辱はむろん、老女の内奥でずっとたぎり続けてきた。
もうずっと昔、聖なる魔法を究めたはずの自分はこの魔王に戦いを挑み、追い詰め、しかしあとわずか数発の魔法を放つ余力が足りず膝を折った。
皮肉にも、魔王はその時なんと言ったか。
――真実の愛とひきかえに、この世界を救ってやろう。
そうだ。
あの時わたしが真実の愛を持っていれば、もっと違う未来があった。
でもわたしは愛を知らなかった。
誰かを愛したことなどなかった。
ただ聖なる魔法の才能に恵まれていただけで。
『真実の愛のかわりにお前が差し出したのは、その絶世の美貌だったな? 美しさもまた、魔族には作り出せぬものだ。お前の美しさは実に美味であったぞ。お陰で我は養分を蓄え、復活のあかつきには勇者クライドとの戦いにも耐えることができた。クハハッ』
心から世界を救いたかったわけじゃない。
あの時わたしが自分の美しさを魔王に差し出したのは、きっとだた何も得られず引き下がれるだけの勇気がなかったからだ。
わたしは勇者ではなかった。
真実の愛も知らなかった。
ただ聖なる加護を受けて、美しく生まれついただけの獣だったから。
でも、もう終わりだ。
呪文の詠唱がもう完了する。
「――聖浄なる真の波動よ、邪を罰し、その輝きで滅し尽くせ。余は真実の愛を知る者……」
そうだ。
あの二人が、その生き様でわたしに、このエリン婆様に教えてくれた……。
勇者クライドと、うら若き姫君リフィーナ。
彼らのかけがえのない、真実の愛を……。
その愛が、聖女の真の目覚めに力を貸してくれる。
『なっ、お前、その姿、その魔法は、ま、まさか――!?』
燃えたつ純白の輝きの中で杖を構えるのは、若返りし絶世の美貌の乙女。
その閉ざしたまぶたを、先ほどまで老女だったはずの彼女はいまカッと見開く。
そして唱えた。
「喰らうがいい。――聖き光」
『お、おのれっ――。未来永劫忘れぬぞ、憎きお前の名は、――大聖女エリーゼ! グギャァァァッ――』
究極の聖き光が、魔王を焼き払った。
戦いは終わり。
だが魔王の復活を永久に防ぎたいなら、これだけでは足りぬことを大聖女エリーゼは知っていた。
あと三つだ。
あと三発の魔法を放てば、すべてが叶う。きっとうまくいく。
(……あと三つだけでいい。お願い、もってね、わたしの体)
一つ目の呪文を唱え、あの健気で純粋な娘に捧げる。
二つ目の呪文は、あの勇敢な青年に。
そして最後に自らを光の結界に変える呪文を唱え、大聖女エリーゼは深淵に身を投げた。
自分が堕ちていくのか昇っていくのか、彼女にはもうわからなかった。
それでも確信はある。
真実の愛とひきかえに、わたしはこの魂を捧げるのだ、と。
***
不思議な奇跡によって、リフィーナ姫は蘇った。
彼女の愛する勇者クライドも、真実の愛とともに息を吹き返した。
たがいの名を呼び、泣いて、それから二人はかたく抱きしめ合った。
愛する二人は結ばれた。
勇者クライドは王となり、妃リフィーナとともに国を永き安寧へと導いた。
その安らかな平穏の中で、やがて民は忘れていく。
魔王の存在も、魔法も。
まして伝説の大聖女がいたことなど、知る者はいないだろう。
そして城のバルコニーで。
愛する者と肩を寄せ合うリフィーナ姫の瞳には、ただその美しい景色が広がっている。
輝くほどの、真実の愛に満ちあふれた世界が。




