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夕映え(4)

「…お話、してみようか」


 何を? と首を傾げる私の前で、彼はしなやかに手を動かしている。


 彼の両方の手のひらは顔の横側で私に向けて広げると、両手を交差させて顔を隠した。そして、左の手のひらを下に向けて胸の前におき、右手で英語の"C"を作ると、左手の小指側の左手より上の位置から下におろす。さいごに、左手の手のひらに右手の手のひらを置いて、撫でるようにシュッと右方向へ動かすと、彼は笑顔を浮かべた。


 ほどなくして、彼の“声”を理解した私は、湧き上がってくる感情を押さえながら、彼の言葉を唇に乗せた。


「       」


「うん、そうだよ。あなたもそう思わない?」


 たった今伝えられた言葉を復唱するように唇を動かした私に、彼は甘い笑顔を浮かべながら正解だと答えた。


 泣きたくなるほどに美しい言葉を手話で伝えられた私は、どうしようもなくなって、必死に頷いた。


 ——夕日が、綺麗ですね。

 彼は手話で、そんなロマンチックなことを言ったのだ。


「(…どこかで聞いたことがあるなあ)」


 ぱくぱくと口を動かす私へと、そうだね、と嬉しそうな声が降ってくる。


 来栖くんはふふっと笑うと、私の耳元に顔を近づけた。


「かの文豪が、アイラブユーと訳したことで有名なフレーズに似せてみた」


 そう甘い声で囁かれた私は、真っ白になっていく頭と闘いながら、必死に唇を動かした。


「(月が、きれい、ですね)」


 来栖くんがくれたわかりやすいヒントから、大好きな作品のうちの一つにある一文であることを察した私は、恥ずかしくてしょうがないと主張する心臓の音を隠すように胸に手を当て、そう伝えた。


「そうだよ」


 金魚のように顔を真っ赤にさせているであろう私とは反対に、来栖くんは変わらず笑みを浮かべているだけだった。


 来栖くんは私をドキドキさせる天才なのかもしれない。それとも単に、私が男の子に対して免疫がないから、勝手にときめいているだけなのか。そのどちらも正解のような気がした。


「…誰かに、言われたことはある?」


 ふいに、来栖くんはそう言った。話題が話題なだけあって、ひとりで恥ずかしく思っていた私は、今来栖くんがどんな表情をしているのか気にも留めずに、必死に否定をする。


「(ないに決まってるよ。……でも)」


 でも、と続きの言葉を紡ごうとする私の唇を見つめる瞳が、背後から注ぎ込む夕陽を受けて、刹那、茜色を帯びた。


「でも、なに?」


 続きを聞きたがっている来栖くんに向かって、私は照れくさくなりながらもこう伝えた。そんな告白をする人がいたらすてきだね、と。


「…そうだね。すてきだね」


 来栖くんは小さく笑うと、肩に掛けていた鞄を掛け直し、すぐ上にある電光掲示板を一瞥すると、私に視線を戻した。


 綺麗な唇が、またね、と囁く。


「(また、ね)」


 私は右手の人差し指、中指の指先をつけ合わせて、右肩の前に置き、指文字の"に"を作りながら、左下に振りおろした。そして、両手の人差し指を立て、お互いの指の腹を向かい合わせる。


 それを見ていた来栖くんは、閉まっていくドア越しに、私に向けて同じように手を動かした。


 ——またね。その意味を持つ手の動作に、鼓動が高鳴っていく。


 来栖くんは、私を喜ばせるのが上手い。わかっていたように簡単にやってしまうから、私の心臓は煩く鳴りっぱなしだ。


 今日も私は、自分のことに夢中で、来栖くんが落としていく秘密を拾うことが出来なかった。背後から忍び寄ってくる白い影の存在にも気付かないまま、私は馬鹿みたいに笑っていたんだ。



「——おかえりなさい、愛理」


 帰宅した私を一番に出迎えるのは、大好きな母だ。ただいま、と口を動かす私に微笑みかけると、夕飯のメニューを告げて、リビングの奥へと消えていく。


 重いスクール鞄を置き、窮屈なローファーを脱ぎ捨てた時、飼い猫である黒猫のクロが駆け寄って来た。


 クロは私の足に顔をぐりぐりと押し付けると、撫でてくれと言わんばかりに鳴き始める。この子に甘い私は、制服を着ていることを忘れて、クロを抱き上げて頬をスリスリとしてしまうのだ。


「(ただいま、くうちゃん)」


 無論、制服は毛だらけ。この後お母さんに怒られながら、ブラシで綺麗にされる未来が想像できる。


 私はクロを抱き上げたまま階段を駆け上がり、自分の部屋に入った。ベッドの上にクロを乗せ、毛だらけになったブレザーをハンガーに掛ける。


「愛理、ご飯よー!」


「(はあい)」


 下の階にあるリビングから放たれた母の声に、口を動かして返事をした私は、クロを連れて階段を駆け下りた。


 私には、声がない。だけど、温かい家族がいる。それだけでしあわせなのではないだろうか。そんならしくもないことを考えた私は、リビングから漂うカレーの香りに目を細めた。


 お母さんがいて、お父さんがいる。私に懐いている猫がいて、毎日温かいご飯が用意されている。これは誰もが同じというわけではないはずだ。


 声がなくたって、わたしは幸せなんだ。そう気づけたのは、きっと、親子を見て優しく微笑む彼に出会えたからだ。

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