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夕映え(2)

「…あまり、俺と関わらない方がいいんじゃないかな」


 そっと突き放すような言い方に、肺の奥が苦しくなる。関わるようになってから二日目の人間に、どうしてこうも心臓を握られたような気持ちになるのだろう。

 私はどこかで、彼に会ったことがあるのだろうか。


「あなたも、俺のよくない噂を聞いたんだろう?」


 よくない、噂。それは今朝由香から聞いた、来栖くんに関する噂のことだろう。


 それを聞いたからって、何が変わるというの。噂は噂だ。世間で言いふらされている明確でない話だ。自分で見聞きしたものこそ、本当のことなのに。


「一緒に居るところを誰かに見られたら、絡まれてしまうよ」


 寂しそうな声で、遠回しに突き放すことを、来栖くんは言う。


 ねえ、神様。この世に存在しているのなら、教えてください。どうして私は、来栖くんのことが気になってしょうがないのでしょう。


 神様なんていないことを誰よりも解っているのに、そんなことを願ってしまったのは、やっぱり来栖くんのせいだ。


 そんな私の心を見透かしたように、力なく微笑んだ来栖くんに、私は無意識に声なき声を投げていた。


「(…知りたいの。来栖くんの、こと)」


 来栖くんのことが、知りたい。どうして私が言っていることがわかるのか聞きたい。それを聞いてはいけないと、私のどこかにいる誰かが忠告しているような気がしたけれど、聞きたいのだ。


 彼のことが気になってしょうがない理由を、見つけたいのだ。


「日比谷さん」


 彼は困ったように眉尻を下げると、私に手を差し出した。おいで、とでも言うかのように差し出された手に、私は何をすればよいのだろう。


「(くるすくん…?)」


 どうしたらいいの、と助けを乞うように彼の名を唇に乗せれば、彼は口元を綻ばせ、私の元に歩み寄る。


「途中まで、一緒に帰ろう」


 いつの日か、どこかで聞いたことがある声と台詞に、私の鼓動は加速する。やっぱり私は、どこかで来栖くんと会ったことがあるのかもしれない。


 彼は呆けたように立ち尽くしている私の右手をそっと握ると、ゆっくりと歩き出した。



 まるで初めからそうしていたかのように繋がれているのは、私の右手と来栖くんの左手だ。何食わぬ顔で私の右手を握った来栖くんは、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれていた。


 右手にある熱が、来栖くんに伝わっていなければいいと思う。


 世間は手を繋いでいる男女を見たら、その関係を何と形容するのだろう。もしも私の脳内で浮かび上がっている名詞を付けられたとしたら、来栖くんはどう思うのだろう。


 迷惑だと、思われるのだろうか。いや、迷惑だと思われるだろう。なぜなら私が、普通の女の子ではなく、声が出ないかわいそうな人間だからだ。


 その考えと感情に引きずられるように、私の足が止まる。彼から逃れるように、私の右手は彼の左手からそっと離れた。


 突然に足を止めるなり手を離した私を、一歩先に居る来栖くんが振り返る。


 私の声が聞こえるならば、私の心も見えるのかな。そんな超人的な能力を持つ人なんて、この世界には存在しないのに、灰色に輝く瞳に見つめられると、そう思ってしまう。


 来栖くんは私へと一歩近づくと、初めからやり直すように、再び私の右手を握った。


 私を見つめていた瞳は、見慣れた街並みへと向けられている。


「…俺はね、普通じゃないんだと思う」


 来栖くんは思い出すように声を落とした。


 普通じゃないって、どういうことだろう。私と同じように、みんなが持っているものを持っていないのかな。人としておかしい何かがあるのかな。


 来栖くんは私の目を一度見ると、苦笑を交えて「あなたが予想しているようなものだよ」と言った。私が予想しているようなものということは、みんなとは違うってことだろう。


「今までこれが普通だと思って生きてきたけど、ある日、そうじゃないんだと知った」


 他人事のように語るその横顔に、胸が苦しくなる。


 私も、私は私でこれが普通だと思って生きてきたけれど、ある時、自分は人とは違うんだなあ、と思ったことがある。何度も自分に言い聞かせ、色々なことを諦めてきた私は、今の来栖くんの言葉が他人事には思えなかった。


 同じだなあ。そう無意識のうちに唇を動かして、隣を見上げる。すると、研ぎ澄まされたような眼差しに私の視線はとらわれ、その拍子に息を飲んでしまった。


「普通じゃなくて、異常なんだ」


 その声は、驚くほど冷たかった。彼であって彼じゃないような声だった。


「ひとりの人間として、誰もが持っているものを持っていなくて、誰も持っていないものを持っている」


 私の右手を握る彼の左手に、ぎゅっと力が込められた。この手と彼の手が繋がれてから結構経っているというのに、彼の手が変わらず冷たいのは、私の手の温度が移らなかったからだろう。


 手の熱が伝わらなければいいと願った、少し前の自分を恨めしく思う。


 私は右手に力を込めた。性別上彼の力には勝てっこないけれど、それでも構わないから、負けじと握り返した。


 そうして、名前を読んだ。


「(くるすくん)」


 少し間を置いて、恐れるように私へと動いた瞳に私が映る。


「(…わたしも、ふつうじゃないよ)」


 来栖くんが言う「普通じゃない」は、私のとは違うかもしれないけれど、言っておかなければならないような気がした。


 私には分かるのだ。どうして自分だけこうなのだろう、という孤立した寂しさが、痛いほどわかる。自分も同じだよ、という言葉がどれほどの安心を齎してくれるか。


「…だからなのかもね。あなたを前にすると、不思議と胸が軽くなるんだ」


 来栖くんはふふっと笑うと、「今日も焼き菓子屋さんに寄ろうか」と言って、私の手を引いていった。


 二度目の寄り道が何度目かの寄り道に思えたのは、何故なのだろう。



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