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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第一部:知代編
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四話

 汽笛が小さく響き、列車は春先の薄曇りの空の下を、横浜へと向かっていた。

 車窓に流れる田畑の向こう、まだ芽吹ききらぬ木々の枝がかすかに揺れる。暖房の効きすぎた車内には、石炭のにおいと、誰かの持ち込んだ新聞紙のかすれた香りが混じっていた。


 孝太郎は革張りの椅子に背を預け、何も見ない目で窓の外を眺めていた。

 襟の詰まった濃紺の洋服は、型がきちんと取られており、黒いネクタイと控えめなピンがその律儀さを物語っている。

 胸元からわずかに覗くシャツは真っ白で糊のきいた麻。帽子は膝の上に、手帳とともに丁寧に置かれていた。


 平日の真昼間にこうして職場を離れたことに、孝太郎は奇妙な感じを覚えた。


 孝太郎は、本郷の自宅で暮らしている。

 亡き父が遺した家。庭には梅の木があり、毎年春には女中のつねが枝を折っては床の間に活けた。

 十五で亡くなった母と、六年前に病で逝った父の記憶は、この家の至る所に残っている。彼にとってそれは、心地よい静けさであり、手放したくない過去だった。


 大蔵省の仕事は忙しいが、充実していた。数値と文書の世界は、気まぐれな人間関係よりもずっと理にかなっている。

 役所の人間関係も、面倒はあるが慣れればそれなりに距離を保てる。生活は静かで、規律正しかった。


 ただ一つ、周囲がやかましいのが「結婚」だった。


「独り者では、いつまでも信用は得られんぞ。文官というものは、安定した家庭を持ってこそだ」


 そうした上官の口ぶりには、既婚者であることが人柄や実務能力と同じく、官吏としての資質の一部と見なされているような響きがあった。

 日々の誠実な働きよりも、婚姻の有無で評価が左右されるというのは、少々理不尽にも思えた。


 孝太郎と同じように未婚のまま勤めている者は少なくなかったが、そのなかでも帝大時代の同期で、今も時折酒を酌み交わす早瀬俊哉は、また別の意味で異彩を放っていた。

 俊哉も独身を貫いていたが、女性との付き合いには奔放で軽薄だった。


「まあ、女房を持てって言われてもなあ。うるさい連中には笑ってごまかせばいい」


 俊哉はそう言って肩をすくめ、上司の小言を煙に巻いていた。実際、俊哉のような男にはそれが許されている空気もあった。


 だが、孝太郎は俊哉ほど器用ではない。黙って聞き流すことはできても、表立って軽口を叩くことも、適当に誤魔化すこともできない性質だった。

 そして今回、そうした周囲の声に押し出されるようにして持ち上がったのが、この縁談である。


 件の見合い話を持ち込んできたのは、伯父にあたる島田中佐だった。

 軍人として名を成していたが、孝太郎にとってはあまり近しく感じられない人物だった。酒席を好み、女遊びにも身を入れる——そんな伯父の生き方には距離を感じていた。

 だが、それでも、父亡きあと折々に気にかけてくれた恩義は否定できない。


「器量のいい娘だ。お前に不足はない」


 伯父がそう言って勧めてきたのが、今日会うことになっている横浜の呉服屋の娘だった。中佐が店を訪れた際に見かけて「これは」と思ったのだという。


 孝太郎はその話を聞いたとき、一度見かけたたまけの相手を「器量がいい」という理由だけで気にいることにも、娘の側の意思などお構いなしの流れにも、違和感は拭えなかった。

 気は進まない——それが偽らざる本音だった。


 しかし、職場でも、伯父からも、そして何より社会的な空気の中で「独身のままでいること」への風当たりは確かに強まっていた。

 結婚が信頼の証し、官僚としての安定を象徴するものだというのならば、避けて通ることもできまい——納得まではいかなくとも、そう理解していた。


 ため息とともに、孝太郎は鞄から懐中時計を取り出し、時刻を確かめた。まだ午後一時前。店に着くのは午後二時ちょうどくらいだろう。

 窓の外には、見慣れぬ町並みが近づいてくる。横浜という土地は、彼にとって縁もゆかりもない場所だった。

 だが今日、この訪問が、否応なく何かを変えることになるかもしれない。それは期待ではなく、むしろ予感に近いものだった。



 村井家の門をくぐると、わずかに開いた障子の隙間から、誰かが急ぎ足で廊下を渡る音が聞こえた。約束よりも幾分早い到着だったが、孝太郎は静かに玄関前に立ち、呼び鈴の紐を引いた。

 間もなく襖が開き、和装の男が頭を下げながら現れた。


「ようこそお越しくださいました、島田殿でいらっしゃいますね?」


 低く抑えた声でそう言ったのは、村井徳之助だった。先ほどまで店で見せていたはずの商売人の顔はひとまず引っ込められ、どこか硬さと畏まりが混じる表情に変わっていた。

 孝太郎が軽く会釈すると、その背後から続いて現れたのは、ややあって顔をのぞかせた女と娘だった。


「まあまあ、ようこそようこそ、お忙しいでしょうに、わざわざ横浜まで——本当に嬉しゅうございます」


 と、甲高い声で畳みかけるように言葉を重ねたのは、お静である。手には扇子を持ち、紅をさした唇の端を小さくつり上げながら、孝太郎に目を細めた。

 やや芝居がかった身振りと、言葉の端々から滲み出る過剰な愛想は、孝太郎の胸に一抹の居心地の悪さをもたらした。


「伯父様にそっくりなお顔ですねえ!ねえ、美世子」


「あら、ほんと。よく似てらっしゃるわ」


 美世子は、艶やかな着物に身を包み、年頃の娘にはやや大人びた化粧を施して立っていた。

 白粉の下からのぞく肌にはまだあどけなさが残るが、瞳の奥には確かな野心が輝いている。

 孝太郎が会釈すると、彼女は上気した頬で小さくうなずいた。


 三人に迎えられ、孝太郎は表向き礼を尽くしながらも、内心でわずかに眉をひそめた。

 廊下に通され、庭の見える和室の客間へと案内されると、そこには既に花が整えた出前の料理が並んでいた。

 煮物、焼き魚、巻き寿司に吸い物、それに酒まで添えられており、華やかな膳が畳の上に据えられている。まるで宴席のような盛り立てぶりに、孝太郎はわずかにたじろいだ。


「どのあたりにお住まいで?」


お静が畳の上に身を沈めながら尋ねる。


「本郷でございます。父の代からの家で」


「まあまあ、素敵。あちらは本当に文化の香りがいたしますものねえ。わたくし、たまに銀座へ行くのですが、あちらはもう、ぜんぜんこちらと違って……」


 続く言葉に、美世子がすかさず頷いた。


「私も、帝劇に行くのが夢なんですの。東京に出られたら、女学校の頃のお友達ともまた会えるでしょうし、ねえお母様?」


「まあ、ほんとねえ。横浜では、どんなに着飾っても限度がありますものねえ」


 孝太郎は杯を持ち上げるふりをして、目の奥を伏せた。

 華やかな会話と笑い声、その裏に漂う、東京への強い憧れと、裕福な暮らしを夢見る気配。

 彼の暮らす静かな本郷の屋敷、つねの淹れる薄い煎茶、母の遺した花器のある床の間。そうした生活とは、どこか乖離した感覚がこの家にはあった。


「——とはいえ、中佐殿には本当にお世話になっております。我々のような者が、こうしてお話の機会をいただけるとは」


 と、徳之助が酒をつぎながら、さりげなく言った。


「伯父上のお噂は、横浜でもたびたび耳にいたします。まったく、島田中佐のご威光には頭が下がります」


 あくまで謙虚な体を保ちながら、その言葉の端には、中佐とのつながりを匂わせる確かな計算があった。

 孝太郎は静かにうなずきながら、ますます胸のうちに曇りを感じていた。

 形式ばった挨拶、誇張された歓迎、東京への執着——あまりに熱のこもったこの場の空気は、彼にとっては重く、落ち着かないものだった。


(やはり……来るべきではなかったか)


 だが、ここで冷淡に辞しては、伯父の顔に泥を塗ることになる。

 情にほだされたわけではない。だが、恩義という言葉が彼の中で思いのほか大きな重みを持っていたのは、間違いなかった。


 やがて、膳が片付けられ、場が一段落すると、徳之助が立ち上がって言った。


「では、あとは若いお二人で——」


「お邪魔になってはねえ。美世子、きちんとお話するのですよ」


 お静が扇子で口元を隠しながら、目を輝かせる。

 二人は客間をそっと後にし、襖が閉じられると、室内には一瞬の静寂が戻った。外からは、風に揺れる竹の葉擦れの音が微かに聞こえてくるだけだった。

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