絢爛(3)
それから、私は来栖くんと並んで横断歩道を渡り、駅へと向かって歩いていた。
人が行き交う忙しない空間を抜ければ、心地よい風が吹き込む広場に出る。
秋の風は気持ちがいい。肌寒いし雨が多いから嫌う人もいるが、私は秋が一番好きだ。
隣を歩く彼はどうなのだろう。そう思って、そっと横を見上げてみれば、来栖くんも私と同じように秋風に目を細めていた。
「(くるすくん)」
さして用もないのに、彼の名前を呟いてみる。音のない声に、彼が振り返るはずもないことをわかっていながら、永遠に空気に馴染まない声を放った。
もちろん彼は振り返らない。正しくは、彼“も”振り返らない。もしかしたら、なんて期待した私が馬鹿だった。やっぱり、私の声は誰にも届かないのだ。その事実を再確認する機会を作ったのは他の誰でもない私自身であるというのに、胸が腫れたように痛くなった。
馬鹿だなあ、私。私の声は、赤ちゃんの頃に失くしてしまったのに。どんな治療を受けても、途方もなく広い世界で捜しまわったとしても、永遠に戻ってこないのに。ぜんぶぜんぶ分かっているのに、この世界のどこかに一人くらい、私の声が聞こえる人間が存在しているのではないかと思ってしまうのだ。
そう思っていないと、人と会話をすることができない自分の存在を消してしまいたくなる。
私は隣を歩く来栖くんに気付かれないように小さなため息をこぼし、今日も変わらず青い空を見上げた。細くたなびいている薄い雲が、酷くゆっくりと空を泳いでいる。
明日も晴れるといいなあ、なんて思ったその時、肩を二、三回優しい手つきで叩かれた。
「日比谷さん」
叩いたのは来栖くんだ。一体どうしたのだろう。そう尋ねそうになった口元を手で覆い、彼の目を見た。
彼は少し前の私と同じように、焼き菓子屋さんから漂う甘い香りに誘われたのか、瞳を輝かせながらそっちを見ていた。同じクラスになってから一度も言葉を交わしたことがなければ、何も知らなかったクラスメイトの意外な姿に、不覚にも胸が大きく鳴る。
何を考えているのか分からない、不思議な男の子だと思っていたけれど、どこにでもいる普通の男の子なのかもしれない。
「(どうしたの、来栖くん)」
来栖くんは少し気恥ずかしそうに笑うと、私の耳元に顔を寄せ、囁きのような声でこう言った。一緒に寄り道をしないか、と。
いつもの私なら、すぐに首を左右に振って走り去っていたと思う。だというのに、今日の私ときたら、何だか変だ。
まさか、間髪入れずに首を縦に振るなんて。
「よかった。じゃあ、行こうか」
嬉しそうに言った来栖くんは、何の躊躇いもなしに私の手を掴むと、焼き菓子屋さんへと目掛けて大股で歩き出した。その後を彼に引っ張られるように歩いていた私は、何がどうなっているのか理解しきれず。目が回るくらいある焼き菓子のメニューを見るまで、頭の上にハテナを浮かべていたに違いない。
この時、どうして私は彼の誘いに頷いたんだろう。極力人と関わらないようにしている私を、彼はなぜ誘ったのだろう。
どうして彼は、声が出ない私と普通に接しているんだろう。
考えても、考えても、その理由は分からなかった。
来栖くんは店内に足を踏み入れた時は物珍しそうに辺りを見回していたものの、カウンターの向こうにいる白い割烹着を着ているおばあさんに目を止めると、慣れたように注文をしていた。
てっきり初めて来たのだと思っていた私は、おばあさんと親しそうに話している来栖くんの姿を見て、なんだか残念なような、寂しいような気持ちになった。
ここは私が子供の頃から来ていることもあって、毎月出ている新作を覗いた全メニュー制覇している。おすすめのマフィンを来栖くんに教えてあげようと思ったのに。
なあんだ、来たことがあるのか。そう口を動かして、二歩近づく。足音で気づいたのか、来栖くんが私を振り返った。
「日比谷さん、ホワイトチョコレートとアーモンドチョコチップ、どっちがいい?」
「(え…?)」
どっちがいい、とはどういう意味だろう。小首を傾げた私を見て、来栖くんが手に持っている二つのマフィンを私に突きつける。
「どっち、食べる?」
「(え、ええ?)」
突然の甘いしあわせな質問に驚いた私は、来栖くんの顔と手元を交互に何度も見た。どちらを食べるって、どちらかを私にくれるってことだよね。
「(い、いいの?)」
そうパクパクと口を動かす私に、来栖くんは優しく微笑んで肯定する。それを見た私は、昔ここに来た時のように顔を綻ばせ、来栖くんの手元に目線を合わせて屈んだ。
「(うーん、どっちにしようかなあ)」
「そんなに迷う?」
思いがけない究極の選択に本気で迷っている私の頭上から、柔らかい声が落ちてくる。声音から、来栖くんが楽しそうに笑っていることを知った。
「(だって、どちらも私が一番好きなものなんだよ。迷っちゃうよ)」
「…うん」
私は声が出ない人間であることを忘れて、まるで普通の人のように唇を動かしていた。音にならないことくらい、嫌というほど知っているのに、音にならない言葉を空中に出してしまったのだ。
だって、来栖くんが聞こえたよ、とでも言うかのように返事をしたから、つい忘れてしまったんだ。