第二話 剣と炎の狭間で
異様な臭いが鼻を突いた。
焦げた木の匂いとは明らかに異なる――血と獣のような臭気。
セイルがその臭いの意味を理解するより早く、隣を走るレイの表情が凍りついた。
「セイル、下がって!」
その絶叫が何を意味するのか、考える暇もなかった。
レイが叫ぶと同時に、背後の影が動いた。
セイルが振り向くよりも早く、長く伸びた腕と鋭い爪を備えた異形の姿が、瓦礫の隙間から彼の視界の端に飛び込んでくる。
亜人だ。
そう認識した瞬間、恐怖に膝が抜け、セイルは崩れるように倒れた。
背中から地面に倒れこみ、尖った破片が服を裂く。
振り上げられた鋭い爪が光り、死の冷たさが肌を撫でた。
見上げた空が、ゆっくりと亜人の影で覆われていく。
呼吸が止まった。
心臓が――動かなくなった気がした。
冷たい何かが喉元から這い上がってくる。
指先から血の気が引き、耳鳴りが響く。
(……来る……殺される……!)
――そのとき、胸の奥に遠い日の記憶がよみがえった。
朝の光に照らされた木造の家。
母が笑いながら小麦粉を手につけ、パン生地をこねていた。
窓の外では父が薪を割り、穏やかな歌声を口ずさんでいた。
あの温かな日々が、たしかにあった。
だからこそ――生きなければならないと、心の奥が叫んでいた。
喉が焼けつくように痛み、流れる涙さえ熱で乾いていく気がした。
脳が警鐘を鳴らすが、身体が動かない。
亜人が獰猛な笑みを浮かべ、鋭い爪を振りかざす――。
「セイル!!」
レイの叫びが、凍りついた時間に風穴を開けた。
その手がセイルの腕を掴み、引き寄せる。
間一髪、亜人の爪は空を裂き、セイルの頬をかすめ、熱い痛みが走った。
二人は地面を転がりながら、命の最後の灯を握りしめるように走り出す。
セイルの意識は過去へと揺らぎ、故郷の小さな村の風景が浮かぶ。
――朝の光が差し込み、木造の小屋が点在する集落は、まだ眠りから覚めたばかりだった。
舗装もされていない砂利道を鶏が歩き、遠くの山並みが朝日に染まっていた。
ここはエルナ――大都市からは遠く離れた、穏やかな農村だ。
雑貨屋「ノクス堂」は小さく、しかし村人たちの生活に欠かせない店だった。
そこで暮らす少年、セイル・ノクスは、目覚ましが鳴る前から布団に潜っていた。
「セイル、起きなさい」
母の声はやわらかいが、どこか切迫した響きがあった。
メルリス・ノクス――村の子どもたちに読み書きや計算を教える、村で唯一の先生として信頼される女性であり、セイルの母でもある。
「……もう少しだけ……」
「もうすぐ荷車が来るわ。市場へ配達に行く準備をしなさい」
「わかった……」
寝ぼけ眼で階段を降りると、テーブルには簡素なパンとスープが並んでいた。
それを口に運びながら、セイルは窓の外に目を向ける。
村のあちこちでは、いつも通りの光景が静かに始まっていた。
畑に出る老夫婦、家の前で水を汲む子どもたち。どこにでもある朝の光景。
だが、その穏やかさの裏には、じわじわと迫りくる現実の影があった。
村の掲示板には、補給部隊や徴集の張り紙が増えつつあり、人々の顔にも曇りが見えるようになっていた。
「父さんは?」
「早朝に町まで行ったわ。戦況が悪化してるから、道具の確保が急務なの」
「父さんがいないと、店も大変だな」
父、ドルヴァン・ノクスは戦場を渡り歩いた元冒険者だ。
外から近所の少女、リーナ・フェンリスがやってきた。
「寝坊してると思った。さあ、この荷物を山の道まで運んで。」
ふたりは笑いながらも、村を覆う不穏な空気を感じていた。
山の向こうの戦線は日増しに近づいている。
兵士たちの足音、遠くの爆発音。
村にいる者たちもその影響を避けられなかった。
村のはずれには、いつも一人でいる少年がいた。
レイだ。
セイルも、彼とはほとんど話したことがなかった。
いつも少し汚れた古びた服を着て、誰とも遊ばず、村のはずれの小川に座って、ただじっと水面を見つめている。
その瞳には、時折、年齢に似合わない深い影のようなものが浮かんでいるようにセイルには見えた。
なぜ彼がいつも一人なのか、セイルは知らなかった。ただ、声をかけにくい、近寄りがたい雰囲気が彼にはあった。
運命は残酷であった。
セイルにとって、彼は村にいる大勢の中の一人に過ぎなかったのだから。
「グァアアアアア……ッ!!」
亜人の断末魔が、耳を裂いた。
まるで獣が金属に押し潰されるような、骨が砕け、肺から空気が漏れるような、尋常ではない音。
セイルの意識は現実に引き戻される。
その記憶が、鋭く引き裂かれる。
セイルは、はっと目を見開いた。
意識の余韻が、現実の痛みで断ち切られた。
張り詰めた空気。焦げた空気。血の匂い。心音が爆音のように鳴り響く。
その瞬間、轟くような金属音が耳を裂いた。
風が裂け、光が閃く。
銀の甲冑に包まれた光が、亜人の一撃を剣で受け止めていた。
剣の軌跡は無駄がなく、まるで一条の風のように鋭く静かだった。
「逃げろ!ここは俺が食い止める!!」
低く、澄んだ声が響いた。
剣が火花を散らし、亜人の爪をはじく。
次の瞬間、銀の剣が閃き、亜人の巨体を地に沈めた。
少年たちは動けなかった。
炎と灰の中で、ただ騎士の背を見つめていた。
それは、恐怖さえ忘れさせる鮮烈な光景だった。
「……ここから先へは、誰ひとり通さない」
騎士はそう呟き、盾を高く構えた。
その背中は、ひとつの決意と、風の剣の美しさを語っていた。
「セイル……!」
レイの声に、ようやく足が動いた。
「ここだ!こっちへ!」
別の騎士が、瓦礫の陰から声を上げる。
防衛線を張る屋敷跡に向け、盾兵が道を切り開いていた。
レイの瞳には、かつて感じたことのない鋭い光が宿っている。
虐げられた過去の影が、その意志の強さと交錯し、今の彼を形作っていた。
一方のセイルは、汗と埃にまみれた顔を上げる。
恐怖に震えながらも、彼の心には消せない希望の光がともっていた。
二人は必死に駆け出した。
振り返った、その一瞬。
目に焼き付いたのは、炎に包まれた村を背に、なお凛として立つ、一人の騎士の姿。
それは、二人の心に深く刻まれる光景だった。
己の無力さを突きつけられた痛みと、いつかあの背に追いつきたいと願う渇望。
それは、二人の心に深く、そして同じように刻まれた、始まりの光景だった。
二人の気泡は暗闇で鮮やかに輝き、命への渇望と生きる意志を宿していた。その光とあの背中は、彼らの記憶に刻まれ続けた。