絢爛(5)
「——来栖が、チョコチップエスパー?」
翌日の朝、教室に到着した私は、朝練を終えた由香に昨日の出来事を話した。来栖くんと横断歩道で会い、一緒に寄り道をしてマフィンを食べたこと、実はエスパーなんじゃないかと思った瞬間の話をしたら、由香は開口一番にマフィンの味とエスパーが混合した言葉を叫んだのだ。
「(違うよ由香! チョコチップじゃなくて、ええと、チョコチップ味を食べたのは合っているけれど)」
慌てて否定したが、声なき声だけでは否定出来ていないようだった。すぐにスマートフォンを取り出し、来栖くんはエスパーかもしれない、と画面に打ち込む。
由香はふうんと気のない返事をすると、どこぞの探偵のように顎に手を当て、眉間に皺を寄せた。
「アーモンドチョコチップ味ねえ。…じゃなくて、エスパーってどういうことよ?」
「(しーっ! 声が大きいよ)」
「ああ、ごめんごめん」
エスパーのことよりもマフィンの味を気にしているところが由香らしくて笑ってしまった。
由香は窓側の列の前から四番目にある来栖くんの席をちらりと見て、彼が今教室にいないことを確認すると、私の耳元に顔を近づけた。
「…エスパーなんじゃないかって、思ったってこと?」
私はゆっくりと頷いて、由香への返事を画面に打ち込んだ。
【笑っちゃうよね。テレビの見過ぎかな】
「そうだろうなあ」
由香は気のせいだよ、とくすくすと笑うと、タオルを手に教室を出ていった。
やっぱり、私の気のせいか。来栖くんは私が気付かないうちに、私の唇の動きを見つめていたのかもしれない。実は耳がとても良くて、自転車の走る音が聞こえていたのかもしれない。
ぜんぶぜんぶ、私の気のせいだったんだ。
ほどなくして、濡れタオルを手に持っている由香が戻ってきた。さっきまで濡れていた前髪が濡れているから、顔を洗ってきたのだろう。
由香は乱暴にタオルをカバンに仕舞うと、どかっと椅子に腰を下ろした。そして、訝しげな顔をしながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「来栖って、変な噂があるんだよね」
「(うわさ?)」
噂って、なんだろう。来栖くんの噂なんて、聞いたことがない。ひそひそと話していることには耳を傾けないようにしてきたから、その所為で知らないのかもしれない。
由香は私が首を傾げたのを見て、ああ、と頷いた。
「なんでも、気持ち悪いくらいに人が思っていることを当てたり、科学の奇人が作った期末のテスト、カンニングしたんじゃないか、って結果だったらしい」
「(え?)」
科学の奇人とは、我が学年の科学の担当教師のことである。変人で有名なその先生は、いつもテストでマニアックな難問を一問出していて、そのせいで満点を取れる生徒がいないのだ。
だが、今の由香の言葉からすると、来栖くんが満点を取ったということになる。それで、カンニングが疑われているのかな。
「まあ、あくまで噂だからね」
由香は苦笑を浮かべながら言うと、頃合いを見計らったように教室に入ってきた来栖くんへと目を向けた。
来栖くんはイヤホンで何かを聴きながら、眠そうな顔でやってきた。あまり眠れなかったのかな。
由香は噂の本人を一瞥すると、そっと窓へと視線を移した。
「…いつも本ばかり読んで、誰とも関わろうとしないし。何考えてるのかわからないし、天才なのかってくらいに頭はいいし。ミステリアスだよなぁ」
「(そう、だね)」
確かに彼はミステリアスだ。けれど、彼は…来栖くんは誰とも関わろうとしないのではなく、関われない理由があるんじゃないかと思った。優しく笑う彼には、人と関わらない理由があるのだろう。
何の根拠もないのに、そう思っている私が居た。
放課後、いつも通りに由香と廊下で別れた私は、昇降口へと向かっている途中で、見覚えのある後ろ姿を見かけた。
青いイヤホンをして、桜の花が入っている透明なキーホルダーが付いている鞄を肩に掛けているのは、今日一日私の頭から離れてくれなかった人だ。
「(くるすくん、だ)」
そう、生まれてから何十万回目かわからないくらいに吐き出した声なき声で、彼の名を叫んだ。
届いていないことくらい、わかってる。誰の鼓膜も揺らさないことくらい、嫌というほど知っている。コンプレックスだらけの駄目な人間だって理解しているけれど、彼の背中を見ると、その名を叫びたくなってしまうんだ。
彼は下駄箱を閉めると、私に背中を向けた。その結末に、途方もない寂しさが胸の内から溢れ出す。
ああ、やっぱり、彼はエスパーなんかじゃなかった。普通の人だったんだ。
「 」
私はもう一度、彼の名を唇に乗せて、口を閉ざした。
期待するのはもうやめよう。どう足掻いたって、私は声が出ない人間なのだから。
諦めて、一歩、足を前に踏み出した時。
「——日比谷さん?」
「(っ…!)」
彼は、声なき声に応え、私の方を振り向いた。
ねえ、来栖くん。どうしてあなたは、私の“声”に言葉を返してくれるのですか。




