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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第一部:知代編
8/70

八話

「……は、い……?」


 小さくかすれた声が、彼女の唇から漏れた。戸惑いと困惑が、そのまま顔ににじみ出る。


「突然のことで、困惑されるのも当然です」


 孝太郎は、あくまでも冷静に、丁寧に続けた。


「私には事情があります。伯父である島田中佐や、職場の上官から結婚を強く迫られています。独身のままでは官吏としての信用に関わる、そう言われているのです」


 知代は何も言わず、ただ視線を落としたまま、静かに話を聞いていた。

 孝太郎の言葉は、冷たくもなく、だが温かみがあるわけでもなかった。まるで公文書の一節のように理路整然としていた。


「先ほど、美世子さんから、あなたがかつて師範学校を志望していたと伺いました」


「……昔の話ですが」


 知代はかすかに頷いた。


「私の家は本郷にあります。都内の師範学校へ通うには、便利な立地です。女中もおりますので、家事は任せられます。生活に不自由のない程度の収入もありますし、学費についても、心配は要りません」


 知代の胸に、冷たい現実がひたりと染み込んでくる。


(——つまりこれは、体裁のための結婚で、交換条件なのだ)


 美世子との縁談が破談になった今、伯父の顔を潰さぬために、自分が代替として必要とされた。そして、孝太郎には知代にも利益はあるはずだと説得しているのだ。

 孝太郎の目には、嫌悪も軽蔑もなかった。ただ、淡々と状況を整理しているに過ぎなかった。


「結婚後は、基本的に自由に勉強していただいて構いません」


「……自由に?」


「はい。ただし、形式上は夫婦として振る舞うこと。必要なときには社交の席に同席していただきたい。それから——」


 言い淀むことなく、彼は続けた。


「最低限の妻としての義務を、果たしていただければ」


 知代は、答えようにも答えられなかった。この家で、女中のように扱われる日々を思えば、それは逃げ道のようにも見えた。

 けれど、そのために差し出すものの重さが、彼女には判断できなかった。

 けれど、考える前に彼女はあることに気づく。


「……そんな、お話……わたくしが、何と申しましても……父も、母も……」


 両親が許すはずもない。ましてや、昨日まで何の話もなかったこの縁談を、今さら。

 すると孝太郎は静かに立ち上がった。


「では、まいりましょう」


 知代が顔を上げると、彼はまっすぐな目でこちらを見ていた。


「あなたのご家族に、正式に申し込みます」


 そう言って、彼は戸口の前で立ち止まった知代を待った。有無を言わさぬそのしぐさに、知代は抵抗することなどできなかった。





 知代を伴い、客間へと戻った孝太郎は、静かに一礼すると、落ち着いた口調で切り出した。


「先ほどは突然のお願いをいたしましたが、改めて申し上げます。——知代さんを、私の妻として迎えたいと存じます」


 一瞬、室内に静寂が落ちた。徳之助も、お静も、美世子も、あまりに思いがけない申し出に、揃って目を見張った。


「……ち、知代を……?」


 お静が眉を寄せ、信じ難いというように孝太郎の顔を見つめた。


「ええ。先ほど、少しお話をいたしました。その上での希望です」


 孝太郎は変わらぬ平静な口調のまま、真正面から三人の視線を受け止める。


 最初に反応を変えたのは、美世子だった。戸惑いの表情の奥に、ふと、胸のつかえが取れたような安堵が浮かんだ。

 ——あの不器用で、つまらなさそうな男と一緒にならずに済む。それどころか、自分がうっかり口にした「姉」の存在が、この場を切り抜ける切り札になった。


「……ふぅん。まあ、わたくしとしては、ありがたいお話ですわ。ねえ、お母様」


 含み笑いを浮かべながら、美世子はお静に目を向けた。お静もまた、一瞬の間にその状況の利を察した様子だった。

 美世子の縁談が破談となれば、島田中佐の顔も潰れ、今後の取り引きに影響が出かねない——けれど、知代を差し出せば、すべて丸く収まる。

 もとより家族とも呼べぬ存在、惜しくも何ともない。


「まったく……まあまあ、変わった方だこと……」


 お静は言いながらも、笑みを浮かべていた。徳之助と目が合う。二人の間で、ごく短い無言の合意が交わされる。


「それにしても、ありがたい話ですな」


 徳之助が、いかにも愛想よさげに声を出す。


「まさか、うちの……いや、知代をお気に召すとは。いや、いや、ありがたい」


 薄ら笑いの奥に浮かぶのは、金勘定の気配であった。島田家との縁が継続する。それどころか、煩わしい荷物も減る。美世子の縁談も自由になる。すべてが好転する。ならば、早ければ早いほどよい。


「なるべく早く、お引き取りいただけると助かりますな」


 徳之助のその言葉に、知代ははっと息を呑んだ。


(——なるべく、早く)


 引き止められたい。そう願ったことなど、一度もなかった。この家に愛着などなかったはずなのに。あまりにも、あっけない終わり方に、彼女の心が冷えた。


(……わたしは、売られるのだろうか)


 知代の鼓動が遠のいてゆく。周囲の会話は、もはや耳に届かなかった。


「——祝言の形は略式で構いません。準備は私の方で進めます」


 孝太郎の声だけが、薄靄の向こうから聞こえる。


「では、三日後に、お迎えに上がります」


 その一言で、知代の現実は、音もなく塗り替えられた。

 孝太郎は静かに立ち上がると、再び一礼し、客間を後にした。


 残された知代は、座布団の上で背筋を伸ばしたまま、動けずにいた。視線を落とす先には、自分の手が、ひどく小さく、頼りなく見えた。

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