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泡影の彼方  作者:
第一章:泡影の序曲
1/5

第一話:崩れる街、泡の向こうに

――人には、無数の可能性が存在する。

ある者は剣を取り、誰かのために戦い。

ある者は土を耕し、家族のために働く。

またある者はただ、平穏を守ることを望む。

生まれも道も違っても、人は自らの意志で一歩を踏み出す。

その一歩一歩には“目的”が宿り、やがて世界のどこかに一つの“気泡”となって現れる。

気泡――それは人の夢、希望、願い、生き方そのもの。

誰にも見えず、触れられないけれど、確かに存在する。

静かに空へと昇り続け、あるものは輝きを増し、またあるものは儚く消えていく。

夢の始まりから終わりまで、一つの気泡として浮かぶのだ。

気泡は基本的に互いに干渉しない。

だが例外もある。

強い憎悪、悲哀、絶望、あるいは歪んだ執念が宿ると、気泡は濁り、歪み、他の気泡へ影響を与え始める。

その歪みが世界に伝播するとき、人と人、国と国、夢と夢が衝突し、物語は大きく軋む。

それが戦争であり、殺意であり、裏切りであり、悲劇である。

そして今、一つの気泡が静かに破裂した。

それは、一人の青年の物語の終わりだった。

しかし、気泡はそれで終わらない。

数多の気泡が潰えゆく中、ひときわ強く、まばゆい輝きを放つ二つの気泡がある。

これは、無数の運命が交錯し、紡がれていく――二人の者の物語である。


朝の穏やかな光が、まだ平穏な村を包み込んでいた日から、どれほどの時間が流れただろうか。

焼け焦げた村の中を、セイルは必死に駆けていた。

朝の穏やかさはとうに消え失せ、空は黒煙と灰で覆われ、風は冷たく乾いていた。

崩れた民家の残骸が道を塞ぎ、瓦礫の山が無秩序に積み重なっていた。

その狭間を、泥と煤にまみれた少年が必死に身をかがめ、喘ぎながら進んだ。

淡い茶色の髪は灰に汚れ、幼さの残る顔がただ前を見据えていた。

ほころびだらけの服が煤け、傷ついた膝からは泥と血が滲んでいた。

まだ少年の心は、生き延びることへの渇望に突き動かされていた――失われた平穏の影を背負いながら。

瓦礫が音を立てて崩れ、熱を孕んだ風が頬を焼く。

空気は乾ききり、息をするたびに喉の奥が焦げた。

硝煙の匂い、焦げた木材の香り、そして血の混ざった生臭い匂いが鼻を刺す。

体の芯まで冷えた恐怖が突き刺さり、足の痛みも息苦しさも、すべてが遠く霞んでいった。

「助けて……」

自分の声が、あまりに弱く頼りなく響いた瞬間、胸の奥に母の声が微かに蘇った。

『お願いセイル、私の分まであなたは生きて。』

喉奥の震えが消え、足がわずかに前へ出た。

背後では金属のぶつかり合う音、混乱の中で聞こえる人の叫びは悲鳴へ、やがて断末魔へと変わっていった。

遠くからは獣のような咆哮が轟く。

武装した亜人の集団がこの村を襲ったのだ。

見慣れた建物は炎に包まれ、親しいはずの人々の声は破壊と死の音に変わった。

火の手は瓦礫の裏にまで迫り、熱気が皮膚を焦がすようだった。

「止まるな……立て……!」

胸の奥から聞こえる、か細くも強い声に導かれ、足の感覚を必死に呼び覚ますようにセイルはひたすら走り続けた。

瓦礫の中を這い、足を引きずりながらも、一歩ずつ。

痛みが、息苦しさが、何度も彼を地面に這いつくばらせようとするが、彼の心はもう「生きたい」という渇望だけに支配されていた。

涙と汗と血が混じり合い、顔の感覚は朦朧としていた。

目の前の景色が揺らぎ、世界が歪んで見えた。

息が詰まり、世界の音が遠のいた。

だが、薄れゆく意識の底で、一つの想いだけが熱く燃えていた。

――まだ、生きていたい。

そのとき、崩れた壁の影からもう一人の少年が現れた。

煤にまみれた痩せ干せた体が、小刻みに震え、肩で息をしていた。

肩にかかる暗い灰色の髪は乱れ、額に張り付き、汗と灰で濡れていた。

骨ばった頬に泥がこびりつき、瞳は鋭く光りながらも、荒い息遣いとともに胸が激しく上下していた。

「……レイ…?」

セイルが絞り出した声は、問いかけとも、ただ名前を呼んだだけともつかない、か細いものだった。

その少年、レイは、驚いたように目を見開き、セイルの姿を認めると、わずかに表情を緩めた。この地獄の中で、初めて見る「知った顔」だったからだ。

「……セイル……生きて…いたのか…」

レイは肩で息をし、声を絞り出すように応えた。

その瞳の奥には恐怖と必死の抵抗、そして、微かに――共に抗う決意の色が宿っていた。

その姿を捉えた瞬間、セイルの脳を焼くような衝撃が走った。遠のきかけていた意識が、強引に引き戻される。一人じゃなかった。

胸の奥底から、最後の力が湧き上がってくるのを感じた。ここで倒れるわけにはいかない。

セイルは声を張り上げた。

「……レイ、走るぞ!」

「待て!」

レイが鋭く制した。

「こっちじゃない、あっちだ!あそこはもう持たない!」

彼の指差す先では、火の手が勢いを増していた。

「分かった! とにかく、生き延びられる場所を探すんだ!」

セイルの声はかすれていたが、瞳は必死だった。

「分かった!」

レイは短く答え、セイルの手を強く握った。

二人は崩れた柱の間をくぐり、倒れた壁を乗り越え、ただ生きるために走った。

熱風が吹き抜け、遠くで剣戟の音と断末魔の咆哮が響いた。

二人は焼けた村の闇を駆け抜けた。生き延びるために。

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