一話
三月上旬。春の兆しがようやく感じられはじめたとはいえ、吐く息は白く、空気は頬を刺すように冷たかった。
横浜の旧道沿い、町の人々に名の知れた呉服屋「村井屋」の格子戸には、かすかな霧がまとわりついている。
知代は、まだ空が青みを帯びる前に目を覚ました。厚手の丹前の下に、こげ茶の無地の紬の着物を着込み、白い足袋を履いて、静かに部屋を出る。
呉服屋の娘といえども、華美な衣は許されない。着物の地味さは、通りがかりの誰かが彼女を女中と見まごうのも無理はないほどだった。けれど、姿勢の美しさや、箒を取る手つきの柔らかさに、育ちの良さが微かに滲んでいた。
土間に降りると、すでに台所では女中の花が火を起こし始めていた。歳の離れた花は、知代の母代わりとも言える存在だった。
炭をくべる手元に迷いはなく、細く結んだ口元に、静かな責任感が見える。
「おはよう、花。朝早くからありがとう」
知代が声をかけると、花は手を止めてわずかに頭を下げた。
「知代さまこそ、お寒いのに……。お風邪など召されませんように気を付けてくださいませね」
知代はにこりと笑い、箒を持って店の前に出る。白い息をひとつついて、道端に積もった落ち葉や細かな砂埃を掃き始めた。
村井屋は、木造二階建ての商家で、格子戸越しに反物の柄見本が飾られている。
表には黒漆喰の蔵と同じような重厚な屋根瓦が広がり、看板には墨字で「村井屋 呉服太物商」とある。店の前の通りは細く、反対側にはまだ開いていない煙草屋や、早くも支度を始めている豆腐屋の桶の音がかすかに聞こえてきた。
箒の音が通りに響き始めたころ、足早に歩くブーツの音が近づいてくる。
「知代!」
快活な声に顔を上げると、通りの向こうから朝倉茉莉花が姿を現した。
茉莉花は紺色のウールの長めのスカートに、真っ白なブラウスを合わせ、上には襟のついたベージュのコートを羽織っていた。
髪はすっきりと後ろでまとめ、赤い口紅が淡く引かれている。東京の逓信省に務める翻訳補助官らしい、機能的でいて洗練された出で立ちだった。
時折小走りになりながら、ハンドバッグを大事そうに抱えている。
「おはよう。こんな寒いのに、掃き掃除?あいかわらず律儀ねぇ」
知代は手を止めて、少しはにかんだように笑った。
「おはよう、茉莉花。……そっちこそ、毎朝早くて大変でしょう?」
茉莉花は小さく笑いながら、知代の手元をそっと見やると、他に誰もいないことを確かめてから、鞄の中から一冊の洋書を取り出した。
布張りの表紙には、金文字で《Pride and Prejudice》と記されている。
「はい、例のオースティン。銀座の古書店でやっと見つけたのよ。少し高かったけど、どうしても渡したくて。貸すわ。でも――奥様に見つからないようにね」
「ありがとう……!」
知代は目を輝かせてそれを受け取り、懐の奥へと素早く滑り込ませた。寒さの残る空気の中、胸の奥にふわりと春の光が灯ったような気がした。
「代わりに、これ。返すわ」
彼女は袖からそっと小さな文庫本を取り出した。それは二葉亭四迷訳の『あひゞき』だった。薄墨色の表紙は手垢でわずかに煤けていたが、大切に読まれた痕跡があった。
女学校の授業では扱わないような内容と文語体に、家人の目を盗みながら読む苦労もあったが、知代はすっかり虜になっていた。
「気に入ったみたいね」
「うん。読んでると、時々苦しくなるけれど……でも、そういう本って、忘れられないのよね」
茉莉花は満足げに頷き、時間を気にして腕時計をちらりと見た。
「じゃあ、行くわね。風邪引かないでね。……また今度」
ひらひらと手を振る茉莉花の背中を見送りながら、知代はそっと胸元に手を当てた。洋書の感触が、心の奥に小さな灯りをともしているようだった。
彼女がまた箒を手にし、落ち葉を掃き集める頃には、通りには朝の光が柔らかく差し始めていた。
掃除を終え、箒を片付けると、知代はそっと家の裏手へ回り、台所の戸を開けた。湯気の向こうに、鍋をかき混ぜる花の背中が見えた。
「花、私も手伝うわ」
その声に、花がわずかに振り返り、微笑を浮かべた。
「じゃあ、味噌汁のお豆腐、切ってもらえますか?」
知代は頷き、手を洗いながら、今朝のほんのひとときを心の奥で反芻した。寒さの中で受け取った一冊の本と、友の声――それだけで、一日がほんの少し、軽くなるような気がしていた。
台所には、かすかに薪のはぜる音が響いていた。まだ冷たい空気の中で、燃え始めた火が鍋底をじわりと温める。窓の外では、うっすらと春霞がかかり、曇った硝子越しに庭の梅の枝が揺れているのが見えた。
花は長年の手つきで大根を刻みながら、時折ちらりと火の番をしている知代の様子をうかがった。朝の支度を手伝うのは毎度のことだが、今日は知代の指先に、どこか軽やかさがあった。白い湯気の向こうで、彼女の表情がふわりと緩んでいる。
「……今朝も、あの子が通ったのですね」
花がふと声をかけると、知代は一瞬動きを止めたが、すぐに薄く微笑んだ。
「ええ。少しだけ……本を貸してもらったの」
花は俯いたまま、静かに頷いた。
「火の番くらい、私がします。少し、目を通されたらいかがですか」
その声音には、命令でも忠告でもない、ただの思いやりがこもっていた。花にとって、知代は主家の娘であり、仕えるべき相手だった。たとえ家の誰もがそう扱わずとも、それが当然だと花は信じている。
知代は一瞬、逡巡するように薪を見つめたが、次の瞬間には懐から布張りの洋書をそっと取り出した。指先がかすかに震える。分厚い本を膝の上に置き、そっと頁を繰る。見慣れぬ横文字の連なりが、彼女の視線にすっと吸い込まれていった。
「すらすら……まるで読めることが当たり前のようですねぇ」
花はそうつぶやきながらも、手元の包丁の動きを止めなかった。英文が何と書かれているのか、花にはまるで見当がつかない。それでも、知代の目に宿る光を見れば、それがどれほど彼女にとって特別な時間であるかは、容易に察することができた。
そのとき、廊下を伝って、規則正しい足音が近づいてきた。
知代は反射的に本を閉じ、懐に滑り込ませた。動作に迷いはなく、まるで何百回も繰り返してきたようだった。花も手を止め、台所の入口に視線を向ける。
障子の向こうで、衣擦れの音とともに、ゆっくりと扉が開いた。
そこに立っていたのは、お静だった。
白粉を塗り重ねた顔は血の気がなく、紅の色だけが艶やかに浮かび上がっていた。眉は細く、つり上がり気味で、目元には決して心からの笑みを浮かべることのない硬さがある。
着ているのは淡い紫色の訪問着で、朝には少し不釣り合いなほどに華やかだ。香の強い匂いが、朝の湯気と混じって、どこか人工的な冷たさを漂わせていた。
その姿が台所に入ってくると、空気が一瞬で張り詰める。
「おはようございます、奥様」
知代が背筋を伸ばし、頭を下げると、花もすぐにそれに倣った。けれど、お静の目には二人の姿がまるで空気のようにしか映っていないかのようだった。
「朝からぼんやりしていないで、働いてちょうだい。……今日は午後にお客様がいらっしゃるの。客間に埃一つないように掃除しておいて」
その声は鋭く、そして冷たかった。花に向けられたように言われたその言葉には、知代も当然その労働力に含まれているという前提が含まれていた。
「はい、かしこまりました」
花が深く頭を下げると、知代も沈黙のまま従った。お静は一瞥をくれただけで、戸口を踵を返し、再び廊下を歩き去っていった。足音が遠ざかるにつれ、台所の中にほんのわずか、湯気の温もりが戻ってくる。
知代は静かに立ち上がり、鍋の蓋を少し持ち上げた。湯気が白く立ち昇る中、その頬には、うっすらと紅潮が差していた。それは羞恥でも、恐れでもない。寒さと緊張の混じった、少女の静かな抵抗のようにも見えた。
花は湯気越しに知代の背中を見つめながら、静かに祈った。
――この子の中に灯った火が、どうか風に消されることなく、燃え続けますように。
そしてまた、台所には木杓子が鍋を混ぜる音と、薪のはぜる小さな音が戻ってきた。