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夕映え(1)

 綺麗な黒瞳が、差し込む光を受けて灰色を放つ。その中心に、泣きそうな顔をしている私が映っていた。


 彼は開きかけていた唇を閉ざすと、私の方へと一歩、足を動かした。縮まる距離に、鼓動が一度だけ大きく跳ねる。


 どうしよう。どうしたらいいんだろう、こんな時は。彼を呼んだのは他の誰でもない私なのに、呼び止めた今、これからどうしたらいいのかが何もわからなかった。


 私はぎゅっと手を握りしめて、彼の目を真っすぐに見た。そうしなければならない理由があるような気がしたのだ。


 気がした、気がする、なんて不確かなことばかり思ってしまうのは、相手が来栖くんだからだ。私の声なき声に、当たり前のように声を返してくれるから、知りたくなってしまった。


 彼は今、何を思っているのだろう、と。


「(…いま、帰り?)」


 私の声なき言葉で綴られた問いかけに、彼はそっと唇をほころばせると、また一歩、私との距離を詰めた。


「そうだよ。…鞄を持って、下駄箱で靴を履き替えたんだから、帰宅以外の答えが見つからないんじゃないかと思うけどね」


 彼は小さく笑って、私の頭をそっと撫でた。名残惜しそうに離れた手の温度が、昨日と変わらずとても冷たくて、なんだか泣きたくなった。


 昔、お母さんが「手が冷たい人は、心があたたかくて優しい人なのよ」と言っていた。だから同じように手が冷たい父も、本当は優しい人なのだと思っている。


 きっと、来栖くんもそうだ。驚くほど手が冷たい彼は、心はとてもあたたかくて、優しい人なのだ。伝わるはずがないのに、私は心の中でそうでしょう、と来栖くんに問いかけた。


 来栖くんは優しく微笑んだまま、私を見つめ返していた。


 ふいに、私を見つめていた来栖くんの目が、私の後方へと逸らされる。その先にあるのは、大きな柱時計と掲示板だ。


 もしや来栖くんは急いでいたのだろうか。だから颯爽と帰り支度をして、誰よりも早く教室を出ていったのだろうか。


 もしもそうならば、私は彼に悪いことをしてしまったことになる。まだ疑惑の段階であるというのに、悪い方に考えて悩みだすのは、私の悪い癖だ。


 今帰りなのかと聞いたきり、口を噤んだ私に気を使ったのか、早く帰るためなのかは分からないが、来栖くんは少し屈んで私に目線を合わせると、昨日と同じように「またあしたね」と言った。


 また、あしたね。別れ際に贈る、また明日に逢う約束の言葉。希望に満ちている言の葉だというのに、来栖くんから贈られると、なんだかやっぱりせつない。


 どうしてなんだろう。どうしてこんなにも気になるのだろう。そうこう考えているうちに、今度こそ背を向けて歩き出していった来栖くんの姿が小さくなっていく。


 気になるなら追いかければいいだけの話だ。追いかけて、聞けばいいだけのこと。それができないのは、私が私とコミュニケーションを取ることに慣れた人以外とは関わらないようにしているからだ。そうしないと、迷惑を掛けてしまうから。


「(……でも、やだ)」


 そう思ってはいても、体は正直だ。待って、と動いた唇に連れて行かれるように、私の体は動く。いつもの倍以上の速さで動く右手が、勢いよく下駄箱を開けて、乱暴に脱いだ上履きをその中に放り込む。そして弾かれたように右を向くと、遠ざかっていく来栖くんを追うように、私の足は勢いよく地を蹴った。


 なんでこんなことをしているのかはわからない。どうしてこんなに必死になっているのかはわからない。今日もわからないことだらけで笑ってしまうけれど、必死に何かをしている自分がいることに気付いた時、笑えなくなってしまった。


「(…まって、くるすくんっ)」


 傍から見たら、必死に口を動かしながら走っている、変な人だと思われているだろう。同じクラスの人が見ていたら、明日の噂の的になるかもしれない。昨日までの私なら、それらを恐れてこんなことは絶対にしなかったと思う。


 でもそれでも、今の私は、あの男の子を追いかけなければという身勝手な理由で、必死になっているんだ。


「(——くるすくんっ…!)」


 何度目か分からない、永遠に空気に馴染まない声で、彼の背中に向かって叫び続けた時。


「……日比谷さん」


 来栖くんは、今にも泣きそうな顔で私を振り返った。


 ああ、やっぱり、君には私の声が聞こえているんだ。彼は科学では証明できない何かを持っているんだ。そんなものは存在しないのに、と馬鹿にされようが、その存在があるのではないかと思えてしまうことを、私は今、この身で実感している。


 ほんの少し冷たい秋風が、来栖くんの左目に掛かっている前髪を揺らした。色白い顔に飾られた枯れる花のような微笑が、秋に溶けるように消える。


「どうして、追いかけてきたの?」


 彼の柔らかな声が、空気を駆け巡って私の鼓膜を揺らす。


 分からないけど、追いかけたかった。もう内容は飛んでしまったけれど、聞きたいことがあったはずだった。だから君を追いかけてきたのだと伝えたいのに、私の唇は震えて動かなかった。

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