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夕映え(3)

 昨日と同じように焼き菓子屋さんに寄った私たちは、シフォンケーキとアールグレイでお茶をした。


 来栖くんはどれにしようか悩んでいる私を置いて、昨日と同じように私が好きな味を買ってくれていた。今日はそれだけではなく、私が紅茶にミルクを二つ、角砂糖を一つ入れることまで知っていた。


 馬鹿な私は、来栖くんにお金を払わせてくれと懇願することに必死で、どうして私が好きなものを知っているのか、その理由を尋ね忘れた。



 踏切の警鐘(けいしょう)が強く聞こえる駅のホームから、見慣れた灰色の電車に乗った私は、目の前に立つ来栖くんの横顔を見つめていた。胴を震わせるかのように揺れた電車が、バランスが取れない私の体を大きく傾かせる。


 私は倒れまいと近くにあった手すりに手を伸ばしたのだけれど、この手はそれを掴むことなく、電車の揺れに連れて行かれるように倒れた。


 ──けれど。


「大丈夫?」


 冷たい床に打ち付けるはずだった私の体は、窓の向こうの景色を眺めていた来栖くんに抱き留められていた。


「(ご、ごめんなさい)」


 来栖くんはふんわりと笑うと、首を横に振って、私を自身の真横に導いた。ここを掴んで、と言われた通りに彼の横にある手すりに摑まれば、手の甲に彼の衣服が触れる。


 その柔らかな感触と空気を伝ってきた柔軟剤の匂いに、ほぐされたような優しい気持ちになる。必死に柔軟剤の香りを吟味していたお母さんの心情がわかったような気がした。


 いつの間にか、来栖くんの視線は窓の向こうではなく、私の右側にある優先席へと向けられていた。お母さん、と楽しそうに笑う子供の声が聞こえるから、親子の姿でも見ているのだろう。


 来栖くんがあまりにも優しい眼差しを向けているから、私も気になってしまう。


 私はそっと右に目を動かし、来栖くんが見ているものを世界に映した。


 そこには、手話で会話をしている母親と子供がいた。


 手話とは、手の位置、手の形、手の動きなどを組み合わせて意味を伝える表意記号で、コミュニケーション手段の一つだ。聴力に障がいがある人や、私のような声が出ない人が自分の言葉を伝える時に用いられている。


 来栖くんは手話で会話をしている親子を見て、優しい顔をしていたのだ。


 子供の手のひらが、両手で1回何かを押さえるようにした後、両手のひらを左右の胸にあて、交互に2回程、上下に動かされる。それを見つめていた来栖くんの表情が、また優しいものへと変わった。


 手話ができる私は、手の動きを見ればそれを理解することができる。今の動きから伝わってきた子供の“声”を聞いた私は、母親と来栖くんにつられるように、顔を綻ばせた。


(…きょうは、たのしかった)


 今日は、楽しかった。子供は今、母親にそう伝えていた。


 来栖くんもそれを理解したから、優しい顔をしているのだろう。ということは、彼は手話を知っているのだろうか。


「(あの、来栖くん)」


「うん?」


 親子を見つめている瞳が、私の口元へと動く。


「(手話、わかるの?)」


 思い切って投げた質問に、彼は笑顔で「うん、わかるよ」と答えた。


 すごいなあ。勉強ができる人は手話もできるのかな。それだけではなく、なんでも知っているのかな。


 子供のように瞳を輝かせた私へと、さっきまで親子に向けられていた優しい眼差しが注がれる。


「(すごい。私、同級生で手話ができる人、これで二人目だよ)」


「……二人目?」


「(うん、二人目)」


 私の口元をじっと見つめていた瞳が、真ん丸に見開かれる。何に驚いたのだろう。


 私は胸が高鳴っていくのを感じながら、嬉しい、と伝えるために、手を動かした。彼の不思議を、また一つ見落としたことに気付かないまま。


「(来栖くんは、どうして手話ができるの?)」


 私の問いかけに、少しだけ下を向いていた顔が上がる。やわらかに揺れた髪は、透けるように艶やかで、まるでそこに揺蕩うようだった。


「…ある人のために、勉強をしたから」


 顔を上げた来栖くんは、私を見つめているけれど、私じゃない誰かを見ているようだった。


 たぶん、きっと、たった今言っていた“ある人”のことを想いながら、声を奏でたのだろう。


「その人は、あなたと同じように、声が出なくて」


 融けてしまいそうなくらいに、優しい表情をしながら。


「これを勉強したら、話せると思ったんだ」


 溶け込むような甘い声で、そう言った。


「…精一杯唇を動かしているのに、何一つ音を奏でられないその人の“声”が聞きたくて、読唇術も身につけた」


 私と話しているのに、私でない誰かに囁かれている告白が、じわじわと肺の奥に流れ込んでいく。


 そっかあ、そうだったんだ、と言いたくても言えない私の声もまた、同じように流れていった。


「だから、あなたの声も聞こえる」


 決して不思議ではなく当たり前なんだよ、とでも言うかのように飾られた笑顔があまりにも美しくて、私の目は釘付けになった。


 人はそれを、一目惚れというのだろうが、私はそうは思えない。


 自分ではない別の人のために培ったものに、この心は揺さぶられているのだ。そんなの、彼の優しさに溺れているだけじゃないか。


 そう理解して、美しい彼から目を逸らしたのに、彼は私を自由にさせてはくれなかった。


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