二話
台所から漂う味噌の香ばしさが、まだ肌寒い春の朝の空気にほのかに溶け込んでいく。
知代は花が整えた膳を慎重に盆に載せ、背筋を伸ばして居間へと向かった。
戸を開けると、光を通す障子の向こうからは、すでに起きていた家族の気配が伝わってくる。
居間には、徳之助、お静、そして美世子が揃って座っていた。徳之助は紺の羽織を羽織り、新聞を広げながら黙々と紙面を追っている。
その脇に座る美世子は、女学校の制服に身を包んでいた。濃紺のセーラー襟には、手刺繍の白い糸がさりげなく光り、袖口や裾にもレースの縁取りが施されている。
流行に敏感な少女らしく、細部まで抜かりはなかった。
「お姉様、おはようございます」
美世子が、やや芝居がかった声で笑みを浮かべた。その笑顔の奥には、姉妹としての親しみは微塵も感じられない。
「おはようございます、お嬢様」
知代は深く頭を下げ、三人の前に膳をひとつずつ丁寧に置いていった。
朝の膳は質素だが整っている。焼き魚、豆腐の味噌汁、そして炊きたての白米に香の物。
食卓に膳を並べ終えると、知代は静かに退こうとした。
「お姉様、あとで私の部屋にいらして。制服の襟元が乱れていないか見てほしいし、髪も少し結い直してもらいたいの」
「承知いたしました、お嬢様」
その答えにも、姉妹としての親しみはなく、女中が雇い主の娘に返事をするような響きしかなかった。
「それと、お前は今日の午後、表には顔を出すでないぞ」
今度は徳之助が新聞から目を離さずに言った。
「はい、奥におります」
知代は声を落とし、一礼して静かに部屋を後にした。
障子が閉まり、知代の足音が遠のくのを確かめると、お静と美世子は待ちきれなかったように徳之助の方を向いた。
「ねえ、あなた、今日のお客様って……いったいどなたなの?」
お静が甘えた声で訊ねる。
「お父様、前から何も教えてくださらないんだもの。そんなに大事なお客様なの?」
美世子も目を輝かせた。徳之助はひと息ついて湯呑を持ち上げ、しばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。
「島田中佐の甥御だ。名前は島田孝太郎。今は大蔵省に勤めておる」
「まぁ! 大蔵省!」
お静の声が弾む。
「中佐って、たまに店にいらっしゃるあの方よね? 前に美世子を見て、『器量よしじゃな』とおっしゃっていたわ」
「ええっ、まさかその方が紹介してくださったなんて!」
美世子は頬を紅潮させ、うれしさを隠そうともしなかった。
「東京の人で、しかも文官なんて……なんて素敵」
お静は身を乗り出すようにして言った。
「中佐が自ら縁談を勧めるなんて、余程のことよ。これは本当に……美世子にとって千載一遇の好機だわ」
徳之助は表情を崩さぬまま、ゆっくりと頷いた。言葉には出さなかったが、商人として、中佐との繋がりが得られることの重みを十分に感じていた。
娘が良家に嫁げば、それだけで店の信用にもなる。そして、中佐の甥という名のもとに、横浜の呉服屋が東京の大官と縁を結んだとあれば――そうした話は、呉服の仕入先や得意客の耳にも入る。計算はすでに、頭の中で済んでいた。
お静と美世子は顔を見合わせ、ほくほくと笑った。
「ねえ、美世子、今日は一段とお洒落して出迎えなくちゃ」
「わかってるわ、お母様。少し髪も巻き直そうかしら。あの方、きっと細かいところまで見てらっしゃるもの」
晴れがましい未来を疑うこともなく語り合う母娘の声が、襖の向こうまで聞こえるようだった。
台所では、まだほのかに湯気の立つ味噌汁と、今朝の残りの焼き魚が小皿に分けられていた。知代と花は膝を突き合わせ、小声で話しながら簡素な朝食を口に運んでいた。
「さっき、奥様が客間の埃を一つ残さず拭き取っておけと仰っていたわね」
知代が箸を置いて言うと、花はふぅとため息をついた。
「やれやれ、何か大事なお客様なんでしょう」
知代は頷きつつ湯呑を手に取った。表情は変えなかったが、心のどこかで胸の奥にひっかかるものがあった。
朝食を終えると、知代は立ち上がり、美世子の部屋へと向かった。
廊下を渡って二階に上がり、襖を開けると、そこには和のしつらえと西洋趣味が入り混じった、不思議な空間が広がっていた。
畳の上には絨毯が敷かれ、角には洒落た洋風の姿見。机の上には雑誌『婦人之友』や東京のモダンガール向けのファッション紙が散らばり、壁には外国映画の女優が写った切り抜きが几帳面に貼られている。
置かれた香水瓶や化粧道具もすべて東京の百貨店で仕入れたものばかりだ。和室でありながら、その空気はすっかり「ハイカラ」だった。
鏡台の前で髪をほどいた美世子は、知代が入ってきたのを見てふふっと笑った。
「お姉様、遅いわよ。早く結ってちょうだい。今日はちょっと特別な日なのよ」
「はい、お嬢様」
知代は静かに膝をつき、道具を整えて髪を取った。
「特別とは……どんなご用事が?」
美世子は少し身体をそらしながら、待ってましたとばかりに声を弾ませた。
「ええ、実はね――今日、いらっしゃるお客様って、島田孝太郎様なの。うちにもよくいらっしゃる島田中佐の甥御様で、大蔵省の文官なのよ。東京に住んでいて、とても素敵な方なんですって」
知代は櫛を動かす手を止めずに「そうでございますか」とだけ答えた。
「お父様が、私との縁談をお話するつもりなんですって。中佐様が、ぜひにとお勧めしてくださったのよ」
言葉には出さずとも、美世子の声からは、知代に対して「あなたにはこんな話は来ないでしょう」と言わんばかりの得意げな響きが滲んでいた。
知代は微笑を浮かべたまま、髪に櫛を通す。
お静や美世子が望むような「良い結婚」に憧れたことはない。けれど、ほんのわずかに胸をかすめたのは、縁談そのものではなく、それが美世子であるという現実だった。
師範学校に行って、教師になるという夢。かつては父に願い出たが、許されるはずもなかった。
あのとき、心の奥底にしまった夢が、こうして妹の晴れ舞台に押し出されることで、また痛みを伴って思い出された。
「……お姉様? どうしたの? 手が止まってるわよ」
美世子の声に、知代ははっと我に返った。
「申し訳ございません。さあ、縁談の日にふさわしく、綺麗に結わせていただきますね」
気を取り直したように笑みを浮かべると、知代は器用な手つきで髪を結い上げていく。柔らかい波状のカールが耳元に流れ、美世子はうっとりと鏡の自分を眺めた。
「うふふ、これなら孝太郎様もきっと私に夢中になるわね」
「きっと、そうでございます」
満足げに席を立った美世子は、絨毯の上に置かれた洋靴に足を入れながら、振り返って言った。
「今日は、午後からの来客だから、女学校を早退するわ。お着物を着ておめかししなくちゃいけないでしょう?」
知代は黙って頷き、襖を閉めると、美世子の足音が玄関に向かうのを聞いてから、深くひとつ息を吐いた。
それから、静かに立ち上がり、命じられていた客間の掃除に取りかかる。竹箒を握る手に、少しだけ力がこもった。
畳の目にそって丁寧に塵を払う。来る客のためではない。誰のためでもなく、ただ日々の務めとして、彼女は黙々と身体を動かし始めた。