七話
薄暗い廊下を逃げるように駆け戻った知代は、己の部屋の襖を閉めるなり、どさりと畳に膝をついた。
荒く吸い込む息が、襖の隙間から差し込む光に白く曇る。頬に残るお静の掌の痛みがじんと熱を帯び、まだ鼓動は静まらなかった。
——どうして、あの方に会ってしまったのだろう。
帳簿を抱えていたばかりに、あの場を離れることができなかった。
そのとき、襖の外から「知代様」と声がした。
花の声だ。知代は慌てて身を起こし、涙を堪えるように唇を結ぶ。
「……はい」
返事をすると、花が静かに襖を開けた。
「奥様が、客間に来るようにとおっしゃっております」
知代ははっと目を見開いた。
「……今、まだ、お客様が……」
「ええ。ですが、すぐに来るようにと、奥様が」
体の奥からぞくりと冷たいものが這い上がる。
震える足で立ち上がり、身繕いもままならぬまま、知代は廊下へ出た。花に促されるようにして、ふたたび客間へと向かう。
襖を開けると、そこにはすでに四人が揃っていた。正座を崩さぬ孝太郎、傍らにはお静と徳之助、それに美世子。お静の口元は苦々しそうに歪められていた。
「……お呼びでしょうか」
知代は静かに頭を下げた。
「島田様が、あなたと二人でお話したいとおっしゃっているのよ。それも……あなたの部屋で」
お静は、あからさまに嫌悪を押し殺したような声音で続けた。
知代は呆然として言葉を失った。あのような部屋に客人を通すわけにはいかない。
おそるおそる顔を上げ、助けを求めるように父を見る。けれど、彼はただ無言で頷いただけだった。
「……承知いたしました」
小さく頭を下げ、知代は襖を開けて、廊下へと戻った。背後から、無言のまま孝太郎がついてくる気配がある。
(せめて、座布団の一枚でも持ってくればよかった)
そんな思いが胸をかすめるが、廊下を進む足は止められなかった。
やがて、薄暗い奥の一角、質素な襖の前で立ち止まる。知代は振り返らず、静かに声を発した。
「……狭くて暗い部屋で、お迎えするのは本当に失礼なのですが、どうかお許しくださいませ」
そして襖に手をかけると、孝太郎の声が背後から響いた。
「……その、すみません。急に女性の部屋に入れてくれなどと言い出して……非常識だったと思います」
一拍置いて、どこか戸惑うような声音が続いた。
「……入っても、差し支えないでしょうか」
不意の問いかけに、知代は小さく肩を揺らした。
――女性の、部屋。
その言葉が、静かに胸に突き刺さる。
そうだ。目の前のこの人物は、異性なのだ。
これまで男という存在に強く意識を向けたことのなかった知代は、その事実に初めてはっきりと気づかされ、思わず体がぴくりと反応してしまった。
けれどすぐに、俯いたまま唇を結び、小さく頭を下げる。
「……構いません。大したものがある部屋ではございませんので」
そう言って、襖を静かに開けた。
外よりさらに薄暗い、三畳の空間がふたりを迎え入れる。屋敷の奥まった場所にあるその部屋は、昼なおほとんど陽が差さず、空気がひんやりとしていた。
そこにあるのは、小さな文机ただひとつ。机の上には、几帳面に並べられた数冊の本が目に留まる。座布団はなく、畳も擦り切れていた。
孝太郎は、一歩足を踏み入れると、微かに眉をひそめた。
(いくら母親が違うからといって……あまりにひどすぎる)
けれど、その思いはすぐに別の感情に上書きされた。
机の上、少し色褪せた洋書が目に入る――“Pride and Prejudice”。
そのほかにも、英語の本や和書の文学書が幾冊も。どれも、表紙の擦れ具合から何度も読まれてきたことが窺えた。
「……洋書も読まれてるのですね」
その言葉に、知代ははっと息を呑んだ。
机の上に無造作に置いていた洋書に慌てて手を伸ばすと、文机の裏側にすっと隠す。指先はかすかに震えていた。
「お、奥様には……」
そう口にして、ふと自分で言葉を呑む。
「……母には、言わないでください」
その声には、哀願がにじんでいた。わずかに伏せられた睫毛の奥には、恐れともつかぬ陰が揺れていた。
孝太郎は頷いた。そして、ほんの少し間をおいてからまっすぐに知代を見つめる。
「島田孝太郎と申します。……唐突ですが」
彼は、一言ひとことを噛みしめるように、静かに言葉を紡いだ。
「私の妻になっていただけませんか」