表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第一部:知代編
7/70

七話

 薄暗い廊下を逃げるように駆け戻った知代は、己の部屋の襖を閉めるなり、どさりと畳に膝をついた。

 荒く吸い込む息が、襖の隙間から差し込む光に白く曇る。頬に残るお静の掌の痛みがじんと熱を帯び、まだ鼓動は静まらなかった。


 ——どうして、あの方に会ってしまったのだろう。

 帳簿を抱えていたばかりに、あの場を離れることができなかった。


 そのとき、襖の外から「知代様」と声がした。

 花の声だ。知代は慌てて身を起こし、涙を堪えるように唇を結ぶ。


「……はい」


 返事をすると、花が静かに襖を開けた。


「奥様が、客間に来るようにとおっしゃっております」


 知代ははっと目を見開いた。


「……今、まだ、お客様が……」


「ええ。ですが、すぐに来るようにと、奥様が」


 体の奥からぞくりと冷たいものが這い上がる。

 震える足で立ち上がり、身繕いもままならぬまま、知代は廊下へ出た。花に促されるようにして、ふたたび客間へと向かう。


 襖を開けると、そこにはすでに四人が揃っていた。正座を崩さぬ孝太郎、傍らにはお静と徳之助、それに美世子。お静の口元は苦々しそうに歪められていた。


「……お呼びでしょうか」


 知代は静かに頭を下げた。


「島田様が、あなたと二人でお話したいとおっしゃっているのよ。それも……あなたの部屋で」


 お静は、あからさまに嫌悪を押し殺したような声音で続けた。


 知代は呆然として言葉を失った。あのような部屋に客人を通すわけにはいかない。

 おそるおそる顔を上げ、助けを求めるように父を見る。けれど、彼はただ無言で頷いただけだった。


「……承知いたしました」


 小さく頭を下げ、知代は襖を開けて、廊下へと戻った。背後から、無言のまま孝太郎がついてくる気配がある。


(せめて、座布団の一枚でも持ってくればよかった)


 そんな思いが胸をかすめるが、廊下を進む足は止められなかった。




 やがて、薄暗い奥の一角、質素な襖の前で立ち止まる。知代は振り返らず、静かに声を発した。


「……狭くて暗い部屋で、お迎えするのは本当に失礼なのですが、どうかお許しくださいませ」


 そして襖に手をかけると、孝太郎の声が背後から響いた。


「……その、すみません。急に女性の部屋に入れてくれなどと言い出して……非常識だったと思います」


 一拍置いて、どこか戸惑うような声音が続いた。


「……入っても、差し支えないでしょうか」


 不意の問いかけに、知代は小さく肩を揺らした。


 ――女性の、部屋。


 その言葉が、静かに胸に突き刺さる。

 そうだ。目の前のこの人物は、異性なのだ。


 これまで男という存在に強く意識を向けたことのなかった知代は、その事実に初めてはっきりと気づかされ、思わず体がぴくりと反応してしまった。


 けれどすぐに、俯いたまま唇を結び、小さく頭を下げる。


「……構いません。大したものがある部屋ではございませんので」


 そう言って、襖を静かに開けた。


 外よりさらに薄暗い、三畳の空間がふたりを迎え入れる。屋敷の奥まった場所にあるその部屋は、昼なおほとんど陽が差さず、空気がひんやりとしていた。

 そこにあるのは、小さな文机ただひとつ。机の上には、几帳面に並べられた数冊の本が目に留まる。座布団はなく、畳も擦り切れていた。


 孝太郎は、一歩足を踏み入れると、微かに眉をひそめた。


(いくら母親が違うからといって……あまりにひどすぎる)


 けれど、その思いはすぐに別の感情に上書きされた。

 机の上、少し色褪せた洋書が目に入る――“Pride and Prejudice”。

 そのほかにも、英語の本や和書の文学書が幾冊も。どれも、表紙の擦れ具合から何度も読まれてきたことが窺えた。


「……洋書も読まれてるのですね」


 その言葉に、知代ははっと息を呑んだ。

 机の上に無造作に置いていた洋書に慌てて手を伸ばすと、文机の裏側にすっと隠す。指先はかすかに震えていた。


「お、奥様には……」


 そう口にして、ふと自分で言葉を呑む。


「……母には、言わないでください」


 その声には、哀願がにじんでいた。わずかに伏せられた睫毛の奥には、恐れともつかぬ陰が揺れていた。


 孝太郎は頷いた。そして、ほんの少し間をおいてからまっすぐに知代を見つめる。


「島田孝太郎と申します。……唐突ですが」


 彼は、一言ひとことを噛みしめるように、静かに言葉を紡いだ。


「私の妻になっていただけませんか」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ