第三話:狩場と化す村
朝の光がかすかに残る村に、地響きのような足音が近づいていた。
はじめは遠く、雷鳴のように重く、やがてそれが村の路地を駆ける人々の悲鳴に混じっていく。
「な……何だ……あれは……!」
年老いた男の声が震え、杖を落とした。
次の瞬間、黒い影が家々の間を駆け抜ける。獣じみた咆哮が、朝の静けさを引き裂いた。
亜人たちだった。
その瞳は血に飢え、鉄の爪が陽を浴びて鈍く光った。
容赦のないその動きは、まさに獲物を狩る獣そのものだった。
叫びながら逃げる者に飛びかかり、無力な体を一撃で地に沈める。
倒れた者に興味を失えば、ただ次を追う。
目の前の命を、ただ奪うことだけを喜びとするかのように。
瓦礫が崩れ、木の扉が引き裂かれる。
家の奥から飛び出した若い母親が、幼子を胸に抱き、必死に走った。
だがその背後に影が迫る。
爪が空を裂き、風とともに血飛沫が舞った。
女の悲鳴が村を包む炎の音に消えた。
燃え上がる家々の間を、亜人たちは獣のように駆け、笑い、吠えた。
その手には刃も鎖もなく、鋭い爪と牙があるだけだった。
本来彼らには目的があった――「奴隷を捕らえろ」「生け捕りにしろ」と。
狩る快楽に理性はかき消され、亜人たちは衝動のまま、ただ命を奪う獣と化していた。
本来の目的も命令も、炎に包まれた村と共に消えた。
目の前の命も声も、ただ獲物だった。
「ギャアア……!」
叫びとも笑いともつかぬ咆哮が響く。
血飛沫が頬を濡らすたび、瞳の奥の光が狂気に染まっていく。
捕らえるよりも、裂き、貫き、散らすことの悦びが支配していた。
それは、理ではなく、衝動だった。
亜人たちは、狩りそのものに没頭していた。
本来の目的も、命令も、戦術も、炎に包まれた村と共に崩れ去っていた。
村の広場は、すでに修羅の場だった。
立ち尽くす子ども、泣き叫ぶ老婆、絶望に膝をつく男。
亜人の群れは、そうした者たちを次々と蹂躙し、そしてまた次の命を求めて進んだ。
その動きには、奇妙な統率も秩序もなかった。
ただ、衝動に突き動かされるまま、命を狩り、追い詰め、奪う。
けれどその爪の先、牙の奥に、本来の目的があったことに気づく者は、もう誰もいなかった。
ここは、もはや戦場ではない――死の狩猟場だった。
穏やかな農村だったこの地は、今や亜高軍の「狩場」と化していた。
家は亜人の爪に引っ掻かれ、壁は無惨にも崩れ落ちている。巨大な爪が柱を握り潰し、瓦礫の破片が空へと舞い上がった。亜人たちは狂気じみた笑みを浮かべ、押し寄せるたびに家屋は軋みながら粉砕されていく。木材のはじける音、悲鳴、そして断末魔が村を埋め尽くした。
通りでは、逃げ惑う村人たちが泣き叫び、ある者は刃物を手に必死に抗うも、亜人の猛攻には歯が立たない。小さな少女リーナも、その混乱の中で悲鳴を上げた。
「た、助けて……!」
しかしその声は次第に遠く薄れていく。リーナの姿はいつしか煙と瓦礫の影に紛れ、誰もその行方を知ることはなかった。赤いスカーフだけが泥の上に舞い落ち、泥濘の底に沈んでいく。
村のあちこちで亜人の狂気は止まらなかった。鋭い爪で木造の家屋を掻き壊し獣のように暴れまわる。
叫び声は無情にも呑み込まれていった。
村の外れ、木立の陰を裂いて甲冑の光が現れた。
黒煙に沈む村の様子を見やる騎士たちの目に、燃え上がる屋根と血に染まる広場が映る。
先頭の男が、わずかに息を呑んだ。
「……ここで、食い止める。全員、突撃準備。」
低く、だが確かに響く声だった。
レオン・グレイハルト――王国騎士団第三遊撃隊隊長、その男は手綱を引き締め、剣の柄に手をかける。
瞳には、一瞬の迷いもなかった。
その背は、王国の誇りと命を背負った剣士のそれだった。
「突撃!」
その声が雷鳴のように響いた瞬間、騎士たちが一斉に駆け出した。
レオンの声が響くたび、騎士たちの迷いは消えた。あの背に託された命があった。
村の裏手から、灰を巻き上げる蹄の音。
亜人たちが気づいたときには、すでに銀の剣が炎の中を切り裂いていた。
あまりに電撃的な奇襲は、亜人たちの指揮系統を瞬時に分断した。 亜人たちは統率を欠いたまま咆哮をあげ、ただ目の前の銀閃に食らいつこうとする。
だが、その混乱がすでに勝敗を決していた。
レオンの剣は、疾風のようだった。
亜人の爪を払い、首筋を裂き、血しぶきの中をさらに次へと踏み込む。
その一撃一撃に、村を蹂躙した命の奪いがたき重みがあった。
「一人も村の奥へは通すな!防衛線を築け!」
騎士たちが盾を前に出し、瓦礫の陰、家屋の影に生き残った村人を後方へ導く。
亜人の群れは次第に押し返され、その咆哮は焦りの色を帯びていった。
騎士団の中では、若き騎士エリオット・クレインが剣を握り直していた。彼の視線の先には、火の粉と灰が舞う中、揺るぎなく立つレオンの背中があった。それは、命を守る者の覚悟そのものだった。
その背に鼓舞されるように、エリオットは仲間に声をかける。
「盾を前に! 矢の射手は側面から包囲を狙え!」
甲冑同士がぶつかり合う音、剣が火花を散らす音、泥を蹴り上げる足音が交錯し、戦場は再び轟音に包まれた。
騎士たちは盾を預け合い、亜人の突撃を必死に支え、側面からの矢の雨が亜人の波を裂く。
剣と爪、盾と牙が交錯し、火花と断末魔が戦場を満たしていた。
騎士たちは盾を失いながらも連携し、命を削り合うように敵と渡り合った。
騎士たちの奮闘により、一時は押し返されかけていた亜人の群れ。
そんな激戦のさなか、戦場の中央から淀んだ空気を引き裂くように、ひときわ異様な気配が漂い始めた。
巨体の亜人指揮官が、唸り声を上げながらゆっくりと前進する。
その姿は戦場を一変させた。
背に二本の湾曲した刃を佩き、鋼鉄のような筋肉が煌めく彼は、まるで破壊の化身のようだった。
騎士たちはその異様な気配に一瞬動揺するが、すぐに彼を囲み斬りかかった。
だが、彼の一振りの刃が、幾人もの騎士を吹き飛ばす。
「ヴァァァッ!」
巨体の亜人指揮官の一閃が、盾を粉砕し騎士たちの陣を薙ぎ払う。
咆哮が轟き、絶望が戦場を覆った。その瞳の冷たい光が死を告げていた。
彼の牙城を崩す者は誰もいなかった。
荒れ狂う風の中で、亜人指揮官の咆哮が戦場を支配していた。
激闘の幕は下りることなく、戦いは続いていく。