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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第一部:知代編
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六話

 客間の襖は、未だ静かに閉じられたままである。


 孝太郎は、湯呑の中で冷めきった茶を見つめていた。美世子が「頭を冷やしてくる」と席を外してから、もうずいぶん時間が経っている。

 最初のうちはすぐに戻ってくると思っていたが、気まずい沈黙の中で待たされる時間は予想以上に長く、やがて彼は、ある現実的な問題に耐えられなくなった。


 ――困ったな。


 尿意である。


 客間から出ようかどうか、しばし迷った末に、彼は静かに襖を開けた。廊下には誰もおらず、足音を立てぬよう慎重に歩を進めると、ちょうど向こうから一人の女中が現れた。

 控えめに腰を折り、彼を避けようとしたその人物に、孝太郎は声をかけた。


「失礼。お手洗いは、どちらでしょうか」


 彼女は少し戸惑った様子だったが、すぐに場所を案内し、再び無言で頭を下げて去っていった。



 用を済ませ、戸を静かに引いて出ると、ほとんど同時に別の戸が開き、そこから一人の少女が現れた。


 書類を数束抱えたままの彼女は、客間の主と鉢合わせたことに目を見開き、反射的に後ずさった。その瞬間、腕に抱えていた書類がばさりと床に落ち、あたりに紙の音が散る。


「申し訳ございません!」


 少女は慌てて頭を下げた。


 孝太郎も驚き、「いや、こちらこそ、驚かせてしまって失礼」と、慌てて紙を拾おうと腰をかがめた。その指先が一枚の帳簿用紙に触れたとき、彼の動きが止まる。


 整然と書かれた文字と数字。縦横無尽に張り巡らされた集計の線。

 売上、利益、原価率、滞留品……それらの計算がすべて鉛筆で緻密に記され、下部には端整な筆跡で注釈が添えられていた。


「これを……あなたが?」


 思わず尋ねた孝太郎の声に、彼女は小さく身を縮こませたまま、何も答えなかった。

 ただ「失礼しました」とだけつぶやき、紙束をかき集めるように拾いはじめた。


 と、そのとき。


「まあまあ、何をしているのかしら」


 涼やかな女の声が、廊下の向こうから響いた。


 お静である。後ろには美世子もいる。二人の顔には笑みが浮かんでいたが、その瞳の奥は冷たい光を宿していた。


「こちらにいらしたのね。どうぞ、もう一度お部屋へ。娘もすぐに参りますので」


 お静は、作り物のように柔らかな笑顔を保ったまま、手で客間の方を促す。

 孝太郎が一礼し、美世子とともに廊下を引き返していくと、その背中を見送ったお静の表情が、ゆっくりと変わった。


 笑みは霧が晴れるように消え、口元がぴくりと動いた。

 すぐさま彼女は知代のもとに歩み寄り、何の前触れもなく、ぱん、と乾いた音が廊下に響いた。


 知代の頬がぐらりと揺れた。顔を押さえることもなく、ただ一歩下がって膝をつき、項垂れた。


「申し訳……ございません……」


 その声は震えていたが、涙はこらえていた。


 お静は無言のまま睨みつけたが、それ以上何も言わなかった。

 知代は紙束を胸に抱え直し、廊下を走るようにして奥の部屋へ戻っていった。




 ふたたび客間に戻った孝太郎は、静かに腰を下ろした。


 お静と徳之助の姿はまだない。気まずい間を埋めるように、彼はふと先ほど廊下で出会った少女のことを思い出し、美世子に尋ねた。


「先ほど、お手洗いの近くで会った娘さん……あれは、どなたですか?」


 茶を口にしていた美世子は、「ああ」とあっけらかんと答えた。


「知代といって母が違う姉ですの。今はうちの女中みたいなことをしていますけれど」


 孝太郎は目を細めた。だが美世子は悪びれることもなく、さらに続けた。


「あの人、昔からおどおどしてて、器量もよくないし、口下手だし。師範学校に行きたいなんて変な夢を見ていて、おかしな人ですわ。結局、あんなの、どこからもお嫁にもらってもらえないでしょう。きっとみじめだと思いますわ」


 孝太郎は、美世子の当然のような物言いに、思わず返す言葉を失った。


 ――本当に、そうだろうか。


 先ほど見た書類の計算、整然とした筆致。怯えた目をしながらも、その文字はどこか毅然とした性格をちらつかせていた。

 あれは愚かでも、哀れでもない。


 それどころか、あれだけの数字を扱える理性と力を持ちながら、あの部屋に閉じ込められ、黙って生きてきたのか――そう思ったとき、ある考えが孝太郎の脳裏をかすめた。


 それは、あまりにも非常識で、失礼で、言葉にするにはためらいのいる提案だった。


 彼は内心で眉をひそめながらも、その案の輪郭をたぐった。


 ――あの知代という娘に、学校に行く自由を与える代わりに、私と結婚してもらう。

 世間体を保つための形式だけの婚姻。

 彼女には不自由させず、東京で好きに学ばせればいい。


 それは、ひとつの「交換」だった。


 そう考える自分の冷たさに、孝太郎は一瞬たじろいだ。だがすぐに、現実的な利点が頭を支配した。

 家同士の体裁は保たれ、本人の望みも叶う。美世子のように結婚に夢を見るタイプではないだろう。合理的に話せば、理解してもらえる――はずだ。


 そのとき、襖が開き、遅れて徳之助とお静が現れた。二人の顔には、申し訳なさをたたえた苦い笑みが浮かんでいた。


「島田殿、どうかお許しいただきたい。どうやら先ほどの貴殿の言葉が、美世子の心を深く傷つけたようでして」


 徳之助が切り出す。


「ですから、今回のご縁談は……なかったことに、ということで」


 お静が言い終えるよりも早く、孝太郎は首を横に振った。


「それは、こちらこそ申し訳ないことをしました。……ただ、一つだけお願いがあります」


 徳之助とお静が顔を見合わせた。


「お願い?」


「はい。……先ほどの、知代さんと。少し、二人だけで話をさせていただけませんか」


 部屋の空気が、ほんの一瞬だけ、張り詰めた。

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