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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第一部:知代編
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五話

 襖が閉まり、室内がふたたび静寂に包まれると、ほんの一瞬の間を置いて、美世子が小さく咳払いをした。

 緊張を払うようなその仕草のあと、彼女はにこやかに孝太郎へ向き直る。


「ねえ、孝太郎様。お一人でのお暮らしって、やっぱり少し寂しくはございませんの?」


 そう問いながら、彼女は手元に置かれた小皿の羊羹を箸先で少し崩し、紅い唇で上品にそれを口に運んだ。表情は柔らかく、だが眼差しには確かな探りがある。


「……慣れておりますので」


 孝太郎は穏やかな声音で答え、杯を持ち上げる。酒はほとんど減っていなかった。

 美世子は構わず会話を続ける。女学校の頃の思い出や、銀座で見た流行の洋装、友人が最近買ったというパラソルの話。

 流れるように次々と話題が移り、語り口には勢いがあった。自信に満ちた娘らしい快活さ、だがその向こうにある無邪気な軽さに、孝太郎はやや閉口していた。


 彼は相槌を打ち、時折笑みを見せながらも、言葉は慎重だった。無礼に聞こえぬように、かといって必要以上の興味を示さぬように。

 次第に、彼女の語りも熱を失いはじめ、ふっと息をついたところで、孝太郎はついに口を開いた。


「……美世子さん」


「はい?」


 美世子は箸を止め、不思議そうに顔を上げる。


「僭越ですが、ひとつ、申し上げておきたいことがございます」


 孝太郎の声音は静かで、そして揺るぎがなかった。膝の上に置かれた両手は動かず、その姿勢のまま淡々と続けた。


「私の家は、伯父のものとは別でして、決して広くも裕福でもありません。贅沢なお暮らしをお望みであれば、ご期待には添えかねるかと存じます」


「……まあ」


 美世子はやや目を見張り、それから小さく笑った。


「そんな、私、別に贅沢がしたいわけでは……」


「また、私は流行の服や装飾には、さほど関心がございません。仕事に追われる日々で、ゆっくり出かける余裕もなく……加えて、あまり人付き合いもいたしません」


 言葉を選びながらも、その一つ一つは確かな重みをもって室内に降りていく。美世子の笑みが、少しずつ曇っていった。


「つまり……」


と、美世子は唇を尖らせた。


「奥様になっても、構っていただけないということですのね」


 孝太郎はわずかに目を伏せ、沈黙したあとで、静かに答えた。


「……そのような不義理な夫にはならぬよう努めます。ただ、現実として、常に傍にいることは難しいかと」


 その言い回しは決して否定的ではなかったが、明らかに距離を置いていた。美世子はすぐには何も言わず、少しだけ唇を尖らせて視線を逸らした。


「……なら、なぜ結婚を?なぜ、こんな席にお出になったの?」


 それは彼女の年齢相応の、まっすぐな不満だった。孝太郎は、その問いに一瞬たじろぎ、ふと目を伏せる。


「……周囲が、あまりに煩いもので」


 その言葉が口をついて出た瞬間、彼はしまったと思った。遅かった。

 美世子の目に浮かんだ怒りと侮蔑、それを必死に覆い隠すような冷笑。彼女はすっと立ち上がり、手元の膝掛けを整えるように畳の上を払った。


「お話は、よくわかりましたわ。頭を冷やしてまいります」


 乾いた声に、もう先ほどまでの愛嬌はなかった。彼女は襖に手をかけ、一度も孝太郎を振り返ることなく、ぴしゃりとそれを閉めた。

 音だけが鋭く室内に残り、孝太郎は黙って膝の上に手を置いたまま、しばらくその場を動かなかった。




 襖がぴしゃりと鳴って閉まると同時に、美世子が居間に飛び込んできた。


「もう、最低よ!」


 畳の上で胡坐をかいていた徳之助と、刺繍を手にしていたお静が驚いて顔を上げる。


「どうしたの、美世子?」


  お静がすぐに立ち上がり、娘に駆け寄った。


「もう、あんな人とお話なんて無理。つまらないったらないのよ!」


「まあまあ、少し落ち着いて――」


「落ち着いてなんていられないわ! お母様、あの人、本当に、つまらない人だったのよ!」


「でも……ねえ、美世子、よくお考えなさいな。あちらは島田中佐のお身内、由緒もあり、将来は確かな大蔵のご役人。真面目で誠実そうで、お顔立ちだって――」


「そんなの関係ないわ!」


美世子が強く言い放つ。


「こちらが何を話しても、ただはあ、とか、ええ、とか、まるで借りてきた猫。愛想の一つもない。仕事が忙しいとか、洒落っ気がないとか、家が貧しいとか、何かっていうと期待するなって、先に予防線ばかり張ってきて……!」


「まぁ……それは少し失礼ね」


 お静の口調に、微かな疑念が混ざる。


「しかも、仕事が忙しくて妻に構う暇は無いですって。まるで、つまらない生活になるって自分で宣言してるようなものよ。何を夢見て今日まで準備してきたと思ってるのかしら」


「……贅沢や流行に無頓着というのは、美世子、お前には確かに辛かろうな」


  徳之助がぽつりと漏らした。


「それだけじゃないのよ、お父様」


 美世子がぐっと身を乗り出す。


「最後に、周囲がうるさいから来たって、はっきり言ったの。つまり、私に会いたかったわけじゃなくて、周囲に押し切られて仕方なく……ってこと」


 お静の手がぴたりと止まった。


「……それは本当に?」


 美世子は真っ直ぐにお静を見返した。


「聞き違いじゃないわ。わたし、その瞬間、頭に血がのぼって、思わず席を立ってしまったもの」


 お静は数瞬黙ったのち、手にしていた刺繍布を畳に投げ出した。


「なによ、それ!それじゃまるで、美世子を馬鹿にしているじゃない!あんまりじゃないの!」


「でしょ?わたし、あの人と暮らすなんてまっぴらだわ。夢も洒落もない生活を、黙って受け入れろって言われてるみたいだった」


「そんな男、こっちから願い下げよ!いくら文官だからって、女心のひとつも分からないような、上から目線の冷たい男、何が大蔵省よ! 何が島田家よ!うちの娘を誰だと思ってるの!」


「……おいおい」


  徳之助が苦い顔をして口を挟んだ。


「お前たち、少しは落ち着け。確かに言い方が悪かったのかもしれんが、きっとあいつはそういう性格なんだ。堅物で無口なだけで、悪気はない――」


「悪気が無ければいいってわけじゃないわ!」


  お静が声を荒げる。


「あなたこそ、どうしてあんな男を勧めたの? 最初から愛想もないし、美世子に何の落ち度があって、あんな冷たい態度を取られなきゃならないの!」


 徳之助は腕を組み直し、眉間に皺を寄せる。


「だが、こちらから断るのも難しい話だ……。中佐殿は気位の高い人だ。あの人を立てずに事を運べば、あとで何を言われるかわからん」


「……じゃあどうすればいいの?」


 美世子が吐き捨てるように言った。


「我慢して結婚しろってこと? あんな人と?」


 お静が、ふと静かな声で言った。


「もしも……もしも、あちらに非があったということにすれば? つまり、お見合いの席で娘を不快にさせた、という筋なら、中佐様も無理は言えないでしょう?」


 徳之助は目を細めた。


「なるほど。……あちらが言葉を選ばなかったということで、こちらが気後れした形にすれば、向こうも強くは出られまい」


「ねぇ、それ、うまく言えば……悪いのはこちらじゃない、ってことにできるでしょう?」


「文官なんて、所詮は世間体を大事にする職種だものね」


 お静がしみじみと呟く。


「こっちがうまく傷ついたって顔をしてあげれば、それで終いよ」


「……ふん。せいぜいお上品なところで、こちらに泥は被せないでいただきたいわ」


 美世子の唇に、わずかな笑みが浮かんだ。それは怒りと失望が冷えた後に残る、計算の微笑だった。




 奥の薄暗い部屋は、日中でも灯りが欲しくなるほどだった。三畳ほどの狭い女中部屋、その文机の上に、帳場から持ち込んだ帳簿と墨壺、そして硯と筆が並べられている。


 知代は黙々と、丁寧な字で帳簿の数字を確認し、書き写していた。商いの品目、仕入れ値、販売価格、それに日付と相手先の名前。

 ひとつひとつ確認しては、筆を運び、墨を継ぎ足す。父に見せる前に、自分で何度も見直し、間違いがないかを確かめるのが癖だった。


 ふと、廊下の向こうから人の声が聞こえてきた。


「もう、最低よ!」


 居間で、美世子が大声を上げたらしい。何かあったのだとすぐに分かった。

 襖が閉まる音も、足音も、感情の昂ぶりがそのまま音になって伝わってくる。


 知代は筆を止め、少し耳を澄ませた。

 声はとぎれとぎれで、会話の全貌までは分からない。それでも、美世子が縁談に乗り気でないことだけははっきりと伝わってきた。

 いや、どうやら怒っているようだ。いつものわがままとは少し違う、本気の憤りのような声色だった。


 知代は、ふうっと小さく息を吐いた。


 縁談は、きっとうまくいかなかったのだ。相手に断られるよりも、こちらから断る方が、まだ美世子の面目は保たれてよかったかもしれない。

 けれど、どちらにせよ、今日という一日は、家族にとって機嫌のいい日にはならない。


 小さなため息をもう一度落とし、知代は筆を置いた。帳簿の記入はすでに終えている。薄墨で数字の桁を囲み、最後の確認印を押して、ページを閉じた。

 気づけば、手元の紙に小さな墨の染みができていた。自分のため息に墨が跳ねたのだろうか。指先でそれをなぞりながら、知代はそっと席を立った。

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