表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

断罪 ~王太子殿下、これは裏切りの代償ですわ

作者: 入多麗夜

 

 陽が傾きかけた午後、王宮の大広間には、重苦しい沈黙が満ちていた。


 絹と金糸で飾られた赤絨毯の上に、ひとりの青年が立っている。王太子アレクシス・アルベリオン。この国の未来を預かるはずの男。彼の姿は堂々としていた。まるで、自分が今から口にする言葉が、どれほどの波紋を呼ぶかを理解していないかのように。


「……僕は、リュシアと結婚する」


  静かだが確かな声音が、広間の空気を凍らせた。


 その場に居並ぶのは、宰相を筆頭とした王家の重臣たち、各地の有力貴族、そして公爵令嬢アリス・エスティリス。


 彼女はアレクシスの正式な婚約者である。

 国家の安定と外交の均衡を担うその婚姻は、単なる私的な関係ではなく、政治の中枢を成す契約だった。


 にもかかわらず――王太子は、それを今、この場で、一方的に破棄しようとしている。


「政略結婚など、時代遅れだ。僕は真実の愛に従いたい。リュシアは、僕を理解してくれるはずだ」


 彼の声には高揚すら混じっていた。まるで自分が、時代に風穴を空ける英雄だとでも思い込んでいるような、空疎な情熱。


 その隣に立つリュシア・カルンディス――男爵家の娘は、可憐な外見に反して、したたかな笑みを浮かべていた。周囲の視線に怯えることもなく、王太子の腕に寄り添い、勝者の顔をしている。


 誰もが言葉を失っていた。あまりにも唐突で、あまりにも軽薄だったからだ。


 だが、アリスだけは違った。


 彼女は椅子から静かに立ち上がり、緩やかな仕草でスカートの裾を整えると、まっすぐ王太子を見据えた。


「……そう。では、改めてお聞きしますわ、アレクシス殿下」


 声は穏やかだったが、その裏に潜む冷たい感覚に、何人かの貴族が思わず息を呑んだ。


「王家の威信を賭した婚姻を、自らの恋心で覆すと、そう仰るのですね?」


「……そうだ。僕は、もう君とは結婚できない」


 愚かだ、という思いが胸を過ったが、アリスは表に出さなかった。いや、出す価値もないと判断した。


 すでにこの男は、“誰の言葉も耳に入らぬ場所”まで堕ちている。


 己が正しいと信じて疑わない者ほど、始末に負えないものはない。

 ましてそれが、王家の血を引く者であれば――周囲は誰も、それを否定できない。


 哀れだと、思う余地すらなかった。

 かつては、多少なりとも理性と見識を持ち合わせていたはずの男が、今や一人の女に惑い、国家の均衡を壊す愚行を誇らしげに語っている。

 見下すことすら、もはや無意味だった


 アリスは静かに息を吸い、感情のすべてを胸の奥底に押し込めた。

 怒りも、軽蔑も、悲しみも、必要のないものだ。今この場にいるのは、失恋に傷つく娘ではなく、国家と家門の尊厳を守る“エスティリス公爵家の嫡女”であるべきなのだから。


「――では、こちらも然るべき対応を取らせていただきます。殿下の行為は、単なる婚約破棄ではすまないでしょう」


 その言葉に、ざわめきが走った。

 王族の前で、その発言がいかに異例であるか。けれど、アリスの声は揺れなかった。


 そして彼女は、まっすぐに背を伸ばし、王太子と、その隣に立つ女を見つめた。


 この女は本来、王太子の隣に立つべきではない――そう確信していた。

 品位がないとか、身分が釣り合わないとか、そんな皮相な理由ではない。


 彼女の“何か”が、明らかにここの空気と馴染んでいない。

 見た目も振る舞いも淑やかに整えてはいる。だが、そこにはどこか、“異物感”があった。


 まるで他人の期待に沿って描かれた、“完璧な婚約者”を忠実に演じているかのように。

 それが本当に無垢な愛の形だというなら――なぜ、視線の奥にあれほど冷めた光があるのだろう。


 リュシア・カルンディス。

 男爵家の名を持ちながら、王太子に取り入る以前の彼女の足跡は、妙に曖昧だった。


 学友の記録、社交界での交友、王都に上がってきた経緯――どれも腑に落ちない。


 知られていないのではない。“知られたくないこと”を、慎重に覆い隠しているだけだ。


 この女は、ただ“惚れられた幸運な娘”ではない。

 自らの意志でここに立っている。最初から、王太子の隣を目指して。


 アリスは静かに目を伏せ、胸中でひとつ息をついた。

 言葉にすれば角が立つ。今はまだ、時ではない。

 だがいずれ、すべては明らかになる。

 それは、国家にとっても、王家にとっても、決して小さな代償では済まされないことになるだろう。




 ◇




 冬の朝は、何もかもが遅く、そして重い。


 白霧に包まれた王都の中心、議会塔に併設された評議会議堂には、王国でも名のある大貴族たちが次々と姿を現していた。

 その顔ぶれは、儀礼的な会合とは違う。重鎮たちが“腰を上げる”とき、それはすなわち、国家の根幹が揺らいでいる証である。


 その中心に据えられたのは、王太子アレクシス・アルベリオン。

 そして、彼に“公的な申し立て”を行ったのは、アリス・エスティリス――エスティリス公爵家の令嬢だった。


「本日この場において、婚約破棄に関する個人間の感情論を持ち込む意図はございません」


 アリスは、始まりの言葉としてそう言い切った。


 その声音は端正で、抑揚のない平坦なものでありながら、不思議と議場全体の視線を引きつける強さを持っていた。


「私が訴えるのは、王家の名の下に行われた公的婚約の破棄。及び、その過程において確認された、“政務上の複数の不正”についてです」


 ざわ、と静かな波が起こった。

 議場の空気が、緊張の糸をはらんでいく。


 傍らで控えていた書記が、一枚の書状を広げた。

 それは王宮財務局から提出された公式の収支記録。

 そして、その中には王太子名義で出された“外交交際費”が含まれていたが――


「問題は、この交際費の使途が、正式な外交儀礼に照らしても不自然に偏っていること。そして、そのうちのいくつかは、無断に使用されているという点にございます」


「無断に……?」


 低く呻いたのは、重臣のひとり。

 だがアリスは頷いた。


「加えて、使者を伴わぬ外出の頻度、女官の不審な配置換え、記録のない書簡の持ち出し。……これらが、すべて“殿下の私的な判断”によるものとするならば――」


 彼女は一拍置いて、王太子を見据えた。


「――もはや、それは“恋の自由”ではなく、“国政の私物化”と受け取られても、致し方ないかと存じます」


 扇の落ちる音すら響きそうな沈黙の中で、貴族たちの視線が徐々に王太子から離れていく。


 つまり――そういうことだ。


 民の血税によって支えられてきた宮廷費。

 地方の混乱を収めるために捻出された外交交際費。

 内政の綻びを修繕するために、各地の有力者が利を削って積み上げてきた信頼と協調。


 それらすべてを、“一介の私情”によって浪費していたというのなら――それは、政治ではなく浪費。統治ではなく裏切りだ。


 重鎮たちの心に浮かんだのは、義憤というにはあまりに静かな、確かな“断絶”の感覚だった。


 長年、政に携わる者たちは知っている。

 愛だの自由だのという言葉は、己の胸の内に留めるべきものであって、公の器を歪めてまで貫くものではない。


 アリスの言葉が示したのは、まさしくその境界線だった。

 彼女の訴えは、王太子の恋を咎めるものではない。ただ、その恋の代償として、誰が、何を失ったのか――それを問いただしているに過ぎない。


 王太子の顔から、次第に血の気が引いていく。

 場を支配していたはずの青年は、いまや誰の言葉にも反論できぬ、ただの若造にすぎなかった。


 誰も、彼の言葉を信じようとはしない。

 なぜなら――それだけの証拠が、すでに示されているのだから。


「……では最後に、リュシア・カルンディス嬢に関する、いくつかの確認事項を提示させていただきます」


 アリスは静かに、手元の資料に目を落とした。

 書記官が、数枚の文書を議員たちのもとへ配る。

 それは“出自記録”――王都に入城した際に提出された身元情報と、各地の貴族台帳を照合したものである。


 そこには驚くべき内容が記載されていた。


「まず、王都への入城時に提出された身元証明書では、彼女は『南方準男爵家カルンディスの一人娘』と記されております。ですが……該当地域に、該当する家名は確認されておりません」


 数名の老臣が、眉をひそめる。


「また、提出された紹介状は、王都の商会を通して“後日提出”という形になっておりますが、指定された商会そのものが、すでに二年前に解散していたことが確認されました」


 静かな動揺が広がった。

 “出自に疑いがある”――それは、王宮に出入りする資格そのものが問われる重大な問題だ。


「彼女が使用していた“カルンディス”という姓は、過去に周辺国で幾度か使われた通称と一致しており――記録上、同名義で複数の身分登録が存在しております。これは、単なる名の重なりとは考えにくく、意図的な名義操作の可能性があります」


 アリスの口調は、あくまで冷静だった。ただ、淡々と事実だけを並べる――


 だが、その事実がいかに“異常”であるかを、誰よりも雄弁に物語っていた。


「ただ、身元のはっきりしない人物が、政務に関わる書簡を持ち出しながら、王太子殿下の私邸を自由に出入りしていたという事実を、見過ごすわけにはまいりません」


 場内が、再び静まり返る。


 誰もが、ようやく理解し始めていた。

 これは単なる婚約の破棄や、王太子の軽率な情事を咎める話ではない――そんな生易しい範疇ではないのだ。


 王家に近づいた、正体不明の女。

 政務の中枢に触れられる立場にありながら、その出自は虚偽にまみれ、関係記録すら曖昧。

 そして、それを王太子が自らの意思で招き入れ、庇い、政に関わらせていた。


 もはやこれは、安全保障の問題であった。


 内政の情報がどこへ流れ、外交の駆け引きがどう影響されたかは、もはや想像の域を超えている。


 敵か味方かも分からぬ者に政務書簡が渡っているかもしれないという現実。それを、王太子が怠っていたという事実。それは、国家として最も忌むべき“恥”に他ならない。


 重鎮たちの表情が、ひとつ、またひとつと硬化していく。

 王太子を正面から見据えるその目には、もはや敬意も遠慮もなかった。


 ――処分が必要だ。

 その空気は、誰が声に出すまでもなく、議場全体を覆い始めていた。


「以上の点を踏まえ、エスティリス公爵家より提案いたします」


 アリスは、扇をゆっくりと閉じた。


「リュシア・カルンディス嬢を、本件に関する参考人として議場に召喚し、正式に事情をお尋ねしたく存じます」


 どよめきが広がった。

 

 王政の中枢たるこの評議の場に、身分も立場も不確かな一介の娘を召喚する。それは尋問という域を超え、王家の選定そのものに疑義を呈する行為に等しい。


 前例もなければ、誰も口にすることさえはばかられてきた手続きだった。


 だが、反対する者はいなかった。

 誰もが、理解していたのだ。

 それがどれほど異例な提案であろうとも、今この場においては、必要不可欠である事を。


 ただ一人、王太子を除いて。


「待て、そんな……!」


 アレクシスの声が、上ずった。


「リュシアは関係ない! 彼女は、ただ僕と……私的な関係にあるだけで、国政に関わるようなことは――」


「では、証言を以て、それを明らかにしていただきましょう」


「殿下が“何もない”と仰るのであれば、それを否定する者はおりません。ですが――“ない”と断定する証拠はないでしょう?」


 沈黙。


 アレクシスの口が、動かない。


 呼び出せば、終わると知っているのだ。

 リュシアがこの場に立ち、誰かの問いかけに答えれば――その言葉一つで、真実が露見する。

 あるいは、彼女自身が、何も言えずに沈黙したとしても。


「……彼女を、呼ぶ必要はない」


 震えた声で、王太子はそう告げた。


 ――そして、その瞬間だった。

 議場全体の空気が、静かに、決定的に変わったのは。


 重鎮のひとりが、重い椅子を引いた。

 他の貴族たちもまた、次々と姿勢を正し、沈黙のまま視線を王太子から逸らしていく。


 それは、拒絶だった。


 もはや、彼に国の未来を託すわけにはいかぬ。

 誰も言葉にせずとも、その場にいたすべての者が、心に決めていた。


 アレクシス・アルベリオンは、自らの愚かさによって、“次代の王”という資格を失ったのだ。




 ◇




 召喚の議決が可決されたその夜、リュシア・カルンディスの姿は、王都から忽然と姿を消した。


 王太子の私邸には、空になった化粧台と、引き抜かれた帳簿の数ページ。

 女官のひとりが「召使いにしては不自然なほど慌てていた」と証言したが、誰も正確な行き先は知らなかった。


 だが、アリスは微かに笑んだだけだった。

 想定の範囲内。

 むしろ“彼女が逃げる”こと自体が、すでに証明されたようなものであったからだ。


 翌朝、北の国境付近でひとりの女が捕らえられた。偽名の通行証、変装用の衣服、王都の地図と共に。


 リュシア・カルンディス――その名を語る女が、隠し持っていた荷の中には、国外王侯宛の暗号文と、王宮内で撮られた地図の縮図。


 言い逃れは、もはやできなかった。


「……彼女は、辺境公国の情報局に属する人物と見られます」


 評議会での報告は、淡々と読み上げられた。

 告発というにはあまりに冷静で、糾弾というにはあまりにもあっけなかった。


 そしてリュシアは――抗弁も聞く間もなく裁かれた。


 異国の名を偽り、王太子に近づき、国の中枢にまで入り込んだ女。

 だが彼女は何も言わなかった。

 捕らえられたその時も、書簡の証拠が突きつけられた時も、評議会で名を読み上げられた今この瞬間でさえ――その唇は一度も動くことはなかった。


 まるで、初めから言葉など持たぬ者であるかのように。

 あるいは、語る価値もないと、自ら悟っていたかのように。


 処罰の詳細は、追って王命に委ねられるとだけ記され、名簿には“拘束中”の文字が添えられた。


 そうしてリュシア・カルンディスという名は、こうして公の記録に刻まれ、同時に歴史から消えていった。


 一方、王太子アレクシスは――評議会の場に、ついに姿を現さなかった。

 それは黙秘でも反論でもない。ただの、逃避だった。


 翌日、王宮を通じて彼から提出された文書には、わずか数行の文章が記されていた。


「一切の責を負い、王位継承権を放棄いたします」


 印は震えていた。

 それが彼の手によって押されたものかどうかすら、誰も確かめようとはしなかった。


 重臣たちは無言でそれを受け取り、然るべき手続きを進めるのみだった。


 かつて「未来の王」とまで謳われた青年は、今や王位も、信頼も、そして敬意さえも、自らの手で手放す羽目となったのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ