依頼:煙の王国①
部屋全体にココアの甘い香りが広がり
胃に流される黒濁の液体が私の体を温めてくれる。
「さて……と」
私は古めかしい机に置かれた一冊の本に視線を向ける。
重厚な羊皮で装丁されたそれの題名は
『煙の王国』
この物語は童話風に描かれており
上下巻で構成される予定だったようだ。
煙をモチーフに自分だけの王国を作るという話で
主人公の少年が王国を完成させたものの
迫りくる脅威に対して立ち向かわなければいけない……
というくだりで上巻は終わっている。
気になる展開なのだが
下巻は世に出ることはなかった。
それは作者が認知症を患ってしまったからだ。
消えゆく記憶。
散り行く思い出。
作者の老人はもはや会話すらままならないが
ただひとつ
願いがあった。
「―――未完の物語に終止符を、か」
彼の物語を続けてほしいという依頼だった。
依頼自体は彼の娘からのものであり
参考資料として簡単なプロットを渡された。
プロットといっても
メモ用紙に書かれた落書きのようなものであり
いくつかのキーワードらしきものが乱雑に書かれているだけだった。
「破滅……に、崩壊……?ずいぶんとネガティブだな」
「ん……?」
メモ用紙の裏に書かれていた、ひときわ大きな言葉があった。
「旅……か?」
それとなく自分の中でその意味を解釈する。
もちろん、作者が真に構想していた事とは別かもしれない。
しかしながら完成に至る道は常に一つとは限らない。
「まずは一歩を……いや一筆か。入れなければ始まらないだろう」
「―――ふう」
息を整える。
そして、重厚な木箱から深紅の筆を取り出し
無地の紙へと向ける。
万奏の筆。
これが描き出すのは世界であり、真理である。
そしてその書き手は―――
自らが舞台に上がらねばならないのである。
#『煙の王国』―――ラウル・バスキンス著
...
......
.........
光すら吸い込む漆黒のトンネルを抜けると
眼前に広がるのは草花の海であった。
「ここが煙の王国か……?」
初っ端から面食らってしまった私は困惑した。
てっきり煙というものだから、不定形な世界を想像していたのだが
解釈違いがあったようだ。
「本に記載されていた内容では雲の如き家々や立派な城があるとあったが……」
「もしや見逃しがあったのか……」
「お嬢さん、こんなところで何をしてるんだい?」
不意に人の声が聞こえ、私の心臓は飛び跳ねるかと思った。
声の主に視線を向けると農夫らしき若者がこちらを見ている。
「お嬢さん……?」
「そう、あんただよ。こんなところにいたら危ねえぞ」
私は自分の姿を確かめるように視線を下に向けると
白いワンピースを着ていることに気づく。
靴は赤いストラップシューズを履いているではないか。
「……そうくるか……」
万奏の筆によって物語に出演することの代償の一つ。
姿かたちは選べない事だ。
さすがに無機生命体になることはないと思うが
性別や年齢、はては種族まで全く異なるのだから難儀なことだ。
「え、えーっと……危ないというのはどうしてかしら?」
「ほれ、見てみい」
農夫は天を指さして見せた。
私もその方向を見上げると、大きな雲の塊が空を覆い尽くそうとしていた。
「煙の王国だ。きやがった」
農夫の声は憎しみに満ちていた―――
洞天の空は裂け、あらゆる場所から邪崇が這い出してきていた。
陰と陽の天秤はもはや均衡を保てていない。
「玄冥真君。今生はもはや過日となる。放棄すべきです」
金童の提案は下界の人々を見放すべきであると結論づけていた。
だが玄冥真君は一言「堅守せよ」とだけ発したのである。
―――未完の物語『墨染仙塵』より




