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倒景(1)

「今年も匂うなぁ」


 長い雨が終わり、晴れた空の下を歩いて登校した翌日。朝練を終えたばかりの由香と廊下で会った私は、たった今由香が言った言葉の意味を理解して笑った。


 今年も匂うもの。それは、毎年この時期になるとオレンジ色の小さな花を咲かせる秋の花のことだ。ほんの少しだけ開いている窓から、風に乗ってやってきては、私たちの鼻をくすぐっている。


【今年は、咲くのが少し遅かったね】


「毎年花の手入れをしてるじいさんが、腰を痛めたとかなんだかで入院してたらしいから、その影響だな」


 由香は窓を大きく開けると、身を乗り出して鼻を動かしている。去年も一昨年もそうやって匂いを嗅いでいたな、と思い出した私は、懐かしい気持ちになりながら小さく笑った。


 秋が濃くなった。けれど、それと同時に冬に近づいていく。まだまっさらな銀世界になってほしくないなぁと思った私は、風でほころぶように葉が落ちていく銀杏の木を眺めながら、そっと息を吐いた。


 秋が終わってほしくないと強く思うのはなぜだろう。



 移り変わっていくのは外の景色だけだ。私がいる教室は何も変わっていない。クラスメイトたちは今日もいつもとそう変わらないやり取りをしながら、のんびりと生きている。


 それは彼女たちにとっては当たり前で、彼らにとっては普通のことなのだろう。私だって、由香と話すことは毎日似たような内容だ。


 今日は違うものを、明日は新しいものを、と変わることを望んでいるわけではないが、ふと、同じ日々を何度か繰り返している来栖くんは、変化を求めないのかと疑問に思った。いや、変化を求めているから、同じ季節を繰り返しているのだろう。


 この秋を繰り返す理由が、彼にはあるのだ。


「えー、今日から文化祭準備が始まるが、お祭り騒ぎで揉め事を起こさないようにな」


 あの雨の日から四日後の朝。いつものホームルームで、文化祭が近いことを知らされた。その後すぐに四月に決めた文化祭実行委員が準備していたプリントを配布し、一限目の授業が担任の教科であることを利用して、クラス会議が始まった。


 文化祭の実行委員はキラキラしている女の子二人だ。名前は分からないが、クラスで決め事をする時にはいつも前にいた気がする。


「多数決の結果、このクラスの出し物は喫茶店で決まりましたー」


 トン、と女の子の一人が黒板を叩いた。そこにはたった今多数決で決まったことが大きく書かれている。


「これから役割分担を決めるんだけど……」


 私はそれを他人事のように眺めながら、ちらりと隣に視線を送ってみた。


 来栖くんはあろうことか本を読んでいた。その真剣な表情から、本に熱中していることは明らかだ。彼女たちの話は聞いていないように見える。


 彼はどんな本を読んでいるのかなあと思った私は、少しだけ身を乗り出してそれを盗み見ようと試みたが、体勢が体勢なのか本のタイトルを知ることは叶わなかった。それに気づいたのか、彼はサッと本を閉じて私を見ると、くすくすと笑う。


「知りたいのは、本のタイトル?」


 ばちっと合った彼の瞳の色は、今日も灰色を帯びている。私は一気に騒がしく動き始めた心臓の音を聞きながら、こくりと頷いた。


 来栖くんは爽やかに笑うと、手に持っていた本を私に差し出した。それを受け取った私は、彼の視線を独り占めしていた本のタイトルをなぞるように見た。


「(あせびがぼくを、なきものにする……?)」


「馬酔木が僕をなき者にする、だよ」


 美しい表紙からは連想できない、不穏な言葉が並んだタイトルだ。そう思った私を見透かしているのか、来栖くんは失笑しながら「不思議なタイトルだよね」と言う。


 不思議も何も馬酔木が何なのか分からない私は、とりあえずどんなストーリーなのかを聞いてみた。


「ストーリーか…。ラブストーリーなんだけど、ミステリーも入ってて、ハッピーエンドじゃない話って言えばわかりやすいかな」


「(暗めのお話なの?)」


「そうだね。あなたが想像するようなラブストーリーではないかもしれない」


 でも僕はこれが好きなんだ、と。そう言った来栖くんの笑顔がお砂糖のように甘くて、融けてしまいそうなくらいに綺麗で、今日も私の心臓は勝手にときめいてしまう。


 何をときめいているんだ、私。綺麗な男の子に耐性がないからって、ときめいてばかりいると気づかれてしまいそうだ。


 私は「そうなんだね」とぱくぱくと口を動かし、黒板の方を見た。そこには、さっきまで書かれていなかった役割分担や細やかなことが書かれている。


 予想通り「その他」の欄に自分の名前が入っているのを見た私は、内心残念に思いつつも胸を撫で下ろし、先ほど見たタイトルをぼんやりと思い出した。


 雑務は雑用係のことだ。声が出ない私は当然店番は出来ないし、宣伝もできなければ調理も難しいだろう。彼女たちなりに気を遣ってくれたのだと思うが、みんなの輪に入れないのはやっぱり寂しい。


『…お前、障がい者と俺らが平等な人間だとでも思ってるのか?』


 ふいに、あの冷たい雨の日にぶつけられた言葉を思い出した私は、ぎしぎしと痛んできた胸に手を当てながら、静かに息を吐き出した。


 これはしょうがないのだ。仕方のないことなのだ。そう何度も自分に言い聞かせながら、一限目が終わるのをひたすらに待った。


 そんな私を、隣に座る来栖くんが見ていたとは知らずに。


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