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斜陽(5)

 ツンと鼻にくる薬品の匂いがした。その香りは、家でも嗅いだことがある。どんな時だっただろう、と思った私は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。


「(……あれ、ここは)」


 目の前には白いベッドが三つ並んでいた。その周りにはよく病院で見る丸椅子や、空間を遮断するためのカーテンがある。日比谷さん、と聞き覚えのある声が耳に入ってきた時、私は保健室にいることに気が付いた。


 いつの間にか、目の前にはタオルを持っている来栖くんの姿があった。


「(来栖くん?)」


 その存在が本物なのか、これが現実であるのかを確かめるように呼べば、頭の上からタオルを掛けられた。


「守ってあげられなくて、ごめんね」


 柔らかなタオルに視界が遮られて、彼の顔が見えなかった。


 私はタオルで髪を拭いながら、恐る恐る顔を上げて、ひっそりと口を動かした。それでも彼は、私の口元をじっと見つめてくれていた。


「(どうして、来栖くんが謝るの。悪いのは全部私だよ)」


「いや、俺のせいだ。……また、守れなかった」


「(また?)」


 また、ってどういう意味だろう。まるで、さっきのような出来事が初めてではないような言い方だ。


 それは彼が言っていた「この秋を繰り返している」ということに何か関係があるのだろうか。彼にとって何度目かの今日は、私の身に何かが起きる日なのだろうか。そこまで考えて、やめた。こんなこと、彼が知って何になると言うのだ。


 彼は頭を拭く手を止めた私を見ると、脇に置いていたタオルを手に取り、それで私の頭を拭き始めた。こうして私の頭を拭くことも何度目かの出来事なのだろうか。この後起きるかもしれないことも、明日の予定も、何度目かの日なのだろうか。


 もしそうなのだとしたら、彼は一体何のためにこの秋を繰り返しているのだろう。以前言っていた、私と同じように声が出ない人のためなのかな。いや、きっとそうだ。だって、手話を学んで、唇を読む技術を身につけるくらいだもの。その人のことが大切だからに決まってる。


「日比谷さん?」


 来栖くんの呼びかけで、私はハッと顔を上げた。水滴はもう髪から落ちていない。彼が拭いてくれたからだ。


 彼は私の頭をそっと撫でると、畳まれているシャツとジャージのズボンを私の真横に置いて、カーテンを引いた。


「……外に出ているから、着替えて。風邪を引いたら困るし」


 この着替えも、今日私が雨に濡れることを知っているから、用意していたのかな。そんな最低なことを考えてしまった私は、来栖くんに気づかれないようにため息をこぼした。


(……どうせなら、風邪をひいて、寝込んでしまいたい)


 出来れば、ずっと。なんて、馬鹿らしいことを考えてしまうのは私が弱い人間だからだ。


 私はゆっくりとブラウスのボタンを外しながら、またため息を吐いて、自嘲気味に笑った。その時、カーテンが波打ったように揺れた。


「それは困るよ、日比谷さん」


 カーテン越しに私の鼓膜を揺らしたのは、ほんの少し寂しそうな来栖くんの声だ。


「日比谷さんに会えないのは、嫌だ」


 甘いクリームを重ねるように放たれた声が、否応なしに鼓動を高鳴らせた。


「(え……?)」


 今、私は彼に心を読まれてしまったのだと思う。


「そう思っているんだけど……だめかな?」


「(あの、よく、意味が……)」


 一体どういうつもりで言ったのだろう。私に会えないのは嫌だなんて、期待をしてしまう。それがどんな気持ちに関する期待なのかは、煩く鳴っている心臓のせいで意識が向かなくて、考えられなかった。


「日比谷さん」


 彼がまた私の名前を呼んでいる。けれど、返事ができなかった。なんだか息苦しくて、頷くことすらできなかった。それを感じ取ったのか、それとも察したのかは分からないが、彼は「なんでもない」と言うと、少し離れたところに行ってしまった。


 ここに来てから、私の心はどこまで読まれているのだろう。もしも最低な考えまで読まれていたらどうしよう。彼の能力は凄いけれど、怖くもあるんだなと思った。


 それから、私は来栖くんと一緒に教室へと戻った。本当は戻りたくなんかなかったし、そんな勇気なんてどこにもなかったのに。


『大丈夫。僕が傍にいるから』


 そんな私を甘やかすようなことを言った来栖くんは、その言葉通り、私の手を引いて教室へと連れていってくれたのだ。


「——愛理っ!!」


 教室に戻った私を一番に迎えたのは由香だった。私の姿を見るなり、顔をくしゃくしゃに歪めてすっ飛んでくると、私を掻き抱く。


 由香の後方には、私たちを伺うように見ている男子生徒や女子たちの姿もあった。


「……日比谷」


 何人かの男子生徒が集まっている輪の中心にいた子が、私の名前を呼ぶと近づいてくる。


「日比谷、さっきはごめん」


 それに続いて、他の男子生徒たちもやって来るなり、それぞれに言葉を紡いでいった。


 ついさっき、彼らは私に心ない言葉を容赦なく投げてきたのに、一体どういうつもりなのだろう。


「お前の気持ちを考えもしないで、最低なことを言った」


「俺たち、来栖に言われたんだ。…“もし明日、お前たちが突然視力や聴力を失ったら、同じ目に遭わせてやる”って……」


「障がい者だからどっかに行け、って言ってやるって」


「……目が見えないだけで、耳が聞こえないだけで、声が出ないだけで、俺たちと同じように心があるのにな」


「本当に、ごめん」


 その言葉の後に、最後の一人が頭を下げると、それに倣うように彼らは深く頭を下げた。


 予想だにしていなかった事を目の前にしている私は、何も言えずに彼らを見つめていた。心の中が、悲しみと安堵で綯い交ぜになっている。


 何か言わなくてはならないのに、何も出てこない。さっきのように障がい者だからと差別をされるのはよくあることだし、酷いことを言われるのも少なくはない。そう言ってしまったことに対して、彼らが謝罪をしてくれたのは分かっているのだけれど。


 大丈夫だよ、と言えるほど、私は強くない。


「……許しては駄目だよ、日比谷さん」


 どうすればいいのか分からないでいる私の肩に、来栖くんの手が乗る。そっと振り向けば、彼は静かに男子生徒たちを見つめていた。


「許したからと言って、何かが変わるわけじゃない。だから、いつか許してもらえるように、生きていってもらうんだ」


「(……うん)」


 来栖くんの言う通りだ。ここで許したからと言って、クラスメイト全員が私に対しての態度が変わるわけじゃない。でもだからと言って、「許さない」と言える権利は私にない。私に声がないのが悪いのだから。


 許したいけれど、許せない。そんな感じだ。


「……帰ろ、愛理」


 由香の声で顔を上げた私は、消化しきれなかった気持ちを抱えながら、彼らに背を向けた。背中に突き刺さる無数の視線は、いつもほど痛くはなかった。それは、私が教室から逃げ出した後、来栖くんが彼らにあのようなことを言ってくれたからだ。


 荷物をまとめて教室を出ると、一足先に廊下に出ていた由香がいる。なんと、その隣には来栖くんもいた。


 彼は私が来ると、由香に向かって「ごめん」と言う。


「ごめんって、何が?」


 来栖くんは由香の前で私の手を取ると、ぐいっと引っ張った。


「今日は僕が一緒に帰るから」


「はあ? 雨の日しか一緒に帰れないのに、譲るわけないだろ」


「僕も、今日は譲れない」


 何を争っているのだろうと思えば、二人はどちらが私と帰るのかを巡っているようだ。口論するほどのことでもないのに。


 負けず嫌いの由香が諦めるわけがないと思った私は、二人の手を取り、ぶんぶんと振った。


「(……あ、あの、二人とも。三人で帰ろう?)」


「……いや、これは真剣勝負でじゃんけんだ! 来栖、かかってこい!」


「え? じゃんけん?」


 由香は腕まくりをすると、スポーツ選手がレース開始の時にしている何とかスタートのポーズを取っている。それを見た来栖くんはぱちぱちと瞬きをすると、声を上げて笑い出した。


 気づけば私に降っていた冷たい雨はもう止み、黒い雲の隙間から青空が顔を出していた。


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