三話
表の格子戸が引かれ、呉服屋「村井屋」の一日は、活気ある客の声と反物の擦れる音の中で始まった。
木の看板に刻まれた「村井屋」の字は、幾度もの風雨に晒されてやや色褪せてはいたが、それがかえって老舗の風格を漂わせていた。
店の前には、つい先ほどまで知代が掃き清めていた石畳が朝の日差しを受けて淡く光り、入り口には手拭や風呂敷が色とりどりに飾られて、通りすがりの目を引いていた。
店内には反物が棚にぎっしりと並べられ、中央の広い畳敷きには見本の小反が幾筋も広げられている。
訪れる客は多く、贈答用にと上布や縮緬を探す者、娘の嫁入り支度のために訪れる者、単に季節の新柄を見に来る者――皆、それぞれに期待を抱いて店内を忙しなく見渡していた。
お静はその客たちの間を休みなく歩き回っていた。
白粉の香りと華やかな香のたきしめられた衣の裾がふわりと揺れるたび、視線を引きつける。
顔には柔らかな笑みを絶やさず、しかし目の奥には商売人としての鋭い計算が光っていた。
「まあ、お眼が高うございますこと。こちらの絽の附下、実は東京の問屋から取り寄せたばかりでして……。これをお召しになれば、お茶席でも目立たれること間違いございませんわ」
言葉の端々にさりげなく品と流行を織り交ぜ、相手の虚栄心をくすぐるのが、お静の得意技だった。
ときに「まあ、奥様のお好みでしたら」と控えめに下がってみせ、ときに「ご主人様のお顔を立てるなら、ぜひこちらに」と押してみせる。
そんなお静の巧みな応対に促され、次々と売上が立つ。手早く畳紙を用意するのは、若い番頭と丁稚たち。
包装された反物は、客の期待と満足を包んで、次々に送り出されていった。
一方、帳場の横では、徳之助が大福帳を広げ、細かな仕入れの数字と売上を照らし合わせていた。老眼鏡の奥で眉間に皺が寄る。
「……おい、どうにも合わんな。どこで間違えた……?」
顔を上げ、辺りを見回すと、ちょうど奥から客間の掃除を終えた知代が戻ってきたところだった。
「知代、ちょっと来い。帳簿が合わん。ここを見てみろ」
徳之助は帳簿を渡しながら、少しばかり苛立った口調で言った。
知代は黙って頷くと、帳場の脇に腰を下ろし、手早く筆と算盤を用意した。指が小気味よく珠を弾く音が静かに響く。
数字の流れを追いながら、知代は何も言わずに次々と計算を進めていった。
その様子を横目で見ながら、徳之助は複雑な思いを抱いた。
(やれやれ、こいつは本当に役には立つ。だが……かわいげというものがまるでない)
知代は言われたことを的確にこなす。文句も言わず、口答えもせず、実に手際よく。
しかしそれがまた、徳之助の男として、家長としての矜持を揺らがすようにも感じられた。
「……ここです。昨日の仕入れが控えに写されていませんでした。だから帳簿の左と右がずれています」
知代は、冷静な声でそう言って帳簿を差し出した。徳之助は一瞬言葉を詰まらせたが、「そうか」と短く返して帳簿を引き取った。
やがて午の刻が近づくと、お静が店先に立ち、声を張った。
「皆様、本日はまことに勝手ながら、午前で店を閉めさせていただきます。またのお越しを、心よりお待ちしております」
名残を惜しむ客に丁寧に頭を下げながらも、お静の目はすでに次の段取りに向かっていた。
「今日は大事なお客様がいらっしゃいますもの。ねえ、あなた」
徳之助は愛想笑いを浮かべながら、心の中ではお静と同じ気持ちで会った。
日頃は昼過ぎまで賑わう店を半日で畳むなど、商売人にとっては本来もってのほかだが、それでも今日は特別だった。
そして昼過ぎ、いつもより早く帰宅した美世子が、ぱたぱたと表の格子戸を開けると、家の空気が一気に色めき立った。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
花が台所から出てくると、美世子は「ただいま」と機嫌よく頷き、草履を脱いで上がり込んだ。その手には小さな紙包み。女学校帰りの装いのまま、急ぎ足で自室へと向かう。
「お姉様、遅いわよ。さっさと来て、手伝ってちょうだいな」
その言葉に知代は急ぎ部屋に入り、美世子の支度を手伝う。やがて再び現れた美世子は、すっかり着飾っていた。
身に纏っていたのは、店でも上等とされる淡い水色の訪問着。
肩から裾へかけて金糸のぼかしに牡丹の刺繍が入っており、日の光を受けるたび、きらきらと細かな輝きを返していた。帯は黒地に金の有職文様を配した袋帯で、きゅっと高い位置に結ばれている。
艶やかに結い上げられた髪には、鼈甲の簪が控えめに添えられ、白粉と紅で整えた顔は、いつもの少女らしい無邪気さに少しばかり大人の影を足していた。
鏡台の前には、お静がすでに陣取っており、白粉の具合を確かめながら、にこやかに娘を見守っていた。
「まぁ、美世子。あなた、見違えるようじゃないの。これなら中佐様の甥御にも、きっと気に入っていただけるわ」
「そうでしょう? 私、絶対に逃さないわ。ねえ、お母様、行儀ってもう一度見直しておいたほうがいいかしら?」
「そうねえ。お茶の出し方と箸の使い方、それからお辞儀の角度。ああ、それから言葉遣いもね。おいしゅうございます、よ。おいしいですじゃ駄目よ」
「おいしゅうございます、ね。ふふっ、まるで女優さんみたいだわ」
「何言ってるの、あなたは今日の主役よ。しっかり振る舞わなきゃ」
美世子はきゃっきゃと笑い、お静もつられて笑った。そこには緊張よりも期待と興奮の色が濃かった。
「来るって分かってたら、もっと早く準備したのに。ねえお母様、お料理はどうするの? まさか家の煮物なんて出さないでしょうね?」
「心配いらないわ。花に言って、外から仕出しを頼ませたから。お酒も良いのを二本取らせたし、器も変えさせてるところよ」
「さっすがお母様。私、これが決まったら、すぐに東京に行けるのかしら。お父様、何て言ってた?」
お静は一瞬視線を横に送り、襖の向こうで帳簿をめくる徳之助に小声で呼びかけた。
「あなた、お料理とお道具のこと、もう一度確認しておきましょうか?」
徳之助は手を止めて立ち上がると、腕を組んで静かに頷いた。
「粗相のないように……あの中佐どのに恥をかかせるわけにはいかん」
その声には、縁談を商機と見る商人としての現実的な下心が見え隠れしていた。
知代は黙って美世子の襟を整え、帯の結び目を最後に整えてから、鏡越しに微笑んだ。
「とてもよくお似合いです」
美世子は鼻を鳴らし、「当たり前よ」と満足げに答えたが、ふと目を細めて言葉を加えた。
「ねえ、お姉様。あの人が来る時、あんまり表に出ないでね。……みっともないから」
言葉は軽く、笑い交じりだったが、言外に込められた悪意は知代にもはっきり伝わった。けれど知代は動じた様子もなく、小さく頷いた。
「承知しております」
すると、背後から徳之助が帳簿の束を差し出した。
「じゃあ、これを見ておけ。どうせ暇だろうからな」
知代はそれを黙って受け取ると、軽く頭を下げて部屋を出た。残された家族の笑い声とざわめきは、襖を隔てて微かに響き続けていた。知代は帳簿を胸に抱き、自室へと向かった。